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17. 深淵の瞳

 お化けとか、幽霊という非科学的なものを信じていないというのは、ぼくが理化学者の一端たる、医者だからというわけではない。二十年前からすでに、ぼくはお化けや幽霊を、心の底から信じていなかった。口幅ったい言い方をすれば、格好つけているだけで、内実は、そういうものが苦手だから、信じないようにしているだけだった。

 だから、男の子の眼光に射すくめられたその時も、ぼくはまだお化けの存在に懐疑的だった。よく聞く話にこんなのがある。「ぼくは詐欺にかかったりしない」と公言するやつほど、詐欺の被害に遭いやすい。例えとしては逸れる部分もあるが、概ねそれに近い状況だった。信じていないから、突然目の前に現れたら、恐怖で固まってしまう。

「くふふ」

 もう一度、男の子は笑った。その奇妙な笑い声と、深淵の瞳。それが、目の前にいる男の子のことを、お化けだと断定させた要因だった。

 男の子は、何も言わずぼくの手を引っ張る。水の流れる音が徐々に近づいてくる。その先にあるのは、沢と呼ばれる、山の頂上付近から流れ込む小川。だけど、その川のふちは、断崖になっていて、男の子はまるでそこへぼくを導こうとしているかのようだった。

 ふと、崖のほとりに「危険!」と大きな字で書かれた看板が目に映る。ここから落ちれば、水深の浅い小川の底に頭を打ち付けて、即死も免れない。

「いやだ、そっちへは行きたくないっ!」

 叫ぼうとするのに、口の周りの筋肉が言うことをきいてくれない。それどころか、まるで操り人形になったみたいに、ぼくの意思とは無関係に、体が勝手に崖の方へと向う。男の子は、崖の縁でぼくの手を離した。だめだ、これ以上足を出したら、崖から落っこちて死んでしまう!!

 ひゅう、と崖下から涼しい風が舞い上がってくる。

「きみ……やまがみさま?」

 やっと口にした言葉はそれだった。今際に発する言葉としては、あまりに味気ないけれど、何故ぼくがこんな目に合わなければならないのか、確かめずにはいられなかった。

「とうといものはすべからくひとのうえにある」

 尊いと言う言葉の意味も、彼の言った言葉も、ぼくには理解できなかったけれど、神さまと名のつくものが悪戯に、ぼくを殺そうとするとは思えない。ただ、ぼくを見つめる男の子の、深淵の瞳はぼくの意識まで吸い込んでしまおうとする。

「ばいばい」

 突然、男の子は深淵の瞳を細めてニッコリと笑い、水筒のカップを持った右手をひらひらと振って見せた。すると、ぼくの体が木立から落ちる枯葉のように、ひらりと舞った。目を瞑りたくても、助けを求める叫び声をあげたくても、叶わないまま、まどろんだ意識のままで、ぼくはまっ逆さまに、崖から落ちる。

 つい数時間前、川で溺れて死を覚悟したのもつかの間、絶体絶命の危機が再びぼくを襲う。今度は万に一つも助からない。わけの分からないまま、このまま死んでしまうのは、覚悟なんて出来るようなものじゃなかった。「シュウちゃんっ!!」

 崖下からの風を切り裂くような声。それと同時に、ぼくの両手が、誰かに掴まれた。その瞬間に、遠のきかけたぼくの意識が戻ってきた。視界の先は足元。底には地面がなく、遠目に小川が見えるだけ。つま先から血の気が引く思いで、ぼくは慌てて、上を見上げた。 

 二本ずつの腕が、崖の上からぼくの両腕をしっかりと掴んでいる。

「何やってるんだよ、シュウちゃん!」

「自殺するつもり?」

 ぼくを助けた二本の腕の先から、聞き覚えのある声が重なる。現実に引き戻されたぼくは、崖肌の凹凸に足を引っ掛ける。そして、「せーの」の掛け声とともに、二人に引っ張られて崖の上によじ登った。

 ぼくはこみ上げてくる恐怖に膝を突いて、辺りを見回した。あの深淵の瞳を湛えた、白い浴衣の男の子はどこにもいない。まるで最初からそこにいなかったかのように、気配すらなかった。代わりに、ぼくの視界には、肩で息する見覚えのある顔。

 ぼくは、二人の名前を叫ぶ前に、リコに抱きついていた。二十年後のぼくからすれば、あまりにも恥ずかしいことだが、その時は親友でもある幼なじみとの再会に、嬉しさがこみ上げ、それを言葉にするよりも、態度で表したほうが早いと思った。

 案の定、リコは顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにする。

「し、シュウちゃん!?」

「リコ、ヨンちゃん、無事だったんだ!」

 嬉しくって、リコの柔らかい頬に頬擦りしたいけれど、流石にそこまでやったら、リコのコブラツイストを食らうはめになってしまう。

「無事って、シュウちゃんこそ、無事だったんだね。っていうか、恥ずかしいから離れてようっ」

 と、リコは戸惑いながらぼくを引っぺがした。すると、今度はヨンちゃんが、「俺には抱きついてくれないのな」と言うので、ぼくはとりあえずヨンちゃんにも抱きついておいた。男同士で抱き合うのは、女の子に抱きつくのの倍以上恥ずかしいので、とりあえず。

「ヨンちゃん、心の友よっ!」

 なんて、漫画から拝借した科白にのせる。もちろん、ヨンちゃんも「心の友よっ」と叫びながら、ひし、とだきあうと、リコとは違ってちょっとだけ汗臭かった。

「なにそれ、コント?」

 リコが傍らで、呆れ顔をしながらぼくたちを見る。それでも、幼なじみとの、経った数時間の再会は、心細く不安でいっぱいになりかけたぼくの心を軽くしてくれた。さっきまでの、不可思議で恐ろしい体験なんて、もう半分忘れかけていた。

 だけど、三度。山道の方からこちらに向って、物音が近づいてくる。ずいぶんがさがさと、乱暴な物音だった。ぼくとヨンちゃんは離れて、立ち上がると、それぞれに身構えて、物音の接近に備えた。野犬? それとも……。

「おい、お前たち!! こんなところで何してるっ!!」


 確かこのあたりだった……。かすかな記憶を頼りに、山道を横切り、茂みがより深くなった森を進む。子どもの足よりも、歩幅の大きい大人になったぼくが、その場所にたどり着いたのは、みかん畑を後にして、小一時間ほどだった。まだ日が暮れるまでには時間もたっぷりあって、幸いか、二十年前のあのときに比べれば、気味悪さは皆無に等しかった。

 しかし、特別な道や、獣道があるわけじゃない。あのとき、男の子はぼくの手をものすごい力で引っ張って、森へと連れ込んだ。そして、その先にある崖からぼくを突き落とそうとした、その恐ろしい記憶だけが頼りだった。

 二十年前、出会った男の子の正体が何であったのかは、今でもはっきりと分からない。推測はたてられるが、どれも現実味と言う意味では、非常に納得のいかないものばかりだ。たとえば、幽霊という説。このあたりで、何か不幸に見舞われた子どもが、ぼくを道連れにしようとした。折りしも時節は、お盆。天に召された人が、地上に舞い戻ると言われている。

 しかし、前述したとおり、科学で証明できないものは信じるには、値しない。きっとそうかもね、と言うほかないのだ。

 じゃあ、それとは別に、現実に悪戯好きの男の子が存在していたとするなら、何故夜道にいたのか、何故ぼくの体は言うことを聞かなくなったのか。あれは、まるでマインド・コントロールのようだった。そして、あの水底を思わせる深淵の瞳も、彼の言った言葉の意味も、今をもっても分からない。

 そのほかにも、いくつかの仮説はたてられる。それは、まるで小説の中の名探偵のように。だが、残念ながら、ぼくはオカルトマニアではないし、探偵でもない。歯牙ない、三十男の発想では、それ以上の結論に結びつく答えは導けそうにもなかった。

 そうこうしているうちに、茂み深い森を抜け、ぼくの眼前にあの日と変わらない、崖が広がる。ぼくは、用心しながら、崖の上から下を見下ろした。

 鉄橋の上から飛び降りて、無事だったという実績を持つ身としては、高さそのものはあの鉄橋の上から見下ろした川となんら変わりはない。しかし、問題は下が、ごうごうとうねりを上げるほど大きな川ではないことだ。物理法則の知識を用いなくても、そこから飛び降りたら、どうなるのかは大体想像がつく。

 間一髪、映画のように、ヨンちゃんとリコが助けてくれなかったら、せっかく乃木さんに救われた命をあっという間に散らしてしまうところだった、と思うと、二十年たっても、背筋に寒いものを感じる。

 ぼくは、これ以上崖下を見るのに耐えかねて、視線を逸らした。あの時と同じように、その視線の先には、大きく「危険!」と書かれた看板がある。ただ、あの時と違うのは、もう一つ大きな看板があって、「ここは遊び場ではありません」と、無造作にペンキで書かれていた。

 きっと……いや間違いなく、ぼくたちのことがあったから、新しく設置されたんだと思う。

 もともと、この場所で、足を踏み外しそうになった子どもや大人がたくさんいるらしい、という話を聞いたのは、ヨンちゃんとリコに助けられた少し後だった。山道から外れたただの崖。そこに多くの人が導かれ、死に直面した。しかし、実のところ、直面しただけで死者はいない。皆、間一髪で踏みとどまったり、ぼくのように誰かに助けられたりして、事なきを得ている。

 だけど、それが、まるで怪談話のように思えるから、こんな看板が立てられたのだ。ぼくは、看板についた埃を軽く指先で払うと、もと来た道へと引き返した。

 あの日、ここで起きたことに、結論を見出せるのは、まだまだ先のことだろう。いまは、あれは不思議な出来事だったとしておくことにした。それよりも、日暮れまでには、世界樹のあるこおろぎ山までたどり着きたい。なにせ、山の日暮れは早いのだ。

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