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14. 感謝の言葉

 豪放磊落、という言葉があるのを知ったのは、十年以上経ってからのことだった。肝の据わった人の事を指す言葉で、乃木さんはまさにその形容がぴったりの人だった。どうして、見知らぬぼくにこんなにも親切にしてくれるのかは良く分からない。細かいことを気にしない性格だから、「友達を助けるためなら行って来い!」といわんばかりに背中を押してくれたのかもしれない。だけど、そうではなくて、きっとヒメを救いたいというぼくの思いが伝わったからだろうと、考えることにした。

 この世は、悪意だけで形作られているわけじゃないということを、子どもながらに実感し、何故とかどうしてということを気にせず、乃木さんの言うとおり、大人の厚意に甘えた。そういった意味でも、乃木さんはぼくにとって「恩人」だった。

「いいかい、良くお聞き。この先の山の峰に、一人暮らしをしてる、陶芸家の小父さんがいる。あたしの弟だ。名前は、留守冬男(るすふゆお)という。変わった名前だから覚えやすいだろう? こおろぎ山へは、その小父さんに連れて行ってもらうといい」

 ぼくが、乃木さん家を出発する直前、母屋から地図を片手に走りよってきた。乃木さんはぼくに小さな手書きの地図を手渡しながら、説明した。どうやら、乃木さんがわざわざぼくのために、書いてくれたもののようだ。簡素に、こおろぎ山までの道のりが記され、その途中にばってんの印が描かれている。

「でも、ご迷惑になりませんか?」

 と、ぼくが言うと、乃木さんは噴出して笑った。

「子どもがそんなこと気にしなくてもいいんだよ! 大人の厚意に甘えなさいな。それに、山の日はすぐに暮れる。真っ暗になって、山を彷徨っていると、『山神さま』に連れ去られてしまう」

 脅し文句のようにも聞こえる『山神さま』の言葉がぼくの背筋をぞわぞわさせる。もちろん、それが子どもに言うことを聞かせる、大人の方便だと言うことくらい、十歳のぼくにも分かった。だけど、ここは素直に乃木さんの言うことに従おう。得体の知れない『山神さま』より、ここで家へ連れ戻されないだけでもマシだと思ったからだ。だって、まだぼくはヒメを救うための葉っぱを手に入れていないのだから。

「いいかい、くれぐれも山道から外れたりしないこと。無理だと思ったらすぐに引き返すんだよ。こおろぎ山までは、まだずいぶんと距離があるからね。子どもの足じゃ、一日以上かかってしまう」

「はい。いろいろ、お世話になりました。あの、リコとヨンちゃんのこと、よろしくお願いします」

 ぼくがペコりと頭を下げると、乃木さんは大福みたいな顔一面に、笑みを浮かべ、「任せときな」と強く胸を叩いた。

 リコとヨンちゃんのことは本当に心配だ。できるなら、すぐにでも、警察に電話してその行方を探してもらわなければいけない。でも、そうしている一分一秒にも、ヒメの命は、難しい病気に蝕まれているんだ。幼なじみと好きな子のことを、秤にかけ、そして好きな子を選んでしまったことを、後悔しないわけが無い。でも、逆にヒメのことをあきらめたなら、ぼくはもっと後悔したかもしれない。

 どうか、罪深いぼくを許して欲しい、と胸の奥で祈るような気持ちを抱えながら、ぼくは乃木さんからもらった麦藁帽子を被った。

 女の子の名前が書いてあったから、きっと女の子の帽子なんだと思う。その所為か、すこしぼくの頭には窮屈だった。

「気をつけて行くんだよ」

 ぼくは、乃木さんに見送られて、再びこおろぎ山を目指して出発した。何度か振り返り、何度も乃木さんに手を振った。そして、広いみかん畑の間を通る農道を登ると、やがて、木々がトンネルを作る山道に出る。地図をによれば、この道を延々と下っていけば、町に帰ることが出来る。

「行こう」

 ヨンちゃんのこと、リコのこと、後ろ髪引かれる思いを断ち切るようにぼくは、自分に言い聞かせた。そして、上りの道を選ぶ。目指すこおろぎ山は、ここからでは見えない。ひとまずは、乃木さんに言われたとおり、陶芸家の小父さんが居るという場所を目指すことにした。

 待ってて、ヒメ。必ず、世界樹の葉っぱを手に入れるから。ヒメのこと、絶対助けるからね。


 体温計が、十回目の検温を知らせる電子音を鳴り響かせた。小さな窓の液晶画面に、デジタルの数字。

「七度六分か……」

 とぼくは読み上げながら、安堵に胸をなでおろした。熱中症で上昇しきっていた体温は平熱に戻り、徐脈の傾向を示していた脈拍も正常に戻りつつある。

「予断は許しませんが、もう安心でしょう。すぐに、目を覚まされると思いますよ。ですが、くれぐれもご無理をなさらないようにお伝えください。特に、今日のように暑い夏の日に、屋外で農作業などに従事する場合、体温の上昇に気をつけることと、水分の補給を怠らないこと。特に、ただの水を飲むのではなく、スポーツドリンクなどの塩分を含んだ水を摂取してください」

「わかりました。母がお世話になりました、先生。ああ! わたしったら、お茶もご用意しないで」

 乃木さんの娘はそう言うと、母親の無事に安堵する間もなく立ち上がった。ぼくは、その背中に「お構いなく!」と声をかけたが、すでに乃木さんの娘の姿は、母屋の方へと消えた。

 残されたぼくは所在無く、開け放たれた縁側の向こうに見える、みかん畑を眺めた。二十年前と、なんら変わりないその風景は、懐かしさを呼び起こす。

 不意に、夏の風が蚊取り線香の香りとともに、小さな声を運んだ。ぼくの傍に横たわる、乃木さんが薄く目を開いている。まだ、意識がはっきりとしないのか、乃木さんは皺に囲まれた瞳でぼくの顔を見つめた。

「ありがとうよ」

 そういったかどうかは分からない。ただ、そんな風に乃木さんの口が動いたかと思うと、再び瞳を閉じて、静かな寝息を立て始める。ありがとう……か。何度も患者の口から聞いた言葉だ。聞きなれた言葉のはずなのに、胸が熱くなるのを感じていた。

 二十年の月日を経て起きた、偶然の出来事は、おかしなもので、ぼくと乃木さんの立場を逆転させた。二十年前は川で溺れたぼくが助けられ、今は熱中症で倒れた乃木さんをぼくが助けた。それを、出来すぎだとおもうよりも、ぼくはかつての恩人を救うことが出来たことを、嬉しく思っていた。

 患者を救って、こんな気持ちになるのは、一体いつ以来振りだろう。あれは、確か、ぼくが研修を終え、湾南大学救急救命センターに勤め始めたばかりの頃。始めて担当した患者。高校生の女の子で、貧血で倒れて運び込まれた。貧血の原因は女性特有の理由で、難しい治療を必要とはしなかったが、それでも彼女はまだあどけない顔に満面の微笑みと、「ありがとう、先生」の言葉を僕にくれた。その時ほど、医者になったことを誇りに思い、患者が笑顔で帰っていく姿を嬉しく思ったことはなかったかもしれない。

 それから数年の月日を経て、ぼくは忙しさの中で、「ありがとう」と言われることに、少しずつ嬉しさを感じなくなっていった。それよりも、早く次の患者、また次の患者と、機械的に、義務的に、患者を裁いていくことしか頭になかった。

「粗茶ですが」

 突然背後で声がして、ぼくは少しだけびっくりした。どうやら、遠い過去を思い出している間に、乃木さんの娘さんが、お茶を淹れて戻ってきたらしい。彼女は丸いお盆に、麦茶の注がれたコップを携えていた。その琥珀色の飲み物を目の当たりにして、喉がカラカラだったことを思い出す。

 他人には、「水分補給を」なんて言っておきながら、自分はヨンちゃんのコンビニで飲んだ五百ミリリットルのお茶以外、何も口にしていない。これぞ、医者の不養生。はしたないとは思いつつも、「いただきます」と麦茶のコップに手を伸ばした。香ばしい香りと、少しだけの苦味。一気に喉に流し込む麦茶の味は、二十年前、乃木さんが水筒に入れてくれたそれと、同じ味がした。

「ホントに助かりました。そういえば……先生はよくここが母の家だと分かりましたね」

 お盆を抱えながら、乃木さんの娘は素直に疑問を口にした。それもそうだ、ここには良く似た日本家屋が軒を連ねており、その中から乃木んの家を探り当てるのは難しい。

「お母さまは覚えておられるかどうか分かりませんが、ずっと以前、お母さまにお世話になったことがありまして」

「まあ、そうなのですか?」

 驚く乃木さんの娘の横で、僕はボストンバッグを引き寄せて、その中から古びた麦藁帽子を取り出した。縁はほころびて、「はるみ」とマジックで名前の記されたリボンがついたそれは、明らかにぼくの持ち物には見えなかっただろう。

「その時、お母さまからお借りしたものです。はるみさんというのは、あなたですよね?」

「ええ、春実はわたしです。その帽子のことは、良く覚えています。とてもお気に入りの帽子だったのに、ある日なくなってることに気付いて、母に問い質したら、男の子にあげたって……もしかして、その男の子って先生のことなんですか?」

 ぼくは苦笑交じりに頷きながら、乃木さんの娘、春実さんに麦藁帽子を手渡した。春実さんは、懐かしげに目を細め、麦藁帽子を眺めた。

「水筒もお借りしてたんですが、紛失してしまい、申し訳ありません」

「いいえ。まさか、先生はわざわざ家にこれを届けるために?」

「いえ、夏八木に用があったので、ついでと言っては何なんですが、お礼を兼ねて麦藁帽子をお返しに上がらせていただいたんです」

 ぼくがそう言うと、春実さんは、やや訝るように小首をかしげた。ぼくは慌ててコップを手元に置くと、再びボストンバッグをあさった。指先にプラスチックケースが触れる。それを手にとって、蓋を開けると中から名刺を取り出して、春実さんに手渡した。

「申し送れました。私、明日よりこちらの、夏八木診療所に勤めることとなりました、野崎秋人といいます」

 名刺を受け取った春実さんの顔が驚きに変わる。

「まあ、診療所の! お話は町役場の回報で伺ってます。何でも、首都圏の大きな病院に勤めてらしたとか。何でまた、こんな田舎に……?」

 その質問に他意はなかったと思う。だけど、ぼくは答えに窮してしまった。隠すべきではない、あれはぼくの過ちなのだから、その結果この町に戻ってきたのだと言うことは事実だ。しかし、それを口にする勇気がぼくにはなかった。

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