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  作者: 森村征爾
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序章 合意社会

瀬戸内海のその島は、地図で見れば小さな点にすぎない。

けれど、そこに暮らす者たちにとっては、世界のすべてだった。

海は穏やかで、空は広く、風はやさしい。外から来る者は皆、口を揃えてそう言う。だが島の内側には、別の顔がある。


――見えない規律。

――名前のない掟。

――そして、静かに人を追い詰める仕組み。


移住者が一人、島にやって来たのは春の終わりだった。

古い空き家を改装し、静かに暮らすつもりだった男は、最初の一週間で違和感に気づく。歩けば目で追われる。郵便物が届かない日がある。買い物に行けば、店主の会話が一瞬止まる。誰も悪意を見せないのに、確かに距離がある。

そして三週目の朝、ポストに入っていた。

白い封筒。 差出人なし。 中には数行の紙片だけ。


「夜の港に出るな」


「余所者は見られている」


文字は印刷ではなく、手書きだった。しかも複数の筆跡が混じっている。

それは、この島のやり方だった。

噂は風より早い。しかも風より正確に、誰かの意図を持って運ばれる。

島の中心には、古老たちがいた。表向きは引退した静かな老人。しかし今もなお、島の人間関係の中心線はその男たちを抜きにしては引けない。

利害。恩義。沈黙。

それらが複雑に絡まり、島の空気そのものを支配していた。

ある者は言う。


「昔からこうだった」と。


ある者は言う。


「仕方がない」と。


そして、ほとんどの者は言わない。何も。

移住者の家の前を、見知らぬ車が何度も通るようになった。

夜、庭先の物音が増えた。

玄関の隙間に、誰かの視線を感じることがある。


監視は機械ではなく、人の目だった。 それがこの島の恐ろしさだった。誰も特別なことをしていないのに、誰もが見張っている。

そして、ある日。

彼のもとに「運動」と呼ばれる集まりへの参加要請が届く。

それは名目上、地域の安全と交流を目的とした会合だった。だが実態は違う。そこに出ない者は、徐々に「いないこと」にされる、いや

「存在しないこと」にされる。

会合の中心にいたのは、かつての町長だった古老、彼に近い数人の島の古株たちだった。

彼らは笑っていた。穏やかに。まるで世間話をするように。


「この島はのぅ、他所から来る人には少し厳しいかもしれん」


その言葉の裏で、紙と噂が静かに回っていく。

誰が何を言ったか。 誰がどこにいたか。 誰が“異物”か。

怪文書は、いつの間にか文化になっていた。

夜になると、島のどこかで紙が印刷され、誰かの家の郵便受けに落ちる。それは命令ではなく、空気だった。


「近づくな」


「信用するな」


「見ている」


そして、島の人々はそれを読むことで安心した。

秩序がある、と。

ある夜、移住者は港へ向かう。

風は静かだった。

だがその道の途中で、彼は気づく。遠くの家々の窓に、小さな光がいくつも灯っていることに。

見ているのは一人ではない。

見ているのは島そのものだった。

そして彼は理解する。

この島には「法律がない」のではない。

法律の代わりに、「合意」があるのだと。

誰も書面で決めたことはない。 だが誰も破れないもの。

港の暗闇の中で、紙片が一枚、風に飛ばされた。

そこにはただ一行だけ書かれていた。


「誰も信用するな」

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