19. 師匠と弟子
山の外れに、古びた家屋がある。家屋と呼ぶには、あまりにも小ぢんまりとしていて、瓦葺の屋根も、土壁もボロボロで、小屋と呼ぶ方が相応しく思えてくる。果たして、二十年前に見た「留守陶芸工房」はこんななりをしていただろうか、と記憶を辿っては見るものの、はっきりとは思い出せない。あの時は、あまりにも子どもだったし、それに夜だった。二十年も経てば、建物の外観は古くなるものだし、記憶にも齟齬が生まれるものだ、と納得しつつ、ぼくは敷地に足を踏み入れた。
小屋の傍らには、陶芸用の登り窯があり、今は聳え立つ煙突から煙が出ていなかった。それどころか、工房自体が熱を失ったように、ひっそりとしている。声をかけるべきか、時間もおしているわけだから、早々にこおろぎ山へと向うべきかを、真剣に迷い始めたその時、小屋の端にある勝手口の扉が、がらがらと音を立てて開き、四十そこそこの髭面の男が現れた。
「おや? お客さんですか?」
男はそう言うと、不思議そうにぼくの顔を見る。その男が、留守さんでないことは、すぐに分かった。だが、それが誰であるか思い至るには、少しの時間が必要だった。すっかりでっぷりとしてしまったヨンちゃんに比べて、それほど外見に差異はないとは言え、妙に似合う泥まみれの作務衣にも、バンダナのように頭に巻いた手ぬぐいにも、二十年前の少年の名残を残した面影は、一つもなかったからだ。
「あなた、伸由さんですよね?」
「ええ、そうです。伸由です……あなたは?」
訝るようなノブさんの視線に、ぼくは名を名乗って見せたが、逆に彼にとっても、大人になったぼくに面影を見出せなかったのだろう。やはり小首をかしげたままだった。
「ちょうど二十年前の今頃、一晩だけお世話になったんですが、覚えていらっしゃいませんか?」
「二十年前……、ああっ! 君、シュウくんかい?」
「はいっ! そうです。その節は」
ぼくがお礼の言葉を口にしかけると、ノブさんはずいずいと近寄ってきて、ぼくの肩を力いっぱい叩き、人懐こい笑顔を向けてくる。
「いやあ、すっかり大きくなっちまって、全然気がつかなかったよ! いやあ、ごめんごめん。二十年前のことは良く覚えているよ。あの子ども嫌いで気難しい師匠が、一晩とは言え、子どもを三人も預かるなんて、青天の霹靂かと思ったからね!」
「あの時は本当に、お世話になりました。留守さんは、今どこに?」
肝心の留守さんの姿が見えないことに、疑問を感じたぼくが問いかけると、ふっと風が舞い込むように、ノブさんの顔から笑顔が消えうせた。
「師匠は……十年前に他界したんだ」
「えっ?」
「無理がたたってね。全然陶芸家として認められることなく、この世を後にした。まだまだ教えてもらいたいことは山ほどあったのに、ぼくにこの陶芸工房だけを残して……」
がっくりと肩を落とした、ノブさんがちらりと、陶芸工房の母屋と登り窯に目をやった。
「それは、ご愁傷様でした」
「いやいや、十年も前の話だ。今は、師匠の技に一歩てせも近づき、師匠の果たせなかった、陶芸家として陶芸界に認められるため、独りで細々とやってるよ。どうだい? 線香のひとつ上げていってやくれまいか?」
「ええ、もちろんです」
ぼくが頷くと、あの日と同じように、ノブさんはぼくを陶芸工房の母屋へと案内してくれた。
時計の針が、午後八時を示す。ぼくとリコ、ヨンちゃんの三人が夕飯をご馳走になって、お腹が満たされる頃、再び戻ってきたノブさんは、平らげられたお皿を見て、目を丸くした。
「よほどお腹がすいていたんだねえ」
そう言われて、少しだけ恥ずかしく思ったけれど、たしかにお腹はすいていた。恥を忍ぶには、ぼくたちはまだまだ子どもだったということで大目に見てもらいたい。
「本当は、お風呂に入れてあげたいところだけど、工房の風呂は薪風呂で、薪は全部登り窯に使うから、今はお湯を沸かせられないんだ。ごめんね」
「い、いいえ、全然大丈夫ですっ」
流石に、恐縮してしまったぼくたちは、口々にそう言うと、何故か大人がするみたいに、ぺこぺこと頭を下げていた。それからノブさんは、ぼくたちを寝床に案内してくれた。普段は、師匠の留守さんが使っている部屋をぼくとヨンちゃんに、女の子であるリコには留守さんの部屋が与えられた。
「しばらくは、寝ずの番をやらなきゃいけないから、ぼくたちは部屋を使わない。だから遠慮しないで。ただし布団は、押入れにしまってあるから、各自で引くこと。あと、トイレは廊下を出て、突き当たり。遅くならないうちに、寝るんだよ」
まるで、引率の先生みたいな口調で言うと、ノブさんは人懐こい笑顔を浮かべて、表へと去っていった。寝ずの番の意味は良く分からなかったけれど、最悪野宿も覚悟していたぼくたちにとっては、ちゃんと屋根のある場所で、布団に包まって眠れることは、幸せの一言だった。
ぼくとヨンちゃんは、ノブさんに言われたとおり、遅くならないうちにさっさと眠り、一日の疲れを癒すことにした。明日、必ず、こおろぎ山にたどり着き、そして、葉っぱを持って帰らなきゃいけない。タイムリミットは刻一刻と迫っている……。
「電気、消すよ」
ヨンちゃんが、部屋の明かりの紐を引っ張る。
「ヒメ大丈夫だよな? 明日、頑張ろうな」
ヨンちゃんの言葉の終わりと、部屋が真っ暗になるのはほぼ同時だった。それからは、静寂。夜の静けさが部屋を包み込んだ。そして、ヨンちゃんの僅かな寝息が聞こえてくる。それなのに、ぼくの目はぱっちりと冴えて、一向に眠くならない。
羊を数えてみても、二十匹も数えれば飽きてしまう。そうすると、やたらにヒメの苦しそうな顔だけが脳裏を過ぎって、こんなところで眠っている暇なんかないんじゃないか、と焦りが生まれてくる。ますます、眠れない。いつもなら、布団にもぐれば五分も経たないうちに眠れるというのに、今日に限っては、三十分過ぎても、一時間過ぎても、睡魔が訪れることはなかった。
どうしたものかと、困ってしまう。しかたなく、顔を洗うために、トイレに立つことにした。隣で眠るヨンちゃんを起こさないように、細心の注意を払いながら、そっと布団を抜け出す。襖戸をひらき、廊下に出ると、向かいの部屋が留守さんの部屋。即ち、リコが眠っている部屋だ。廊下の軋む音で、リコが目を覚ましたりしないよう、忍者よろしく抜き足で、廊下の突き当たりにあるトイレへと向った。
汲み取り式のトイレからは、少しだけ鼻の曲がる匂いが漂う。そのトイレの扉の前には、洗面台があって、ぼくは蛇口をひねると、勢い良く流れる水をすくって、顔を洗った。山の井戸水は、夏の熱気など感じられないほど冷たくて、心地いい。
顔を洗い終わったぼくは、洗面台の傍にある手ぬぐいで顔を拭った。ふと、視界に赤い炎が見える。一瞬、火事かと思って、ひやりとしたけれど、それは、洗面台の傍にある窓から見える、登り窯の炎だった。窯の前では、留守さんが額に汗しながら、薪を放り投げていく。
「寝ずの番って……?」
ぼくは独りごちながら、部屋には戻らず、工房のあるほうへと向った。
そこは、土のにおいがする場所だった。それもそのはず、この工房で、さまざまな作品が生まれ、それが今まさに、窯の中で焼かれいてるところなのだ。
「おや、秋人くんだったっけ? どうしたんだい? 眠れないのかい?」
しんと静まり返った工房の奥から、ひょっこりとノブさんが顔を出す。両手には、山ほどの薪が抱えられていた。
「あの、えっと。はい……」
ぼくが頷くと「そうか。慣れない場所じゃ、なかなか寝付けないものな」と言って、ノブさんは優しく笑った。
「あの、ここって、お皿とか花瓶とか作る工場ですよね?」
「工場? そうか、工場か……。確かにそうだけど、でも正確には、工場じゃないんだ。ここで造られているのは、生活用品のお皿とかじゃない」
ノブさんの言葉に、ぼくはきょとんとする。お皿と言えば、食べ物を盛り付ける道具で、それ以外の用途は思いつかなかった。すると、ノブさんは、ぼくの頭に浮かぶクエスチョンマークを笑うように、声を立てる。
「つまり、芸術品ってことさ。ほら、絵とか音楽とかとおんなじで、このお皿きれいだなあ、とか面白い形してるなあとかって、目で見て楽しむためのお皿なんだよ」
と、言ってノブさんは、薪を床に置いてから、工房の隅に取り付けられた棚から、留守さんの作品と思しき、一枚のお皿を取り出して、ぼくに見せてくれた。
正直なところは良く分からなかった。ぼくには、お皿を愛でる感性は備わっていないのかもしれない。十歳の子どもにそれを求めるのも、滑稽な話だ。おかずを盛り付けるには、ひしゃげた形をしているし、青い模様は何だか食欲をなくしそうだ。これは、生活用品とするなら、B級品もいいところ。だけど、いろんな角度から見るたび、違った形に見え、食欲を減衰させる青色の模様も、まるで宝石のようにつやつやキラキラしている。それが、ノブさんの言うところの「芸術品」と言うことなのだろう。
「きみに分かるかな? とてもいいお皿だろう?」
お世辞と言うわけじゃないけれど、はじめてみる芸術品のお皿に、ぼくはこくりと頷いた。だけど、何故かノブさんの表情はくもる。
「でも、中々芸術品としての陶芸の道は険しくてね。師匠も、もう二十年ちかく陶芸をやってるけれど、まだ一流の陶芸家としては認められていない。だから、普通のお皿や花瓶の方が、多く造っているのが現状だ。そうしないと、飢え死にするからね。背に腹は変えられない……って、きみには関係ないことだね?」
お皿を手に、再びきょとんとするぼくに、ノブさんは苦笑した。ぼくには関係のないことだけど、留守さんたちが、生活苦を味わっていると言うことだけは分かる。それなのに、夕飯までご馳走してくれた上、寝床まで貸してくれたのには、子どもながらに胸が痛んだ。
「どうして、陶芸家を辞めないんですか? 生活が苦しいなら、お皿作るの止めて、他のお仕事をすればいいのに……」
ぼくが何の考えもなしに吐いた言葉は、ノブさんの苦笑いを誘う。今度の苦笑は、ぼくに向けられたものだった。ノブさんはぼくから師匠のお皿を受け取ると、ぼくの頭をわしわしと乱暴に撫でてから、
「それは、師匠に直接聞いてみるといいよ。ぼくは……ぼくは、師匠の陶芸の技に惚れている。だから、師匠が辞めない限り、ぼくは弟子で居続けるつもりだ」
と言った。でも、肝心の留守さんは、強面だし何だか不機嫌そうで、正直に言えば怖い。
「大丈夫、師匠はああみえて、根はとても優しい人なんだ。きみは、師匠のお姉さん、春江さんに会ったんだろう? 師匠は間違いなく、あの人の弟だよ」
ノブさんがそう付け加えたその時だった。表から、一際荒々しい声が届く。留守さんの怒鳴り声だ。
「伸由っ! 何してる、さっさと薪を持って来いっ!!」
まるで雷が落ちたときのようなその怒鳴り声に、ノブさんはぴょんと弾かれて、すばやくお皿を棚に戻すと、また両手いっぱいに薪を抱える。
「あの、ぼくお手伝いします。泊めてもらってるのに、お礼しなきゃ、お父さんとお母さんに叱られちゃうっ!」
咄嗟にぼくが言うと、ノブさんはいささか驚いたように、目を丸くしてから、また人懐こい笑みをぼくに向けた。
「きみは、いい子だね。よし、じゃあ、半分、師匠のところへ持っていってくれるかい? 師匠は、登り窯のところに居るから」
「はいっ!」
ぼくは元気良く返事を返して、ノブさんから薪の束を受け取る。すると、杉の匂いがつんと鼻をついた。