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21. 再出発

「今年も残暑厳しくなりそうだ……」

 ノブさんが、夏の夕焼け空を見上げて言った。赤と青が交じり合う、絶妙のコントラストが、ある種幻想的にたなびく雲を沿えて、夏の夕暮れに相応しい鮮やかさが見て取れた。

 ここに足を運んで、一時間以上が過ぎ、思わぬ長居をしてしまったことに、多少焦ってしまう。そこで、一刻も早く、世界樹のもとへと急ぐべく、お暇を請うことにしたのだ。靴を履くぼくに、ゆっくりしていけばいいのに、という顔をノブさんは差し向けてきた。普段、来客も乏しいのだろう。その気持ちも分からなくもないが、役場の担当の女性……昼間に、電話口で話したあのちょっと神経質そうな声の女性に、夏八木での住まいへ案内してもらう、約束の時間がある。こちらとしては、医療ミスをしたぼくの身の上を預かってもらう、という立場故に、いきなり遅刻するのは気が引ける。しかし、すでに、空は夕刻の刻限を示し、おそらく、遅刻は免れないだろう。それでも、ぼくは世界樹のもとに辿りつきたい。そういうのを、傲慢と呼ぶことは分かっているつもりだ。

「あわただしくして、すみません。今度、お邪魔するときは、是非ゆっくりさせていただきます」

 靴を履き終えたぼくは、名残惜しむようなノブさんに、手を差し出した。ノブさんは、求めに応じるかのように、固くぼくの手を握り締め、握手を交わす。あの頃より一回りも二回りも大きくなったぼくの手も、ごつごつとした職人の手になったノブさんの手も、お互いに歳月を刻んでいた。

「その時は、皿の一つでも買って行ってくれると嬉しいんだが……」

 冗談めかしてはにかむと、ノブさんは言った。ぼくも、笑みを返す。愛想笑いのつもりではない。真剣に、医師として、この街に根を下ろすのであれば、独り暮らしとは言え、そういった生活用品も必要だろう。しかし、それもこれも、ぼくが医師を続ける覚悟があるのか、その決意に掛かっているといっても過言ではなかった。

 答えは出ているのだろう? 分かっている。道は一つしかないことくらい。それでも、ぼくはまだ迷っている。優柔不断だと罵ってくれても構わない。ただ簡単に結論を下していいことではないのだ。

 自分が使命と思っていることから逃げたしたら、人は本当の意味でダメな人間になってしまう。二十年前、彼自身は教訓のつもりでいったのではないにしろ、留守さんが教えてくれたその言葉の意味どおりに、解するならば、医者はぼくにとって使命なのか。

 二十年前、ぼくは何を思い、何のために、医者であることを目指したのか……。

「山の陽はすぐに暮れてしまう。道中気をつけて。まあ、あの頃はこんなチビだった君も、すっかり大人になった。心配することもないだろう。帰りは、こおろぎ山の反対側を下りていくといい」

 握手の手を離したノブさんは、こおろぎ山の方角を見つめながら、そう言った。

「反対側……ですか?」

「ああ。二十年前と違い、夏八木にも、道路整備事業とかなんとかという、お役所の仕事が廻ってきてね、こおろぎ山の北側。つまり、こちらからとは反対側に道が整備されているんだ。アスファルトの立派なやつ。一応、こおろぎ山は、夏八木にある数少ない観光スポットだからね」

「観光スポット。そんな風に捉えたことは、一度もなかったです」

「そりゃそうさ。世界樹と、君たちが呼んでいたあの木が一本、どん、と生えてるだけ。あとは、夏八木を一望できる眺望しかないのは、君だって知ってるだろう? とにかく、来た道を引き返すよりは、新しい道を下りた方がラクだ。一刻半もあれば、駅前通りまで戻ることが出来るから」

 にこやかなノブさんに、慇懃に頭を下げたぼくは、ボストンバッグを片手に、留守さんの、改め伸由さんの工房を後にした。

 二十年という月日はそれほど短いものではない。だから、子どもの足とは言え、あの日、丸一日半をかけて歩いた、長い道のりも、たった一時間ばかりの道のりに変わっていたしても不思議ではない。それだけ、この街は外見以上に、変わってしまったのだ。ヨンちゃんの家もコンビニになり、通いなれた小学校も新たな校舎になり、そして、あの日仏頂面の奥に優しさを垣間見せた陶芸家は、もうこの世にいない。

 それでも、あの日歩いた道は、確かにここに残っている。変わったもの変わらないものが、ある種矛盾なく交じり合った場所を、心に矛盾を抱えたままのぼくが、辿る。そのことのほうが不思議なことのように思えた。

 二十年前、ヒメを救うための旅も、二十年後失意のぼくが辿る旅も、もう直終わりを迎える……。その時、ぼくは心の矛盾を解き放つことが出来ているのだろうか? それは、まだぼくにも分からないことだった。


 寝苦しかったはずが、いつの間にか寝息を立てている。ということは、良くある話。そういったときは、決まって寝坊してしまい、母に叩き起こされることが多かった。だけど、その日は違った。まるで朝日が昇り始める刻限が分かっているかのように、自然とまぶたが開き、体にエンジンがかかる。「あと五分だけ」という単語は、思いつかないくらい、すっきりとした目覚めに、ぼく自身が驚いた。

 もっとも、全身に漂う疲労と倦怠感はあったものの、そんなもの、布団から起き上がれば、すぐに吹き飛んでしまう。ぼくは、とりあえず隣で眠るヨンちゃんをゆすり起こした。感心できない寝相のヨンちゃんは、すっかり布団も跳ね除けて、何故か枕を抱きしめている。その変な格好に思わず笑い出したくなったけれど、声を立てるわけには行かなかった。

「起きて、ヨンちゃんっ」

 肩口を強くゆすってやったけれど、ヨンちゃんはムニャムニャと口元を曲げながら目を覚まさない。蹴っ飛ばしてやるのも手だけど、昨日崖から落ちそうになったぼくを救ってくれた、命の恩人たる親友に暴力は、それこそ感心できない。

 よし。ぼくは、独りで会釈すると、そっとヨンちゃんの耳元に顔を近づけた。

「おい、杉浦っ!! 何を寝とるかっ! 授業が真面目に受けられないなら、廊下に立ってろっ!!」

 なるべく大人の男の人の声に近づけるべく、低い声を作ってヨンちゃんの耳元で声を荒げた。科白は、担任の先生の真似。いつも、授業中にこくりこくりと、舟を漕ぐヨンちゃんは、担任の先生にそう言って叱られている。

 案の定、ヨンちゃんは、「ごめんなさいっ!!」と口走って、飛び起きる。そして、傍でクスクスと笑うぼくの顔を見ると、わなわなと震えた。

「なんだよう、シュウちゃんっ!」

「しっ、大きな声を出さないっ。リコ、起きてるかなぁ……」

 怒るヨンちゃんを窘めてから、ぼくは襖戸の向こうを見遣った。廊下を挟んだ部屋では、リコが寝ているはずだ。女の子の部屋に飛び込むのは、一応男としてマナー違反だということは分かっている。そんなぼくに怪訝な顔を向けるヨンちゃんを他所に、どうしたものかと思案していると、不意に襖が開き、当のリコが顔を出した。

「起きてるわよ。誰かさんと違って、わたし、早起きだから。でも、早起きして、どうでもいいことに気付いたんだけど……」

「気付いたことって何?」

「ラジオ体操。今日の分、サボることになっちゃうよね。皆勤賞狙ってたのに」

 ホントにどうでもいいことだ、と思ったけど、元気印の彼女にとって、ラジオ体操は重要不可欠なものだということを知っている以上、余計な口を挟めない。

「よし、みんな揃ったね。それじゃ、出発の準備しようよ」

 と、ぼくが腰を上げると、やはりヨンちゃんが怪訝な顔を向けてくる。

「行くって、あの怖い小父さんに、世界樹の所まで連れて行ってもらうんじゃないの?」

 ヨンちゃんの言う、怖い小父さんとは留守さんのことだ。本当は、乃木んの計らいで、留守さんに送って行ってもらう予定だった。もちろん当初は、乃木さんが言ったとおり、子どもとして大人の厚意に甘えるつもりだった。だけど、昨日の夜、気が変わった。

 いくら子どもだからと言って、留守さんがとても忙しくしているのを知ってもなお、甘えることは出来なかった。遠慮というより、むしろ、世界樹へは、ぼくたちの足でたどり着かなければなければいけない。これは、ぼくたちが最初に決めたことだ。留守さんには、登り窯を監視し、素晴らしいお皿や花瓶を作るという仕事がある。そして、ぼくたちは、どんな病気にも効くという世界樹の葉っぱを取って、病に苦しむヒメを助けなければならない。その二つは、全く別のことなのだ。

 そういうことを、ヨンちゃんに話すと、ヨンちゃんは少しだけ不安がりながらも、了承してくれた。ただ、リコが同じ考えだったのは、驚きだった。

「だって、昨日、登り窯の温度が上がらないって、ノブさん言ってたでしょ? わたし、お父さんから聞いたことがあって、登り窯って一度火を入れると、三日三晩つきっきりじゃないといけないんだって。そんな忙しいときに、わがまま言ったらいけないもの」

 曲がったことが大キライで、真っ直ぐな性格のリコらしいといえば、リコらしい意見だった。

 ぼくたちは、なるべく音を立てないように、布団を押入れに戻し、卓袱台に書き置きを残すことにした。一宿一飯のお礼と、何も言わず出発することへのお詫びを、ぼくたちの中で、以外にも一番字のきれいなヨンちゃんが書いた。

 それから、工房を抜け出す。幸い、登り窯は工房の裏手に位置している。ぼくたちがこっそり抜け出したとしても、火の番をする、留守さんやノブさんが気付くことはなかった。

 ぼくは、玄関を出た後、裏手に向って深々とお辞儀した。それに倣って、ヨンちゃんとリコも頭を下げる。ありがとうございました、を胸の内で思い描きながら、ぼくたちは工房から立ち去った。

 一路でこぼこの道を歩き、山道へと戻る。ヨンちゃんの言葉を借りるならば、こおろぎ山への道筋はこうだ。

「まず、地獄の門をくぐりぬけ、死神の道を辿り、荒れ狂う大蛇の川を越える。そして、果て無き平原を歩き、谷を越えた先に目指す、こおろぎ山があるんだ」

 地獄の門が、神野たちが待ち構えていた線路下のトンネルならば、死神の道はあの鉄橋。そして、大蛇の川は鉄橋の下をくぐる川。そうすると、残る葉、果て無き平原と、谷。その旅程の先に、ぼくたちが目指す「世界樹」があるんだ……。急がなきゃ、時間はそれほど残されていない。

 誰ともなく、ぐっと決意を胸に、ぼくたちは頷きあって山道を歩き出した。


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