15. 寒村医療
センター長がぼくを呼び出したのは、ぼくのクビが決まる一週間前だった。教授たちで構成される諮問会議において、リスク・マネジメントが行われ、そして、ぼくが湾南大学病院の救命センターを罷免されることは、すでに分かりきっていたことだ。
医療ミスの中でも、最悪の事例である、人為的なミス、即ちヒューマンエラーに対して、教授たちが考えるリスクとは、大学にとっての損益のことであり、ぼくを庇うことはリスク、つまり「損」であることは明白だ。もっとも、ぼく自身も庇って欲しいとは思っていなかった。
間違いを犯し、津田幸浩くんの命を奪ったのはぼくであり、そのことが救命センターの存続を危ぶませるのだとしたら、ぼくは素直にここを去るべきだと考えていた。大学にとって、市内で唯一の三次救急まで行う救命センターは、経営上のリスクであって、廃止さえも検討されている。だが、近隣でもほとんど三次救急を行う病院が存在しない以上、ここを頼ってくる患者は多い。にもかかわらず、それらを切り捨てることは、人を救うことを放棄する、経営者のエゴだと思う。もしも、ぼくが大人しく、救命センターから消えることで、センターを守れるのなら……いや、ともに働く仲間たちに迷惑をかけたぼくに出来るのは、もうそれ以外なかった。
だから、センター長がわざわざぼくを呼び出したとき、ぼくは懐に辞表を携えていた。諮問委員会が、ぼくの処分を下す前に、ここを去ろうと考えていたのだ。だけど、センター長は、辞表を見るなり渋い顔をして、つき返して言った。
「私は、それを受け取っても、教授連中は受諾しないだろう。どうしても、君をクビにしなければ気がすまんようだ。残念だが」
そして、センター長はぼくの辞表の代わりに、机から一枚の紙切れを取り出した。
「教授どもは、医師会のお歴々や、政治家にだけぺこぺこする、内弁慶集団だ。必死で、患者のためを思っているのは、接待に明け暮れる教授ではなく、医療の現場で戦う君のような医者だ」
普段のセンター長は、他人を褒めたりはしない。外見的には、医者というよりも、軍人のような体躯をしており、医者だろうが、看護師だろうが、だれかれ構わず厳しい言葉を浴びせかける、鬼のような人だった。多くの仲間たちは、センター長のことを怖がっていた。かく言うぼくも、平沢さんと陰で「鬼軍曹」と揶揄していた。
だが、その日のセンター長は少しだけ雰囲気が違った。
「だから、医者であることを諦めてはいかん」
「お言葉ですが、ぼくは、自分の力を過信し、看護師からキャパシティ・オーバーだと言われても聞かず、無理な患者の受け入れをしました。その結果、手が廻らず、初歩的なミスで尊い命を奪ったのです。そのような人間が、医者でいていいはずがありません。ぼくは素直に、罷免されるべきなのです」
「しかし、君が津田さん親子を受け入れなければ、彼らは都内のどの病院にも受け入れてもらえず、結局息絶えていたかもしれん」
「一つの命でも、救えなければ、同じです」
ぼくは視線を逸らした。すると、センター長は再び渋い顔をして、
「君は真面目すぎるんだ。真っ直ぐなところは、君の長所だと思う。だがな、医者であることを諦めてはならない。君に救われた命も数え切れないほど沢山あるじゃないか。この失敗は、次にどれだけの傷病に苦しむ人を救えるかに掛かっているんじゃないのか?」
と手に持った紙切れを、差し出した。そこに書かれている文面を読む間もなく、センター長は続ける。
「包み隠さず言えば、君の、無謀とも言える患者の受け入れには、私も反対だった。センターを預かる身として、センターが機能麻痺に陥るのは反対だ。しかし、だからと言って、患者を見捨てたいとは思わない。救命救急が患者にとって、最後の砦となりうるなら、教授や経営者の言いなりに、このセンターを潰すわけにはいかん。君の罷免には、私も賛成せざるを得ない立場なのだ。だが、君のような医者を失うのはもっと残念なことだ。そこで、この紙切れだ。これは……、知り合いの医者から預かったものなのだが」
センター長の差し出した紙切れには、「夏八木町診療所・医師募集要項」と書かれていた。ぼくは、その懐かしい故郷の名前に驚くとともに、センター長が何を言わんとしているのか悟り、二重の驚きに包まれた。
「田舎の診療所だが、とても長閑な町だそうだ」
センター長は、そこがぼくの故郷だとは知らない。もっとも、親の都合で、十歳の秋にはこの町を離れたものの、それでも夏八木はぼくにとって、かけがえのないふるさとであり、医者としての出発点でもあった。その偶然は、神さまの悪戯なのか、それとも悪意なのか、ぼくには図りかねた。
「夏八木診療所は、いま、医者が一人も居ない。町の人たちは、一時間近くかけて近隣の病院へ通っているそうだ。夏八木の、医療サービスは底辺といっても過言ではない」
「つまり、寒村医療と言うことですか?」
「そうだ。先方には話を通してある。町役場の担当は、君がこのセンターを辞めることとなった理由も承知の上で、診療所を任せたいと言ってくれている。どうだ? 野崎くんさえよければ、夏八木町の診療所で医者を続けてみないか? 人を救うことに、都会も寒村もない。君なら分かっているはずだ」
そう言って、センター長は小さく微笑んだ。それは、ぼくが見た最初で最後のセンター長の微笑みだった。すぐに返答は避けたものの、ぼくに残された道は、きっぱりと医者を辞めてしまうか、それとも夏八木に行くかの二択しか残されていないことは分かっていた。
そして、センター長の前では「ぼくのような人間が医者でいていいはずがない」などと見得を切ったものの、本心は、医者であることに未練があった。まだ、ぼくに出来ることはあるんじゃないのか、心がそう呼びかけていたのだ。
元来、出世には興味がない。富と名声のために、医者になったわけじゃないはずだ。そして、医療が抱える問題が、一つではないことは承知しているつもり。ならば、迷うことは何もないはずだった。
ぼくが夏八木行きを決意したのは、ちょうど諮問委員会が、ぼくを大学病院から罷免し、患者遺族との金銭的和解が成立したのと同時だった。
電話口に出た、夏八木町役場の担当は、甲高い声の女性だった。彼女は、しきりに契約について気にしていたが、ぼくは待遇など、ご飯を食べて、屋根の下で寝て、普通に生きていけるほどであれば構わないと思っていた。そのためか、彼女には好印象を与えたらしく、向こうも二つ返事で、医者崩れ状態のぼくを引き取ってくれることとなったのだ。
あれから一ヶ月弱。ぼくは、夏八木の町にいる。ここで、医師として新たな一歩を踏み出すために。それなのに、ここに降り立っても尚、スタートラインを踏み越えられない迷いのなかで、心は行ったり来たりを繰り返していた。
何のために、ぼくは医者になったのか?
本当に、医者を続けてもいいのか?
ぼくが医者であることを諦めない。そのことに意味はあるのか?
いくつもの疑問符が、ぼくの脳裏を去来しては、かき乱していく。それでも、ぼくはここにいる。だから、その迷いを断ち切るには、答えを得るためには、あの場所へ行くしかないのだ。始まりの場所へ……。
だが、乃木邸から、こおろぎ山までは、まだまだ距離がある。実際、二十年前も、乃木さんに見送られて、こおろぎ山への旅を再会したぼくの前に、果てしない道のりが待ち受けていた。
本当は、熱射病で倒れた患者が、目を覚ますまで付き合うのが、道理というものだったが、ぐずぐずしていれば、山の陽はあっという間に暮れてしまい、約束の時刻に遅刻してしまう。それだけ、こおろぎ山は遥かな高みとも言えた。
「それじゃ、春江さんにもよろしくお伝えください。失礼します」
ぼくは、多少の無作法と知りながらも、腰を上げて、縁側からお暇を請う。春実さんは、深々とお辞儀すると、ぼくを見送ってくれた。帰り際まで気がつかなかったが、玄関口の門扉に、子どものものらしき、自転車が立てかけてあった。どうやら、春実さんの息子のものらしい。もしかしたら、リコに会いに行ったとき、あの校庭で遊んでいた子どものだれかが、春実さんの息子だったかもしれない。
世間は思うより狭く、まして夏八木町は山と田んぼに囲まれた小さな町だ。離島ではないが、ぼく以外が電車から降りなかったように、外部から立ち寄る人間も少ない、ある意味で陸の孤島だ。そんな、寒村に唯一ある診療所の医者が、病気を理由に退職したのが七年前。それから、七年もの間、この町は医者を探し続けていた。
もしも、ぼくがこの町に帰ってこなければ、乃木さんは手遅れになっていたかもしれない。朦朧とする意識の中で、乃木さんがぼくに言った言葉。「ありがとう」
それだけでも、ぼくが寒村医療に携わる意味がある。でも、それだけでは、前に進めないのは、やはり瞳を閉じれば、そこに幸浩くんの顔が過ぎるからだ。彼を救えなかった、いや、死なせてしまったぼくの過ちを背負えば、たちまち崩れ去ってしまう。だからと言って「仕方がなかった」と諦めを口にする勇気はなかった。
もうじき早生の刈り入れが始まる頃だろうみかんの木が取り囲む、農道を山道へと戻る。再び耳にうるさいほどの、セミの鳴き声が聞こえてくる。
二十年前、ぼくはここから、乃木さんに言われた「留守冬男」に会うため、ただもくもくと山道を登坂した。
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