2. ヨンちゃん
「今時無人駅もめずらしい」とか「よく廃線にならなかったな」などと、不遜で勝手なことを思うのは、普段自分が、忙しない喧騒の中に暮らしているからで、むしろ、駅の向こうに広がる田舎町の、のどかな風景の方が、輝いて見えるような気がした。
駅を出ると、小さなロータリーがあり、更に道は商店街の方へと延びている。商店街といっても、アーケードもなければ、高いビルなど一つもない。道の両端に、瓦に夏の太陽を輝かせた、生活雑貨店や食料品店がの軒が並ぶだけで、これといって賑わいを見せてはいない。「ド」がつくくらい田舎らしい過疎に、寂れていると言った方がいいのかもしれない。ただ、ぼくはそれとは全く違う感慨を持っていた。
夏を彩るセミの鳴き声を背に、炎天下を歩けば、右手に見える、脂っこいコロッケが売りの精肉店も、い草の匂いが心地よい畳店、金盥や鍋が所狭しと並べ立てられた金物屋、「モダン・ブチック」と言っている時点で流行から逸脱した衣料品店も、まるでセピア色になったぼくの二十年前の記憶と変わっていないことに気付く。
そう、この街だけが二十年前で時を止め、ぼくの帰りを待っていたかのようだ。懐かしさに、ぼくは胸がいっぱいになった。どうして、二十年も前にこの街を離れたぼくを、この街は温かく迎え入れてくれるのだろうか……。それは、ここが生まれ故郷だから、と言う答えが出る前に、通称「バス通り」と呼ばれた、街で一番大きな県道沿いに出たところで、ぼくの心に突然冷たい風が吹いた。
もちろん、季節は夏真っ盛り。汗が額から流れ落ちはするものの、寒気を感じることなんてありえないはずなのに、ぼくはゾッとする。郷愁に浸っていたぼくの目の前に現れたのは、コンビニエンスストア。二十年前までは、こんなものはなかった。青色の看板も、昼間から煌々と灯りをたく四角い店舗も、商店街の外れとはいえ、田舎の風景には不釣合いだと、思う。
そりゃ、そうだ。十年間も変わらないものなんて、この世にはない。ぼくが大人になったように、この街も時間を刻んだ結果、ここにコンビニが出来たとしても、それは不思議なことではない。ただ、懐かしさに綻ぶ心が、一気に現実に引き戻されるのは、あまりいい気がしなかった。
そういえば、ここにあったのは……。ふと、記憶を手繰り寄せる。
「あれ? シュウちゃん? おまえ、野崎秋人だろ!?」
思案に気を取られていたぼくは、コンビニの中から駆けて来た男の気配に気付いていなかった。不意打ちのように、突然声をかけられ、コンビニの前に棒立ちするぼくは、「わっ」と思わず驚きの声を上げてしまう。
「なんだよう、そんなに驚くことはないじゃないか」
と、親しげな口調でぼくの顔をニコニコと覗き込むのは、コンビニ店員の制服を着た、ぼくと同い年くらいの男だ。メタボリックになるには、まだ早い年齢にもかかわらず、すでに下腹がでっぷりとして窮屈そうだ。さらに、顎の周りにも余分な脂肪がつき、二十年前とはかけ離れてしまった輪郭に、かつての面影を探すのは大変だったが、その男のことを忘れるはずもなかった。なぜなら、彼は約三十年来の幼なじみなのだ。物心つく前から、ともに野山を駆け回り、一緒に笑い、一緒に叱られて、一緒に泣いた、竹馬の友。今でも、年賀や折々の季節の手紙などで、直接顔をあわせることこそないが、連絡を取り合ってはいる。
「ヨンちゃん!? おおっ、ヨンちゃんだ! 突然、現れるからびっくりしたじゃないか」
ぼくの顔に笑顔が宿る。すると、すっかり容姿の変貌してしまったヨンちゃんこと、杉浦四郎の顔も綻んだ。
「そりゃこっちの科白だ。亡霊みたいな顔して、ウチのコンビニの前に突っ立ってりゃ、イヤでも目に付くさ。それが、十年来連絡もよこさない、親友なら尚更だ」
そう言うと、ヨンちゃんはぼくの背中を、無遠慮に何度もはたいた。もちろん、友情の証と、嬉しさを表現してのことなのだろうが、ぼくの脳裏には看護師の平沢さんにそうされるような感覚を覚えてしまう。
「とにかく、積もる話もある。入れっ! ここじゃ、暑くてかなわん」
と、ヨンちゃんは有無を言わせないといった具合に、ぼくの手を強引に引っ張って、コンビニの中へ連れ込む。来客を知らせるベルの音とともに、アルバイトの子なのだろうか、高校生くらいの女の子がレジの向こうから、少しだけ戸惑った顔をしながら、「いらっしゃいませ」と定型の言葉をくれる。
「コイツは客じゃない。俺の親友だ。ちょっと仕事サボるから、後頼むな」
「えっ? 杉浦店長っ!?」
戸惑うバイトの子に「今日だけ時給五十円アップしてやるから」と言い残すと、ヨンちゃんはずいずいとぼくを店の奥に引っ張り込んだ。
賞品棚の間を抜け、一番奥にあるスタッフ・オンリーの扉を開くと、そこは小さな事務室だった。店内と同じく、空調が良く効いていて、流れ出た汗が一気に冷やされる。
「そこの椅子にでも座って、ちょっと待ってろ」
ヨンちゃんはそう言うと、事務室を出て行く。ぼくは、所在なさげにボストンバッグを床に置くと、小さな丸椅子に腰掛けた。すぐにヨンちゃんは戻ってきたが、その両手には売り物らしきペットボトルのお茶が握られていた。
「このあたりは、何にも変わらないだろう。発展とは縁遠い田舎だからな。それにしても、二十年もの間、顔一つ見せなかったのに、突然やってくるなんて、何かあったのか」
「まあ、そんなところだ」
ぼくは濁すように返事をすると、ヨンちゃんからペットボトルを受け取った。先ほどまで冷蔵庫で冷やされていたらしいお茶は、僅かな渋みとともにぼくの渇ききった喉を潤していく。思えば、電車に乗ってからこの街に着くまでの、三時間以上、水はおろか何も口にしていないことに気付いた。
「一度も顔を見せなかったんじゃないよ。親父の都合で、あっちに転校してからは、この街が遠すぎたし、それによそ者のような気がしてた」
「よそ者って……ここはお前の生まれ故郷だろ。それに、十歳まではここで俺たちと一緒に過ごしたんだ。それに変わりはないだろう」
「まあ、そうなんだけどな、子ども心に割り切れなかったんだよ。それよりも、ヨンちゃんが店長ってどういうことだよ。ここ、二十年前まではコンビニじゃなくて、ヨンちゃんの祖母ちゃんの駄菓子屋だったろ?」
「ああ、それは三年前までの話だ。今時、駄菓子屋で食っていけるご時世じゃないし、それに、祖母ちゃんは三年前にポックリいったよ。だから店畳んで、今は、こうしてコンビニやってるよ。自宅は郊外に新築。嫁と一歳の息子、それに親父とおかんの五人で暮らしているよ」
ヨンちゃんが事も無げに言う。
「二十年か……」
ペットボトルを事務机に置いて、一息つく。
「あの頃、ヨンちゃんたちとつるんで、バカみたいに街の端から端まで駆け回っていたのが、昨日のことのようなのに、それでも、二十年は短いようで長い時間だったってことか。それにしても、ヨンちゃん」
ぼくは、向かいに座るヨンちゃんのお腹を指差した。
「しばらく見ないうちに、まあご立派なお腹になったな。あの頃、ガリガリで骨と皮だけみたいだったのに、まるで別人のようじゃないか」
「言うな。日ごろの運動不足が祟ったんだよ」
「違うだろ、幸せ太りじゃないのか?」
「それも……ある」
と言って、ヨンちゃんはぷうっとふき出した。よほど、嫁のことを愛しているのか、生まれて一年の長男が可愛いのか、取りとめもなく、幸せそうなヨンちゃんの家族自慢が始まった。羨ましく思う気持ちはあるけれど、それにも増して、親友が幸せであることはこの上なく嬉しいことでもある。ぼくは、そんなヨンちゃんの話しに、しばらくの間耳を傾けることにした。
「そういう、シュウちゃんだって、不健康そうじゃないか。ちゃんとメシ食ってんのか? いくら、医者が忙しいからって、『医者の不養生』なんて洒落にもなんねえぜ。そんなに、大学病院の先生ってのはご多忙なのか?」
たっぷり三十分、嫁との馴れ初めから、現在に至る杉浦家の始まったばかりの歴史を語り明かしたヨンちゃんが、不意に家族自慢からぼくの方へと、話を方向転換してくる。
「まあね。それよか、リコは? 元気にしてるのか?」
ぼくがわざと話題を逸らしたのは、ヨンちゃんにも伝わったのだろう。怪訝な顔をしながらも、ぼくがそれ以上聞くな、と言っているように見えたのかもしれない、ヨンちゃんはフっと小さく笑うと、
「俺たちの母校『夏八木小学校』で教師をやってるよ。今じゃ二児の母だよ。こっちへ里帰りするたびに、誰かさんとは違って顔を出してくれる」
と、皮肉めいた口調で言った。もちろん、その「誰かさん」とはぼくのことだ。
リコというのは、ヨンちゃんと同じくぼくたちの幼なじみの女の子で、名前を高瀬梨花と言う。曲がったことが大キライで、四角四面な女の子だったが、腕っ節はぼくたち三人の中でも一番強く、どちらかと言えばリーダー格と言っても過言ではなかった。
「幸せにやってるなら、それでいいさ。ふうん、あのリコが教師か。何の意外性もないなあ」
と、感慨深くぼくが言うと、突然ヨンちゃんは眉をしかめた。
「聞いてないのか? さては、お前リコちゃんとも連絡とってなかったな」
ヨンちゃんと同じように、彼女からも年賀などの手紙は今でも欠かすことなく届いている。四角四面だった彼女らしく、きれいに整った手書きの葉書は印象深いが、彼女にもなにひとつ返事を返したことがない。
無言を肯定と受け取ったヨンちゃんは、口をへの字に曲げると、「友達甲斐のないやつだな」と言った。あまりに意味深な態度に、却ってぼくが怪訝な顔になる。
「何か、リコの身にあったのか?」
「そいつは、本人から聞けよ。ホレ、リコちゃんの電話番号。ダチなら、ちゃんと連絡しろよ」
そう言って、ヨンちゃんは事務机の隅にあったメモ用紙に、電話番号を書いてぼくに手渡すと、叱責するような視線を向けてくる。ヨンちゃんは家でも、こんな風に息子に対して父親をやっているのだろうか。だとすれば、本当に二十年と言う月日はあまりにも長かったのかもしれない。ぼくは、そんな視線と時間の流れから逃げるように、室内に目を泳がせた。壁にかけられた、質素な掛け時計の針が、細いV字を描いている。時刻は午前十一時を廻ったところ。
「ごめん、ヨンちゃん。これから、寄るところがあるんだ。悪いけど、これでお暇させてもらうよ」
ぼくは、椅子を跳ね除けるようにして立ち上がり、ボストンバックに手をやる。すると、ヨンちゃん心底残念そうに、眉を垂れた。
「なんだ、もう言っちゃうのか?」
「また顔見せるよ。心配しなくても、しばらくはこっちにいることになる予定」
「しばらくって、お前……」
ヨンちゃんが、事務室を出て行くぼくを訝るような視線で追いかける。言いたいことは分かってる。だけど、あえて言葉に出してくれるなと、ぼくは背中でヨンちゃんに釘を刺した。代わりに、ヨンちゃんはぼくの背中に向かって言う。
「なあ、シュウちゃん。本当は何かあったんじゃないのか?」
ぼくはそれに答えることなく、無言で事務室のドアをくぐった。ヨンちゃんが追いかけてくる気配はない。ぼくは、アルバイトの女の子に「お邪魔したね」と言って、ヨンちゃんがくれたお茶の代金を支払って、コンビニを後にした。
外に出ると、再び夏の熱気に汗が噴出す。南天でギラギラと燃え上がる太陽を見上げながら、ぼくは、ボストンバッグ片手に、田舎の街道をひた歩いた。
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