1. 深夜の急患
はじめまして&こんにちわ。雪宮鉄馬です。
前作とは打って変わっての、シリアス路線の小説となる今作は、コンセプトを拙作「Belong」とは異なるロードムービー的アプローチと、「夏」らしい冒険の物語を描きたいと思います。
導入部である第一章では、ジャンルの「冒険」らしいシーンはありませんが、ご了承ください。
是非、最後までお付き合いいただけたなら、幸いかと存じ上げます。どうぞよろしくお願いいたします。
気だるい疲れだけが、自分のまぶたを重くする。クッションのほとんど効かない、簡易寝台代わりのソファに横たわると、地球の重力が三割り増ししたように、重くのしかかり、背中が痛い。仮眠室へ行けばいいものの、その気力さえ、残されてはいなかった。
眠る前に、今何時なのだろうと、天井を仰いだが、雑然としたデスクと資料の埋め尽くす部屋の中から時計を探す気にはなれない。とっくに勤務時間は過ぎているかもしれないし、まだ、勤務時間半ばかもしれない。でも、それはどうでもいいことだった。
どうせ、今日も家には帰れない。もうどのくらい、自分のベッドでゆっくりと睡眠をとっていないだろう。もしかすると、もう家の場所さえ思い出せないかもしれない。もっとも、給金の割りに狭苦しい八畳一間の、学生寮のようなアパートに帰る気にはなれない。それに、泥のように眠るだけなら、この背中が痛くなるような仮眠室のパイプベッドも、ソファだって、高級なクッションの効いたツインのベッドも、なんなら診察台の上だって、そうたいして変わりはない。眠る場所と時間さえあればそれでいいのだ。
ぼくは、まどろみの中でそんなことを思い、瞳を閉じた。間もなくして、全身を包み込むようなドロドロとした睡魔が襲ってくる。目覚めたときには、また喧騒の中に放り込まれることに、一抹の不安さえ感じながら。
と、その時、部屋の扉が乱暴に開かれ、睡魔に飲み込まれて三分足らずで、ぼくの眠りは一気に遠のいた。
「野崎先生! ホットラインです、起きてください!」
まるで風船でも割ったかのような声の主が誰であるか、瞳を開けて確かめるまでもない。看護師の平沢さんだ。平沢さんは、シューズの踵を鳴らしながら、ぼくのところまで駆け寄ってくると、肩を鷲づかみして強く揺さぶってくる。
「ああ。起きるよ、後何分だ?」
ぼくは気だるさをまとったままの声で起き上がりながら尋ねた。もちろん「後何分」とは、急患の到着までの時刻を尋ねたつもりだった。しかし、平沢さんはきょとんとしてぼくの顔を見る。ぼくは、睡眠不足の頭痛を抑えながら、もう一度平沢さんに問いかけた。
「急患がここに来るまで、後何分だ?」
「五分弱です!」
平沢さんは、ポニーテイルに結んだ髪をぴょこぴょこさせながら、時計を探す。しかし、雑然とした部屋の中に時計らしきものが見当たらない。困り顔の平沢さんを前に、ぼくは立ち上がり眩暈によろけそうになる感覚を覚えながらも、
「よし、患者を受け入れろ。直ちに処置室の準備、カルテの準備。仮眠中のやつら全員たたき起こせ。昨日運び込まれた、骨折の患者を第一整形外科病棟に移して、ベッドを空けろ。それから、七尾先生はどうした?」
と、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「七尾先生なら、娘さんが高熱を出して、早退されました。さっき、先生が仮眠を取る前に、言ったじゃないですか」
「ああ、そうだった。それにしても、今日は、搬送者数の過去最高記録更新日だな……」
「不謹慎なこと、言わないでください。それに、日付はとっくに変わってますよ」
冗談のつもりで言ったわけではない。朝から幾人もの患者がこの救命病棟に運び込まれ、容態の軽重を問わず処置に追われて、多忙の中に浸されていたのだ。ついでに言えば、やっと訪れた仮眠の時間さえ、あっという間に終わってしまったことへの、ささやかな愚痴だった。
「しっかりしてください、今センター長が非番返上でこっちにむかってます。それまで、夜勤勤務してる救命のドクターは、野崎先生一人なんですから! ぼーっとしてたら蹴っ飛ばしますよ!」
平沢さんは、そう言うとぼくの背中を思い切り叩いた。おかげで、頭の片隅に残っていた眠気が、虚空へと押し出されていく。蹴っ飛ばされないだけマシだと思えと言わんばかりに鼻で笑うと、平沢さんは直ちに踵を返し、ドアを閉めもしないで、処置室の方へと走っていった。
平沢さんは、ぼくより五つ年下の二十五歳の看護師。歳の割りに少し幼く見える外見を気にしつつ、こんな職場じゃ、婚期を逃してばかりだと、それが口癖のような彼女は、物怖じしない性格で、医師であるぼくに対しても、遠慮と言う言葉を知らない。それは、いい意味で言えば、気兼ねなく接することが出来る仲間だといえる。実際のところ、仕事のできる彼女のことは大いに信頼している。後は……軽い暴力さえなければいいのだが。
パタパタと、平沢さんの足音が遠のいていくのを聞きながら、ぼくはひりひりする背中をさすった。さて、仕事は待ってくれない。多少名残惜しい寝床のソファに、後ろ髪引かれながら、ぼくも部屋を出る。廊下に面した窓からは、すっかり夜も更けていると言うのに、湿り気を帯びた季節特有の熱気が伝わってくる。
そうか、今年も知らないうちに夏が来たんだな。そう思いながら、ぼくは窓の外に広がる夜景を見つめた。
周囲からは「城のようだ」と言われる、広大な敷地を持った湾南大学附属病院。典型的な大学病院で、さまざまな病気や怪我に対応できる科がひしめき合っており、その中の一つがこの「救急救命センター」だ。市内では唯一の、三次救急を備えており、次々と運び込まれてくる患者が後を絶たない。
しかし、昨今、他の医院も抱えているように、医師不足問題が深刻化している。理由はさまざまで、仕事内容とリスク、報酬が均等でないことや、患者のモラルの低下、更には医師の中には救命救急を「コンビニ医療」と蔑むヤツらまでいる。それは、当センターも例外ではなく、事実として、常勤の医師はセンター長を含め、七尾先生、そしてぼくの三人しかいない。完全にキャパシティ・オーバーと言わざるを得ないが、それでも患者は救いを求めて、今日もやってくる。
気合と疲労が完全に見合っていない異常な状態のまま、忙しさに追い立てられる気分は、それほど良いものとは言えない。しかし、病院から伸びる長いコンコースに、救急車の回転灯が見えれば、愚痴を言うことも、疲れに身を任せることも許されないことを、ぼくは知っている。
「先生、早くっ!!」
平沢さんが、搬入口へと走りながらぼくを呼ぶ。遅ればせながら、他の看護師たちも走ってくる。サイレンの音を耳にしながら、ソファに寝転がったせいで術着がみっともなく皺になった、と場違いなことを思いながら、ぼくは平沢さんたちの後を追いかけた。
病院の裏口に設けられた、救急患者の搬入口。まるで、何か恐ろしいものでも迎え撃つような、神妙な面持ちで、ぼくたちは搬入口で救急車を待ち構えた。ややもすれば、耳に痛い救急車のサイレンと、目にちらつくような赤い光が、深夜の闇を切り裂くようにやってくる。救急車は、急ブレーキさながらに搬入口の前に横付けすると、リアのドアを勢い良く開き、白いヘルメットを被った救急隊員が飛び降りた。そして、担架が降ろされる。
「患者は、則本マサキさん。年齢二十一歳、男性。バイクで国道を運転中事故に逢い、右下腿外側を開放骨折。全身打撲および、患部複雑骨折の疑いアリ。意識レベルは、JCS100」
救急隊員の義務的な報告に、ぼくは眉をしかめた。担架の上でぐったりと横たわる、季節に似合わないライダージャケットの青年。特にひどい、右足の傷からは白い骨が筋を食い破って露出し、だくだくと血の色にぬめりを帯びていた。
だが、それよりもぼくが気がかりになったのは、意識レベルが非常に低いことだった。その疑問が伝わったのか、救急隊員はこちらに視線を送ると、声を潜めて、
「すでに、こちらに受け入れてもらう前に、三つの病院で受け入れを拒否されました。通報からここまで、二十分以上も掛かっています」
と、報告に付け加える。
「担架移します!」
平沢さんが声を張り上げた。すかさず、「いち、にっ、さん!」と掛け声よろしく、ぼくと平沢さん、それにほか二名の看護師で患者を、救急車の担架から、センターの担架へと移し変える。
「則本さん、則本マサキさん。聞こえますか?」
処置室へ向かう長い廊下で、看護師たちとともに担架を押しながら、ぼくは必死に患者の名を呼びかけた。しかし、意識レベルから、応答はないことは分かっている。ペンライトを患者の目に当てる。瞳孔の散大はまだ認められない。手首に当てた指先から、脈拍も微弱だが感じられる。
「平沢さん、すぐに手術の準備!」
ぼくは、用意すべき薬品の名前と用量を列挙しつつ、処置室の自動扉をくぐる。術中に血が飛び散っても、その視覚的なショックを和らげるための、薄緑色の壁に囲まれた、部屋の隅。薬品の棚の間に、掛け時計を見つける。
時刻は午前二時。
無駄足になるかもしれないのに、こんな時間にたたき起こされた、センター長を哀れに思いながらも、骨折の治療だけであれば、それほど難しい手術でないことに、場違いな安堵感を覚えていた……。
『次は、夏八木。夏八木。お降りの方は、お気をつけて、お忘れ物のないようお願いします』
何故、電車の車掌という人は、こうも聞き取りにくいような喋り方をするのだろう。一説には、車内のおしゃべりと混同されないように、鼻に掛かった喋り方を身につけるのらしい。だが少なくとも、ぼくはその声のおかげで、夢から目覚めた。
イヤな夢を見て、動悸が激しく、首筋の辺りにひんやりとした汗を感じる。あれは、ひと月前の……。
ぼくはズボンのポケットからハンカチを取り出すと、それで首筋の汗を拭った。車窓に映る景色は、夏の昼間らしい、ギラつく太陽で眩しく見える。遠くの山々から生えるような夏雲、青さを際立たせた空、それらを映しこむ、ウォーター・フロントとでも言いたくなるような、どこまでも続く水耕田。稲の穂は、まだその鎌首をもたげてはいないが、青々として風にそよいでいる。
まだ午前中だからだろうか、車内におしゃべりがこだまするほどの乗客はいない。きこえてくるのは、夏休みの朝練帰りの高校生の声を殺したような笑い声くらいだろうか。その隣に、親子。さらに、揺れるつり革の向こうに、主婦、会社員といった、つながりのない客たちがまばらに咳に座っている。誰も、車掌のアナウンスに耳を傾けてなどいないだろう。ぼくと同じように、ぼんやりと窓の外を見つめている。
しかし、窓の外を眺める想いは違う。ぼくにとって、窓の外を流れる風景は、二十年ぶりに見る、ふるさとの景色だった。
やがて、列車はブレーキをかけ始める。キィキィと、レールと車輪がきしむ音が聞こえ、列車は小さなホームへと停車した。そして、自動扉が開くと、むせ返るような夏の熱気が車内を席巻していく。
辺りを見回しても、こんな田舎の駅で降りる乗客はいない。みな一様に、早くドアが閉まれば良いのにと、開け放たれた乗降口を睨めつける。
『夏八木』。駅舎に掲げられた駅名の看板にそう書かれている。この田園広がる片田舎の町の名前だ。逆に言えば、この町には駅はここ一つしかない。あとは、一本の線路が、ただひたすら真っ直ぐに隣町まで伸びているだけだ。どのくらい真っ直ぐ伸びているのか、ぼくは……ぼくたちは知っている。
あの日の思い出を辿るため、そのためにぼくはここへ来たんだと、大き目のボストンバッグを握り締め、ぼくは独りホームを踏みしめた。
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