7話 夜の蝶と昼の蛹
三人は駅前の広場を抜け、路地を曲がって小さなカフェへ向かった。通りの雑踏から一歩離れると、風にのってコーヒーの香りが漂ってくる。橘は入り口の扉を押し開け、先頭で中に入った。
入り口付近には観葉植物が置かれ、静かなジャズが流れる。カウンター席にはノートPCを開いた男が一人。席に案内され、橘と莉子は椅子に腰を下ろす。
向かい合う形で座った二人を前に、葵は立ち止まる。どちらに座るべきかを迷っている様子だった。
「ん」
橘が自分の隣りを案内するより先に、莉子が椅子を引く。自分の隣りに座るように目で促す。
「あ、すみません。ありがとうございます」
焦りながら、遠慮がちに座る葵。
足元にバッグを置くが、その所作も慎重だった。
「こんな怪しいおじさんの隣りは怖いもんね。女子同士座ろ」
「誰がおじさんか。怪しい青年だから訂正してくれ」
「怪しいのは自覚してるんだ」
「ははは」
二人のやりとりを前に、乾いた笑い声を控えめに上げる葵。背筋を伸ばして座る姿からは緊張がにじみ出ている。
莉子は対照的に、椅子に大きく座り、片肘をテーブルにかける。足を組み、髪を耳にかけながらメニューを眺めている。
――あらためて並べて見ると対照的な二人だった。
優劣をつけたいわけではなかったが、二人は明らかに違う。一人は地味で垢抜けない。もう一人は派手で華やか。大多数の目を惹くのは後者だ。ただ、橘はあの日に見た葵の笑顔がまぶたに焼きついており、両者に同程度の可能性を感じていた。
「私アイスティー。葵ちゃんはなににする?」
「あ、じゃあ私も同じのでお願いします」
手渡されたメニューを見ることもなく返答する葵。好みというより、その場の流れを崩さないために手早く答えたように映る。
葵からすれば、それも無理のない話だ。
見知らぬ大人二人に囲まれて居心地が悪いに決まっている。しかも素性の知れないスカウトマンと、自分とは住む世界の違う夜の住人だ。心ここにあらず、といった様子だ。
「じゃあ俺はアイスコーヒーにしよ。すみませーん」
莉子が何か言いたげな表情をしていたことに気づき、橘はその隙を与えないように店員を呼んだ。
数分後、店内の奥から氷の触れ合う音が聞こえてくる。
「アイスティーを二つと、アイスコーヒーですね」
丁寧な声とともに、グラスがテーブルに置かれていく。
莉子はグラスの水滴を指先でなぞりながら、二人の顔を見比べる。そうして思い立ったかのように口を開く。
「まずは自己紹介しよっか。私は莉子。今年ハタチで、普段はキャバクラで働いてる。この怪しい青年に馬鹿みたいなスカウトされて、気まぐれでついて来た。好きなものはお金。夢はお金持ち。アイドルとかよくわかんないけど、上手く行きそうだったら続けるし、そうじゃないなら辞める。以上」
莉子はスラスラと自身の思いを口にした。
素直な思いをそのまま口に出しているといった雰囲気だ。お店での愛嬌とは正反対の、飾らない挨拶だった。内容こそ淡白だが、話し声に棘はなく、悪意は感じられなかった。
莉子に続いて橘が自己紹介をする。
「じゃあ次は俺がするよ。俺は橘玲。年齢は27歳。一応、肩書は社長。昔は社員もいたけど、今は一人。一人になってから事務所も引き払ったし、本当の意味での“個人”事業主って感じ。これまでにも色々と事業を起こしてきたけど、まああんまり軌道には乗らなくて。何か良いアイデアないかなーって考えついたのが今回の計画。アイドル作って一発当てようって思い立ったわけ。好きなものはー、なんだろ? 煙草かな? まあいいや。夢はアイドルプロジェクトを成功させて、超大金持ちになること。長所は諦めの悪さ。あらためてよろしく」
「加賀さんとはどういう繋がりなの? どうやってあんな人と知り合えたの?」
「夜の街で偶然見かけてさ、これはチャンスだと思ってヤケクソで近づいた。それこそ登記だけして税金だけ払ってる状態だったし、このチャンスを逃したら終わると思って必死になって食い下がった。雇用関係とか業務提携ではないんだけど、まあそういう話はややこしいから、サポート体制にあるって認識で大丈夫」
「確かにしつこいもんね」
「長所だからな」
橘は嘘はついていない。
聡い莉子に対して、嘘をつけばボロが出る恐れを考えて、なるべく事実だけを語った。
嘘“は”ついていない。
捉え方を誤認させる言い方をしただけだ。隠したい部分を話さなかっただけだ。
橘は話すたびに、胸の奥にチクリとした痛みを感じていた。後ろめたさが心の奥に刺さっていた。
「葵ちゃんは何歳?」
次は葵が自己紹介を始める番だったが、莉子が先んじて問いかける。
「あ、はい。17 歳です」
「若! でもそうだよね。肌めっちゃキレイだし羨ましい。葵ちゃんは高校二年生?」
「いえ、学年で言ったら三年生です。ただ、去年辞めたんで、今はフリーターで、アルバイトをかけもちしてます」
「え、そうなの? 私なんか中卒だし、受験戦争を勝ち抜いた人尊敬する。葵ちゃんすごいね。なんのバイトしてるの?」
「えーっと、スーパーのレジ打ちと、定食屋さんと、コンビニと、三つですかね」
「そうなんだ。めっちゃレジ打つの早くなりそう。私子どもの時、レジ打つのにめっちゃ憧れてたなぁ。何処の定食屋さんなの。今度行くから教えてよ」
「えっと、西ビルの近くの交差点の所です」
「ああー、確かになんかあったかも。私意外と鯖の味噌煮とか好きなんだけど、置いてる?」
「はい、あります。けっこう美味しいって評判ですよ」
「ホント? やったー、今度行こうっと。葵ちゃんは好きな食べ物なに?」
「私はー……、おそばとかですかね?」
「わかる! 私もそば好き! 美味しい店知ってるんだけど、今度一緒に行こ。もちろん橘社長のおごりで」
「あはは。ぜひ行きたいです」
「葵ちゃんは兄弟はいる? しっかりしてるし、一人っ子っぽい」
「しっかりしてはないんですけど、一人っ子です」
「良いなぁ。私お兄ちゃんいるんだけど、マジでムカつくからね。一人っ子憧れる。こんな変な男にスカウトされた時、最初は怖くなかった? 無理やり勧誘されたんだったら言ってね。お客さんに弁護士とかもいるから、慰謝料とろ」
「そ、そんなことないです。最初は信じられなかったんですけど、私なんかって。でも嬉しかったです。だから頑張りたいなって、思います」
「良い子過ぎ! 騙されないように注意してね。お姉さんはそれが心配」
「あはは、ありがとうこざいます。気をつけます」
莉子は自然な形で自己紹介を誘導する。
相槌を随所に挟みながら、柔和な態度で葵の背景を掘り下げる。共感の声を心地よい温度で発するため、雰囲気は和やかだ。葵の緊張感も薄らいでいる。
――さすがキャバ嬢。喋らせるのが上手い。だけど、少し意外な対応だ。
上昇志向の強い莉子のことだから、見かけで判断し、不満を表出するかと思っていた。これほどまでに友好的な態度で対応するとは思っていなかった。
橘は莉子の心理が読めなかった。
「お金の問題は大丈夫なの?」
それは核心的な問いかけだった。
莉子の顔に、先ほどまでの柔和な色はなく、静かでどこか厳しい印象を受ける。
言葉に詰まる葵に対し、莉子は続ける。
「橘さん、活動費としてお金払える?」
「……軌道に乗るまでは出せない」
橘は莉子の問いにそう答えるしかなかった。
橘は肩書だけの社長であり、実績も資産も人脈もない。ただの夢を語る青年。その現状が歯がゆくて、唇を噛むしかできなかった。
「だよね。それでも大丈夫? アイドルを目指すってことは、バイトする時間が削られるってことだよ。給料が少なくなっても問題ないの?」
アルバイトを三つかけもちしているということは、単に忙しいという話ではなく、そうまでしてお金が必要ということだ。生きるにはお金が必要。当然であり避けがたい真理をあらためて提示する莉子。
「……両立できるようにがんばります」
弱々しく返す葵。
莉子の問いかけは止まらない。
「ご両親は?」
「おい、そういうプライベートな話は――」
「橘さんは黙ってて。大事な話よ。これから一緒にやっていこうってメンバーなんだから、必要なことよ」
「だからって今聞くことじゃないだろ。そういうセンシティブな話は、初対面で話せることじゃないだろ。配慮が足り――」
「はあ? 今だからこそでしょ。なに? それが優しさだと思ってるの? 未成年の子の人生を預かろうとしてるのよね? 最初にハッキリさせとかないといけない問題でしょ。そっちの方こそ無責任じゃない」
「そういうことを言ってるんじゃないだろ。聞き方とか、タイミングとか、そういうのを考えろって言ってんだよ」
言葉が少し強くなったのは、葵のためというより、後ろめたさがあったから。莉子の指摘で浮き彫りになる、自分の浅はかさに目を背けたかったからだった。
「じゃああんたは知ってんの? 彼女の家庭事情を知った上で、ついて来いって言ってんの?」
「それは……」
莉子の言葉が突き刺さる。
橘は言葉が出なかった。
双方の言い分は間違っていない。
葵の心理的な負荷を考える橘の考えも、この先を案じる莉子の考えも、間違ってはいない。だからこそ折り合いがつかず、二人は熱くなる。雰囲気は険悪なものに一変した。
「二人ともやめてください! すみません。私が中途半端な態度をしてしまったからです。すみません」
葵は今日一番の大きな声で二人を制す。
申し訳なさそうな顔つきと声で謝罪し、頭を下げる。
十代の少女に頭を下げさせていることが、橘は情けなくてたまらなかった。莉子も同様のようで、忍びなさそうな表情だった。
「葵ちゃん気を悪くしたらごめんね。デリカシーがないのはわかってる。でも私は心配で」
「莉子さんが気づかってくださっていることはもちろんわかってます。私も大事なことだと思います。だから答えさせてください」
そう言って橘に目線を送る葵。
『私は大丈夫だから、心配しないでください』
そんな思いが伝わってくる。
少女に気づかわせていることが、橘は本当に情けなかった。
「両親は離婚して、今はお母さんと暮らしてます。お母さんは元々体が弱かったんですけど、去年体調を崩してしまって。今まで通りに働くことが難しくなったんで、高校を中退して、私が働くことにしました。最初は正社員の募集を見たんですけど、なかなか良いものがなくて。それだったらアルバイトの方が、長い時間働いて、給料も稼げるかなって、今の生活になりました」
「そっか。色々あったんだね。私も片親で、お金のない家育ちだから、おんなじだね。私の場合は、はやくお金を稼いで一人で暮らしたかったから、中学卒業と同時に夜の世界に飛び込んで、今まで働いてきた。好きな食べ物も一緒だし、私たち似てるのかもね。その上でもう一度聞くね。本当に橘さんについて行っていいの?」
「……正直私、アイドルとかよく知らないですし、わかりません。生活と活動が両立できるのとかもわからないです。莉子さんみたいに綺麗じゃないですし、向いてないって思ったりもします。でも、やってみたいです。橘さんに声をかけられた時、本当に嬉しかったんです。キラキラした目で誘われて、私も夢を見てみたいって思ったんです。私じゃ役不足かもしれませんが、莉子さん、私も一緒にやらせてください」
言葉を失った。
葵のまっすぐな瞳に、橘は何も言えなかった。
莉子の言い分は、正直胸が痛かった。
自身の目標のために、葵の抱える現実問題から目を背けていた。指摘されたことで、自分の浅はかさが露呈し、気が動転していた。そんな浅はかさを肯定したのは、他ならぬ葵だった。
初対面の雰囲気にのまれる葵に、不安を覚えていたが、彼女はそこまで弱くはなかった。戸惑うばかりの少女かと思いきや、彼女の方が芯を持っていた。
「役不足って誤用らしいよ」
「え、あ、そうなんですか。知らなかったです……」
莉子の指摘に対し、葵は慌てて頭を下げる。
赤面しながら動揺する葵を見て、莉子は無邪気に笑う。
「あはは! もう、真面目に捉えすぎ。試すようなことしてごめん。私の方こそよろしくね、葵」
そう言って莉子は葵に手を差し出す。
「はい。よろしくお願いします」
握手を交わす二人の手を見つめながら、橘は深く息を吐いた。
――ようやく、始まった気がした。




