13. 熱中症
どこかから、涼しげな風に乗って、セミの鳴き声が聞こえてくる。ここは天国? それとも地獄? 友達を危険に巻き込んだ罪深き子羊に似合うのは、きっと地獄だ。でも、それにしては、とても心地がいい。柔らかな何かに包まれてていて、時折、蚊取り線香とい草の匂いが香る。
きっと、ここは、天国じゃない。そう思ったぼくは、重たい瞼をそっと開いた。視界に飛び込んできたのは、立派な梁の天井。どうやら、ここは古い日本家屋らしく、涼しい風は開け放たれた縁側から吹き込んでいる。その、縁側の先には、松の木が植えられた庭があって、更にその向こうには、みかん畑が広がっていた。
ぼくは畳の間の真ん中に敷かれた布団の上に寝かされていた。どうして、こんなところで寝ているのか、見当もつかなくて、戸惑ってしまう。
とりあえず、ぼくは生きてるみたいだ。ホッと胸をなでおろしたのもつかの間、次の瞬間には、ヨンちゃんとリコの顔が脳裏を掠めていく。二人はどうなってしまったのか。こんなところで寝転がっている場合じゃないよ、とぼくは慌てて、タオルケットを剥ぎ取って起き上がった。すると、全身に筋肉痛のような痛みが駆け巡る。
「いたたっ!」
思わず悲鳴を上げると、その声聞きつけたのか、母屋から忙しない足音が響いてきた。
「ありゃ、もう起きて大丈夫かい? 何処か痛いところはないかい?」
現れたのは、大福みたいな顔をした恰幅のいい小母さんだった。ぼくの母より一回り年上に見える。小母さんは、季節に似合わない、作業着のようなものを着ていて、その肩口にみかんの葉っぱをくっつけていた。
「あの、ぼく……」
「ほんとに、畑の向こうの川の岸にあんたが倒れてるのを見つけたときは、肝を冷やしたよ。まったく、こんな時分に川遊びでもしてたのかい? 親から教わらなかったのかい? お盆ごろに川や海で遊んだら、悪い幽霊に道連れにされてしまうって」
小母さんが、まくし立てるように叱るものだから、ぼくは言葉を失った。本当は、何がどうなってるのか尋ねたかった。そして、ヨンちゃんとリコはどうなったのか知りたかった。でも、小母さんの顔が怖くて、俯いてしまう。
「ここら辺き、流れが速いからね。気をつけなきゃだめだよ」
だけど、小母さんは急に声のトーンを落として、ぼくのところまでやってくると、膝を折りぼくの頭を優しく撫でてくれた。今更になって、家から被ってきた帽子がなくなっていることに気付いたけれど、そんなこともうどうでもよかった。ただ、助かったんだということが、実感として伝わり、恐怖がじわじわとぼくを塗りつぶしていく。
「さぞ怖い思いをしたんだろうね……。あとで、親御さんに迎えに来てもらうよう、電話してあげよう。たっぷり、叱られなさい」
「あの、助けてくれてありがとう、小母さん。でも、お母さんには電話しないで。ぼく、行かなきゃ行けないところがあるんだ。叱られるのは、その後にして欲しいの」
ぼくは顔を上げた。小母さんは少しばかり驚いた顔をする。
「行かなきゃ行けないところって、どこなんだい?」
「こおろぎ山」
「こおろぎ山!? あんた、そんなところに行ってどうするんだい?」
「友達を助ける」
小母さんの目を見て、ぼくは告げた。友達、と言ったのは、流石に好きな女の子のために、と言うのは恥ずかしかったからだ。でも、小母さんはしばらくぼくの目を覗き込むようにして、それから小さく溜息をついた。それは、ぼくの意志が固いと言うことを感じ取ったためかもしれない。
「小母さん、ぼくのほかに、男の子と女の子が岸に打ち上げられてなかった?」
ぼくの問いかけに、小母さんは首を左右に振る。
「友達ってのは、その子たちのことなのかい? でも、あたしがあんたを見つけたとき、他には誰もいなかったよ」
そう言って、小母さんは、ぼくを助けてくれた経緯を語った。
小母さんの名前は、乃木春江という。町外れに当たるこの場所で、みかん農家を営んでいるらしい。ちょうど庭の向こうに見えるみかん畑は、乃木さん家の畑なんだそうだ。そのみかん畑には、道が一本あって、山の斜面を下り、川へと続いている。そこは、丸い石のごろごろした岸辺になっていて、そこでぼくが発見されたのは、つい三十分ほど前のことだったらしい。たまたま水汲みにきた小母さんが、ぼくを発見して、慌てて家まで連れてきてくれた。幸い気を失うのが早かったおかげか、水を余り飲むこともなく、また、体を岩にぶつけることもなかった。だけど、岸に打ち上げられていたのは、ぼくだけだった。
次いで、今度はぼくが、ここに至った経緯を語る番だった。小母さんは、口を挟むことなく、逐一頷き返してくれた。そして、たっぷり十分以上もかけて話し終わると、小母さんは、
「危ないことを……、まったく困った子だねえ」
と、呆れ半分にぼくの頭をぺしりと叩く。
「ごめんなさい。もうしません」
「当たり前だよ。あんたに何かあったら、お父さんやお母さんが悲しむだろう? この世に、死んでいい人間なんていないんだ。……それは、そのヒメって子も同じだ」
と、言って小母さんは、大福みたいな顔に笑顔を浮かべた。
「昔、あたしも聞いたことがある。こおろぎ山には、神さまの宿る木があって、その葉っぱに願い事をすれば、どんな病気もたちどころに良くなるって話。でも、迷信というヤツかもしれないよ?」
「それでもいいんです。ぼく、ヒメを助けなきゃ! だって」
言いかけた言葉を飲み込む。だって、ヒメのことが好きだから、なんていえるはずもない。だけど、小母さんはぼくの内心を見抜いているかのように、ニヤリと笑って、もう一度ぼくの頭を撫でて、
「ちょっと待ってなさいな」
と言うと、母屋の方へ戻っていった。そして、ややもすると、小母さんは右手に水筒、左手に帽子を持ってきた。
「あんたが、その女の子を助けたい気持ちは、立派だと思う。今時、見上げた根性の持ち主だ。だけど、無謀と勇気は別物」
小母さんは、ぼくに水筒と帽子を差し出した。水筒には、麦茶が満タンまで入れられていて、縁のほころびた麦わら帽子には、女の子モノのリボンがつけられ、そこに「はるみ」と名前が書かれていた。
「これを持って行きなさい。はぐれてしまった、あんたの幼なじみの子たちは、あたしが探してあげよう。きっと、二人とも無事でいるはずさ」
「本当に?」
「ああ、川には、水神さまという神さまがいてね、あんたたちのようないい子を守ってくれるものさ。かく言う、あたしもね、あんたぐらいの年のころ、川で溺れて死にそうな思いをしたことがある。でも、その時あたしは見たんだよ、神さまを……。そんなあたしが言うんだから間違いない、二人は無事だ」
「うん。そうだよね」
ぼくは小母さんから差し出された、帽子と水筒を受け取った。
「小母さん、ホントにありがとう。ぜったい、いつかお礼するね」
と言うと、おばさんは、またぼくの頭を軽く叩いて、「期待せずに待ってるよ」とはにかんだ。
バッグの取っ手を首にぶら下げて、熱射病で倒れた乃木春江さんを背負うと、ぼくは小走りに、乃木さんの家を目指した。立ち並ぶみかん農家の端から数えて五つ目の家。
ぼくは、松の木が植えられた庭に駆け込むと、声を張り上げた。
「ごめんくださいっ!! どなたか、いらっしゃいませんか?」
あの日と同じように、縁側は開け放たれており、声は家全体に響き渡ったはずだ。すると、納屋の方から、ぼくより少し年上、ちょうど当時の母ぐらいの年齢の女性が姿を現した。彼女は、ぼくに背負われた乃木さんを見るなり、真っ青な顔をする。
「お母さん!」
どうやら、彼女は乃木さんの娘らしい。たしかに、すこしふくよかな顔つきは、乃木さんそっくりだった。彼女は事態を飲み込めず、訝しげな視線をぼくに向ける。
「さっき、そこのみかん畑で、倒れてらっしゃるのを見つけて、こちらへお連れしました。熱中症の可能性があります」
と、ぼくが言うと、警戒を解いた乃木さんの娘は、「大変っ! 病院へ」と、慌て始めた。しかし、救急車を呼ぶにしても、車で運ぶにしても、町外れのここからでは病院まで遠すぎる。ぼくは、唾を飲み下し、
「ぼくは……ぼくは医者です。居間から病院に運んでいては、間に合わないかもしれない。すぐに、ここで手当てをしましょう。これから言うものを用意してください」
と、乃木さんの娘に言った。
「まず、たらいいっぱいの氷水と、タオルをたくさん。扇風機をあるだけと、それからスポーツドリンクかみそ汁、無ければ微量の食塩を混ぜた食塩水。それから、体温計。急いでっ!!」
まるで、看護師の平沢さんに指示を与えているような錯覚を覚える。それでも、乃木さんの娘は頷くと、踵を返して母屋の方に駆け込んだ。ぼくは、縁側に面した居間へと上がり、乃木さんを寝かせた。そこは、二十年前、川で溺れたぼくを助けてくれた、乃木さんがぼくを寝かせていた場所だ。
奇しくも、二十年の時を経て、立場が逆転している。だけど、そんな感慨に浸っている場合ではない。ぼくは、すばやく乃木さんの着ている、作業着の上着を脱がせると、次いで、作業ズボンの裾を捲り上げる。
「持ってきましたっ!!」
両手に、タオルと氷水の入った金だらい、そして塩水、体温計を持って、乃木さんの娘がやって来る。彼女はぼくの前にそれを置くと、その足で、居間の押入れを開けて、扇風機を三台も取り出した。
「ちゃんと動くかしら。この部屋以外は、クーラーがついているから、もう十年くらい使ってないんです」
と、彼女は言いながら、それを横たわる母親の周りに並べた。その間に、ぼくは氷水にタオルを浸し、軽く絞ると、野木さんの腕や足、首筋を覆うようにかけていく。
「扇風機、入れてください」
ぼくが指示を与えると、三台の扇風機が、動き始める、ずいぶん年代モノだが、問題なく、三台の扇風機はファンを回した。
「これで体温が徐々に下がるはずです。脈拍も安定しているし、顔色もすこし良くなった」
そういいながらも、乃木さんの小脇に挟ませた体温計の表示とにらめっこをする。熱中症は、昔から熱射病などと呼ばれ、体温の上昇によって引き起こされる。特にここ近年は気温が高く、ろくな水分・塩分補給もせずに、長時間活動していると、重篤な場合死に至るケースある、危険極まりない病なのだ。
「よかった……」
ぼくの言葉を聴いた乃木さんの娘は、へなへなと腰を折り、ほっと胸をなでおろした。
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