16. 独りぼっちの夜道
乃木さんの家の居間で眠っている間に、ぼくは夢を見た。はじめに、声があった。暗闇の中に浮かぶぼくに、囁くような不思議な声。大人の男の人の声だと言うことは分かるけれど、どこから聞こえているのか、誰の声なのかも分からない。
『きみは何故、自分とは関わりのない多くの他人を助けたがる?』
その問いは、十歳のぼくに宛てられたものだった。その意味も、何故問われるのかも分からないまま、ぼくは夢の中と言う、ある種不安定で不可思議な世界を自認しながらも、必死にその問いの答えを探した。
『人が人を助けたいと願う、その心理の裏にあるのは、エゴイズムじゃないのか?』
「えご……いずむ?」
言葉の意味が良く分からない。
『苦しんでいる誰かのためといいつつも、その真実はきみ自身の満足のため。善意は誰が為にあるものなのか。その所在も分からぬまま、彷徨い続け、きみは未来に何を見る?』
「何を言っているの? ぼくには分かんない。ぼくはただ、ヒメを助けたいだけなんだ。だって、ぼくは……」
『ならば、選び取れるか? 選るべきものを』
目の前を閃光が走り、まるで紙芝居の場面でも変わるかのように、そこは見知った真っ白な洋館の一室に変わる。その部屋の窓辺に置かれたベッドの上、薄いピンク色のパジャマを羽織った女の子が、額に汗を浮かべ、苦しそうに呻いている。周りの大人たちは、みな一様に項垂れて、女の子の病に手の施しようがないと口を揃える。それでも、女の子は苦しみから逃れるかのように、ぼくに向ってその白く細い手を伸ばしてきた。
「たすけて、シュウくん……!」
言葉にならないほどの、小さな叫び。ぼくは彼女の愛称を呼びながら、その手をとった。ぼくの指先と、彼女の指先が、コツンと触れた瞬間、ぼくの周りを濁流のようなうねりが取り囲む。ぼくは必死でもがき、離れていく彼女の手を掴もうとするが、うねりはぼくを離さない。
「シュウちゃん!」
リコの声? ヨンちゃんの声? 振り向けば二人も、濁流のうねりにもがいている。友達か、好きな子か、どちらに手を伸ばしたらいい? ぼくは千手観音じゃないから、手は二本しかない。彼女の手をとれば、リコかヨンちゃんのどちらかを見捨てなければならない。幼なじみ二人の手をとれば、彼女の手をとることは出来ない。どうしたらいいのか分からず、途方にくれていると、ぼくと三人の距離はどんどん離れていく。
助けなきゃ。助けなきゃ! 頭の中で、呪文のように何度も繰り返しながら、伸ばす手は……。
夢はそこで終わり、目を覚ましたぼくは、みかん畑の間を吹きぬけて、夏の風に運ばれた蚊取り線香の匂いに、鼻をくすぐられた。
山の陽が沈むのは早い。乃木さんの言ったとおりに、みかん畑を後にして山道をひたすら、こおろぎ山へと進んでいると、トンネルを形作る木々の間から見えていた太陽の光が、どんどん赤く染まり、そして、あたりは薄暗くなっていく。
暗くなればなるほど、ぼくの不安はかきたてられて、何度も後ろを振り返った。リコやヨンちゃんが走って追いかけてくるんじゃないかと思ってはみても、長く続く山道のどこにも、二人の姿はない。二人の無事を信じてはいるけれど、それでも後ろ髪引かれる思いと同時に、独りぼっちである寂しさや不安が、ぼくを心細くさせる。
やがて、太陽はすっかり山の峰に姿を消す。影が黒く塗りつぶされて、森にぽっかりと暗闇を作り出す。夢の中のような暗がり。いやいや……あれはぼくが見た、ただの夢。怖くなんかない。ぼくは、そう念じながら、肩にかけた水筒のベルトを握り締めて、舗装もされていない山道の砂利を踏みしめた。
不意に、がさがさと木立が揺れる。ぼくは、弾かれたようにビクつき、足を止めて辺りを見回した。山から吹き降ろす風か、それとも鳥が羽ばたいたのか、良くは分からないけれど、物音がするたびに逐一、おっかなびっくりで驚き、ぴたりと足を止める。まさに牛歩。
どれくらいそうして、山道をあるいただろう。すっかり、あたりは濃紺の夜闇に包まれた。肝心の、留守さんという人の家がどこにあるのか確かめようとしても、もう地図を見るための灯りもない。
以前、小学校の図書館にある、外国の児童文学で読んだことを思い出した。その物語は、ぼくたちと同じように、冒険の旅に出る。目的は、貧困に喘ぐ村を救うために、百年前に大盗賊団が隠したと言われる、至宝の数々を見つけること。主人公の男の子は、ぼくよりも少しだけ年上で、ぼくよりもずっと知恵があり、勇敢だ。そんな主人公が、財宝探しの旅に出る前に仲間たちに言う科白。
「冒険とは、危険に足を踏み入れることなんだ。だけど、誰も欠けることなく、宝物を村に持って帰らなければならない。そのために、旅立ちの準備は怠ってはだめだ」
今更になって、そんな教訓を思い出しても、これが世に言う「後の祭り」ってやつだ。ほとんど、突発的に世界樹の葉っぱを採りに行こうと決め、かつ時間の制約があるぼくらにとって、準備なんて言う言葉は、縁遠いものだった。
だめだ、独りぼっちだと、考えることが、どんどんマイナス方向に突き進んでいく。元来、プラス思考の明るい子どものつもりはないけれど、半ば夜道と化した一本道を、後ろ向きな気持ちで歩いていると、それだけで何かよからぬものを呼び寄せそうな雰囲気に満たされていく。
そこで、ふと思い出されるのは、乃木さんの言った「山神」という言葉。幼い頃の乃木さんを助けてくれたと言う「水神さま」に比べて、妙に恐ろしげな声音だった。いずれにしても、お化けと一緒で、ただの言い伝えや出来事が、具現化したものだということは、子どもの頭でもわかる。ただ、神さまやお化けなんて存在しないんだと、頭の中では分かっていても、空気も色も音も、なにもかもが溶け込んでいくような夜闇の中にいると、やはり怖くなってしまうものだ。ぼくってば、こんなに臆病だったのかな? などと思う余裕さえない。
とりあえず道は一本道。ずいずいと、山を登っていく緩やかな傾斜があるのみで、迷いようもない。だったら、このまま進み、留守さんの住んでいるという陶芸工房へ早くたどり着こう。ぐるぐるとめぐる思考がたどり着いた結論に従って、ぼくは足を速めた。物音なんか気にしない、気にしない……。
と、念じる矢先、こつこつという音が鼓膜を振るわせた。どう考えても、木々の揺れる音じゃない。森には似合わないその音は、二つ重なるようにして、一定のリズムを刻みつつ、ぼくの後ろを追いかけてくる。これは、足音だ、と気付いたぼく背筋が凍りつくのを感じ、空恐ろしくなった。
背中をひんやり冷たい風が通り抜けるのに合わせて、ぼくは一気に走り出した。すると、足音はぼくを追いすがってくる。
尾けられてる……。
これが、サスペンス映画なら、緊迫のワンシーンだけど、ぼくはただの小学生で、スパイとか殺し屋じゃない。だから、後を尾けられるような、謂れはない。
こんな夜の山道に、灯りも点けずに歩く人がいるはずない。
走りながら、つぎつぎと可能性を消去していくと、足音の正体がこの世のものじゃないように思えてきて、更に怖くなった。やがて、息は上がり、酸素を求めて水面に上がってきた魚のように、顎を突き出す。それでも、息苦しく、激しい鼓動は止まらない。足は鉛のように重たくなるし、ここまでの疲労が全身にのしかかる。
だけど、幸いにも、足音は次第に遠くなっていった。どうやら、姿なき尾行者を引き離せたらしい。安堵に包まれながら、ぼくは一度足を休めることにした。
喉はカラカラ、汗はだらだら。肩から提げた水筒から、乃木さんのくれた麦茶を取り出し、カップいっぱいのそれを、ぐいっと飲み干す。
と、その時。山道の脇の茂みががさがさとなる。流石に、物音に動じなくなっていたのか、それともそんな気力もなかったのか、さして驚きもしなかった。だけど、その茂みから、白い浴衣姿の男の子が現れて、ぼくの瞳を覗き込んだときには、心臓が飛び出しそうになった。
ぼくより少し年下の男の子。藍染の金魚をあしらった、白地の浴衣のものめずらしさよりも、可愛らしいと形容した方がいいくらい、女の子みたいな顔をしたその子の瞳が、まるで川で溺れたときに見た、水底の黒い深淵を思わせた。
ぼくは思わず、口に含んだ二杯目の麦茶を飲み込み、咳き込んでしまう。それに驚いたのか、男の子は突然、わんわんと泣きはじめた。その声は、森の空気を震わせるようだった。突然現れて、突然泣き出した男の子を目の前に、ぼくはどうしたらいいのか分からなくなってしまった。ぼくは一人っ子で、弟や妹がいない。そのため、自分より年下の子をなだめる方法をしらなかった。
「ええっと、ごめんっ」
慌ててぼくは、水筒から麦茶をカップに注ぎ、男の子に手渡してあげた。男の子は、それに口を付け、ぼくと同じように、ぐいっと飲み干して、ようやく落ち着いのか、泣き声をとめた。
「きみはどうして、こんなところにいるの? お家帰らなきゃ」
他人のことは言えないのだが、ぼくは少しだけお兄さんぶってみた。男の子は、まだ小さくしゃくりあげながら、空になったカップを右手に、左手でぼくのシャツの裾を掴む
そして、頭を左右に強く振ると、また泣き出しそうに顔をゆがめた。つまり、帰り道が分からなくなった迷子、ということなのだろう、と自ら咀嚼したぼくは、
「じゃあ、一緒にお家を探そう」
と言って、ぼくのシャツを握る男の子の手を取った。
それは、お兄さんぶって言ったというよりは、どうしていいか分からず、またぼくよりも幼い男の子を放っておくことが出来なかっただけだ。
男の子はぼくに手を引かれ、とぼとぼと歩き出した。この子の家がどこにせよ、まずは留守さんの家に着くのが大事。もしもこの近所に住んでいる子なら、留守さんが知っているかもしれないし、知らなくても大人の人に預ける方が確かだ、と算段をつける。
子どものぼくにしては、割と現実的な判断だったと言えるだろう。もっとも、留守さんの家が、どこにあるのか分からないのだけど……。
「ねえ、きみは、この近くで陶芸をやってる小父さんの家しらない?」
連れ立って歩きながら、ぼくが尋ねると、男の子は水筒のカップが気に入ったのか、右手でそれをくるくると回しながら、ぼくの方を見る。深淵のような深い色した瞳が、きょとんとした。
「とうげい?」
「ああ、えっと、土を練ってお皿とか花瓶とかを造る人のことだよ。名前は留守さんって言うんだけど……」
男の子はしばらく考えるような仕草をした後、また深淵の瞳で、ぼくの顔を覗き込む。
「知ってるよ、こっち!」
と言うと、男の子が突然ぼくの手を強く引っ張った。驚き戸惑っている合間に、ぼくは山道から外れて、茂みの奥に連れ込まれる。足元を、あわだち草の葉が引っかいて、むずがゆい。鈴虫か蟋蟀が、勢い良く跳ねる。
「ちょっと、待って、道から外れてるよ!」
「大丈夫、近道だから」
男の子はそう言うと、お構いなしに茂みに分け入り、森の奥深くへとぼくを案内する。振り返れば、もう山道は見えないところまで来ていた。
「こっち、こっち!」
わんわんと泣いていたのが嘘のようだ。と思っていると、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。本当に近道なのか? ぼくの脳裏に不安が過ぎって、男の子を止めようと手に力を込めてみたけれど、びくともしない。だけど、そんなぼくの戸惑いに気付いたのか男の子は、ぼくの方に振り向いて、ニヤリと笑った。
「くふふ」
それが、笑い声だったのか良く分からない。ただ、ぼくの目を見つめる深淵の瞳が、鈍く赤く光を帯び、危険なサインを感じ取ったぼくは逃げ出そうとする。だけど、ぼくの体は、その光に射すくめられ、自由が利かなくなってしまった。
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