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12. みかん畑

 背後に迫る電車が急ブレーキを踏む。レールと車輪が軋み、耳を劈くような金きり音は、地獄から舞い降りた悪魔の悲鳴のように思えた。不思議なことは、こんな息迫る状況に、本当ならパニックを起こしていてもおかしくないというのに、ぼくは至って冷静だったことだ。乗客の人たちに怪我がなければいいのに、なんて他人を心配するのは、余裕があったからじゃない。ただ、そんなあまりにフィクションじみた状況に、ぼくの頭が追いつかなかっただけなのだ。

 それでも、悲鳴を上げながら走る幼なじみの姿を見れば、これが、夢の中の出来事ではないことだと分かる。映画の中なら、都合よくことが運ぶものだけど、現実はそんなに甘くなかった。どんなに走っても、鉄橋を渡りきる前に、電車がぼくたちを轢き殺すほうが速いだろう。

 冷静でいることが出来なくなる前に、どこかに逃げ道はないかと、ぼくは周囲に視線をめぐらせた。と、不意にヨンちゃんの言葉が、鮮烈に脳裏を過ぎった。

『川に飛び込みたい』

 ぼくの頭の中で、電球が灯った。それも、危険な賭けであるにもかかわらず、一か八かの賭けに応じるほか、ぼくたちが助かる術はない。

 ぼくはリコの手を強引に掴んだ、そしてもう一方の手で、ヨンちゃんの襟首を掴む。二人は、驚きと不安の入り混じった視線と悲鳴をぼくに向けた。二人がどう思ったかは知らない。もしかすると、迫り来る死の恐怖に、ぼくの頭がおかしくなったと思っていたのかもしれない。

 それでも、こんなところで、人生を擲つつもりなど、これっぽちもない。だって、ヒメが待っているんだから!

 精一杯力を込めて、二人を引っ張って、鉄橋の上から飛び降りた。眼下に広がる川面へは、十メートル以上ある。リコの女の子らしい悲鳴と、自由落下する体の感覚に、ぼくはヨンちゃんと同じく、泳ぎが苦手だったことを思い出す。今更思い出したところで、もう遅い。

 電車が止まる音が遠くなり、代わりに急流のごうごうという音が近づいてくるやいなや、ぼくたちはもつれるように、水面に叩きつけられた。幸いだったのは、水深が深く、着底することがなかったことだ。だけど、息が出来ないのは、水の所為だけじゃない。全身くまなく、痛みが襲い掛かってきたからだ。

「シュウちゃん!!」

 ぼくを呼ぶリコの声。ぼくも、リコを呼ぼうとする。その拍子に、あいた口に水がなだれ込んできて、ぼくは思わず手を離してしまった。あっという間に、濁流がぼくの体を飲み込んでいく。

 折りしも、今年の梅雨は、例年よりも降水量が多かった。そのためか、水かさが増していて、流れも速い。

「ヨンちゃん! リコっ!!」

 必死に、親友の名を呼ぶけれど、彼らの姿はもうどこにもなかった。ここに至って、ぼくの心に焦りが生じる。焦りはやがて、パニックにかわり、ぼくは必死に濁流の中でもがいた。だけど、バタ足をしても、両手で水を掻いても、どんどん流されていく。そして、ぼくは、いきなり川底へと強く引き込まれた。まるで、川底に棲む魔物のに足を引っ張られたように。

 ずいぶん前、祖母から聞いた話だ。お盆のころに、川や海で水遊びをしていると、お化けに連れ去られる。余り信心深くない子どもだったぼくは、そんな祖母の忠告を聞き流していた。

 今まさに、その忠告の意味を理解して、同時に後悔した。そして、遠くなっていく意識の奥で、三年前に他界した祖母の、しわしわだけど柔らかく暖かな微笑みを思い出していた。


 橋の欄干にもたれかかり、目を凝らすと、遠目に件の鉄橋が見える。二十年の間に、ずいぶんとくたびれたようで、鉄橋を支える鉄の橋梁は、赤茶けていた。

 あの時、電車には乗客はほとんどいなかった。そんな彼らも、体を打ったくらいで、大事に至らなかったことは、不幸中の幸いだったのかもしれない。しかし、その後、一時間以上列車は停線する羽目になった上に、警察が出動する騒ぎにになっていたことは、後日知ったことだ。もちろん、両親にはこっぴどく叱られた。

「リコちゃんや、四郎くんが、死んだりなんかしたら、あんたどうするつもりだったの!?」

 普段は、あまり感情的に怒鳴らない母が、ものすごい剣幕だったことを、今でも鮮明に思い出す。

 あのときの判断が、正しかったかどうかは、今でも分からない。こおろぎ山を目指す道のりは、他にもあったはずだ。線路の上を辿らなくても、例え遠回りだったとしても田舎道を歩いていくことも出来たはずだ。もしも、そう提案していたなら、神野はぼくの一撃で昏倒することもなかったし、電車の運転手や乗客をはじめとする、いろいろな人に迷惑をかけずに済んだはずだ。そもそも、好きな子を助けたいと言うぼくのわがままに、友達を巻き込んで、危険な目に合わせることもなかった。

 十歳だから、そこまで頭が廻らなかった、と言い訳することも出来るけれど、それが、ぼくの判断ミスだということは、拭い去れない事実だ。

 ぼくは、二十年たっても何も成長していない。唾棄すべきなのは、結局自分の人生だったと言うことなのだろうか。

 そう、肝心なところで、判断を誤らなければ、あの時、津田幸浩くんは死なずに済んだに違いない。怒り悲しむ、彼の母親の顔をまともに見れなかったのは、ぼくが気道熱傷を見逃したためだ。何のため、誰のため、ぼくは医者になったのか。

 ただ平面的に、教科書を読み、医学の知識を詰め込んだつもりはない。患者と向き合う。患者のために、死力を尽くす。その純然たる想いは、いつのまにか変わっていたのかもしれない。同僚だった七尾先生の言葉を借りるなら、「自分はすごい人間だと、勘違いしている」だけなのかもしれない。一人の医者が出来ることなんて、あまりに脆弱で、あまりに少ないというのに……。

 かつて、大学のゼミを担当していた教授はこう言った。

「あなたたちが、何のために、誰のために、医者となるのか。その意思だけは、しっかりと持っていてください」

 ある同窓生は、そんな教授の言葉を「何のためかなんて、金のために決まってるじゃないか」と鼻で笑った。またある同窓生は「親の開いてる医院を継ぐ為だ」と言った。

 なんにせよ、みんなそれぞれの想いがある。ぼくは……? 教授の言葉に、優等生な回答しか思いつかない。「すべては、患者のために」それは、格好つけて言ったわけではなく、本心からの言葉だった。それを、他人がどんな風に受け止めるかは別としても、きっとぼくは優等生な自分に、うぬぼれていただけなのだ。

 やはり、唾棄すべきは、ぼくの二十年……。今一度問いかけるなら、「何のため、誰のために、ぼくは医者になったのか?」

 失われるべき予定にない、命を奪ったぼくは、一生その問いかけを繰り返し、罪という名の咎に苦しみ続けなければならないのか。誰が、それを望む? あの子か? ヒメか? それとも、ぼくか?

 答えの出ない自問自答を繰り返すぼくの頭を、まるでトンカチかなにかで、ぶつような、甲高い警笛の音が響いてくる。みれば、鉄橋の上をあの頃と変わらないデザインの列車が駆け抜けていく。ぼくは、その音によって、現実にぐいっと引き戻されたような気がした。

 橋の欄干から身を乗り出して、眼下を見れば、これもあの頃と変わらない、急峻な流れの川が覗ける。ふと、橋の入り口に「欄干の上にあがったりしないで! 川に落ちたら、あぶないよっ!」という、地元町内会が拵えた看板があったことを思い出す。

 おそらく、眼下の川に飛び込んだ子どもは、きっとぼくたち三人だけだろう。そのくらい、川の流れは速く、子どもでも危険だと分かる。二十年前、ぼくはその流れに飲み込まれた上に、幼なじみとはぐれて、下流へと流されていった。

「さてと」

 ぼくはひとりごちると、欄干から手を離し、橋を後にした。道はすぐに狭くなり、対向車がすれ違えないほどの狭い林道に変わる。地図によれば、ここから、山の方へと続いていくようで、少しだけ勾配があった。それでも、暑さを感じないのは、ここが林道だからだ。道の両端に生える木々はまるで、木のトンネルを作り、夏を謳歌するセミの鳴き声が、輪唱となって聞こえてくる。湾南大学の救命センターに勤めるようになって、久しくこれほどのセミの大合唱を聞いていなかった。あれは、ミンミンゼミの鳴き声。あれは、アブラゼミ。どこからか、ヒグラシの声も聞こえる。

 セミの鳴き声を探りながら、林道を歩いていると、林道が二つに分かれる。そこには、古ぼけた木の看板が建てられており、右に進めば、夏八木を取り囲む山岳地帯へと繋がっていることを教えていた。ちなみに、こおろぎ山は、田舎町、夏八木にある山々の、一つに過ぎない。

 だけどぼくは、山岳地帯へと続く路ではなく、あえて、左の道へと進路をとった。なぜなら、それがあの日の旅路だからだった。

 左の道は、しばらく行けば、斜めに下っていく。そして急に視界が開けたかと思うと、目の前に石垣に囲まれたみかん畑が広がった。みかんはまだ青い果実を携え、葉を山から吹き降ろす夏風に揺らしていた。ここは、斜面を利用した、みかんの段々畑だ。主な産業のないこの町に、古くから栄えているのが、温暖な気候を利用したみかん栽培だった。

 そして、さらにみかん畑に囲まれた道を下っていけば、農家の軒がいくつか見えてくる。古民家と読んでもいいような、かやぶきの大きな屋根が特徴的な日本家屋だ。

「たしか、乃木さんの家は……」

 屋根の数を端から数えつつ、目的の家を探す。どの家も、同じような佇まいから、橋から数えて何番目の家かで、確認するほかないのだ。ぼくの記憶が正しいなら、五番目の家が目的の家だ。

 突然の来訪に、あの人はぼくのことを覚えているだろうか? 少しばかり緊張してくる。ちょうどその時だった。

「う、うう」

 ともすれば、風にさらわれてしまいそうなほど、弱々しい声が、どこかから聞こえてくる。ぼくは、歩みを止めて、あたりを見渡した。石垣の上、みかん畑の奥からその声は聞こえてきた。低く、苦しそうな呻き声だ。ぼくは、自分の耳だけを頼りに、腰ほどの高さもある石垣を勢い良く登り、みかん畑へと、足を踏みいれた。

 背の低いみかんの木立を分けながら、声の主を探す。すると、みかんの木の下に倒れこんだ人影が見え、ぼくは、慌てて駆け寄った。

「大丈夫ですか? どうしました?」

 呻き声の主を助け起こしながら、救命センターで何度も患者に言った言葉を継げる。声の主は、季節に合わないえんじ色で長袖の作業服に、ツバ広の帽子を深く被った、老婆だった。老婆は、赤らんだ顔に玉のような汗をうかぺ、苦しそうな悲鳴を上げる。熱中症だと、ひと目で分かる。

 だが、ぼくは、それよりもその老婆の顔に驚いていた。二十年の間に刻まれた年輪の深さは、あの頃とは違うけれど、その目元や口元にかつて見た、優しげな面影がある。

「乃木さん! しっかりしてください!!」

 ぼくは、老婆の名を呼びながら、強くその体をゆすった。


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