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地下二階のシンデレラ  作者: 田中
一章 名のなき始動
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4話 夜の蝶

 夜の街は、昼とはまるで別の顔を見せる。

 ネオンが滲み、ガラス越しの光がアスファルトをあでやかに照らす。酒の匂い、香水の残り香、酔った笑い声。橘はその雑多な空気の中を、スーツの襟を立てながら歩いていた。


 この日もスカウトは空振り続きだった。

 一ノ瀬葵を見つけた翌日、調子に乗って街を歩き回ったが、二人目はなかなか見つからない。怪しいスカウトマンの言葉に耳を貸す者はいない。話すら聞いてもらえぬ現状を受けて、橘は考え方を変えた。それなら会話が成り立つ相手をスカウトしようと。


 実績も根拠もないのに、橘は口先には自信があった。加賀と一ノ瀬葵を引き入れられたことで、その自信を強めていた。今から試みる無茶も、橘の中では見込みのある行動だった。


 橘はある建物に訪れる。

 小綺麗なスーツで身を包んだ男に愛想良く出迎えられながら、目的地へと入店する。ガラスのドアが開いた瞬間、甘い香水と笑い声が五感をくすぐる。天井から降りるきらびやかな光りは、その場にいる者を鮮やかに演出している。


「お客様ご来店誠にありがとうございます。ご指名の者はいらっしゃいますでしょうか?」


 入るやいなや、格式張ったセリフが橘を迎える。


「いえ、特にありません。良い感じの女の子と喋れたらなーって。あ、ちなみに、若くて可愛い子が好きです」


「左様でございますか。それでは当店自慢のキャストをうかがわせますので、お席にどうぞ」


 橘はキャバクラにやって来ていた。日頃のストレスを癒やそうと思ってきたわけではない。借金と課題を抱える橘にそんな余裕はない。


 ここは金銭という見返りを払うことで、心地よい気分に酔わせてくれる場だ。客をもてなすのが職務であり、本心はどうあれ、どんな世迷い言でも聞き入れてくれる。橘はそこに活路を見出みいだした。夜の街に集まる女たちは、夢と現実のはざまで生きている。地に足がついていない分、口説く余地がある——橘はそう読んでいた。


「こんにちはー! はじめまして! マリカって言いまーす!」


 カツカツと赤いヒールが床を打つ。血のように鮮やかな赤が、薄暗い店内でひときわ目を引いた。

 ブリーチのかかったセミロングの髪。真っ赤な口紅。長いまつ毛。ボディラインを強調したタイトなワンピース。甘い香水の匂い。どれをとっても一ノ瀬葵と対照的な出で立ちだ。


 明るく距離を感じさせない声色で挨拶をしてから、慣れた調子で席に座る。


「名刺渡してもいいですかー? はじめまして、で良かったですよね?」


 正真正銘はじめましてだが、マリカは疑問を投げかける。唇を尖らせ、困ったように小首を傾げるその様はあざといものだ。話のきっかけを早い段階で用意する周到しゅうとうさも抜け目ない。


「はじめましてだよ。こんな可愛い子忘れるわけないし。でも忘れてたとしたら、こんな可愛い子と初めて会った感動を二度味わえるんだから最高だね」


「あはは! ええー! そんなことはじめまして言われましたー! お兄さんひょっとしてもう酔ってますか?」


「うん。だから水だけでいいや。安い客になっちゃうけどごめんね?」


「いえいえ、実は当店、名水を使ってるんでとくとご賞味ください。で、何飲みますか? 水道水が一杯10万円なんですけどキープしますか?」


「えっと、知り合いに水道関係専門の弁護士がいるんだけど相談してみてもいい?」


「あはは! どんだけニッチな弁護士なの。ウケる。相談しちゃダメ。だって営業停止になったらお兄さんと会えなくなっちゃうじゃないですか!」


「それは寂しいから嫌だ! ハウスボトルでいいから、それの水割りちょうだい」


「了解しました! マリカが作るとどんなお酒でも極上の一杯になるって有名なんですよ!」


「え、マジで。一家に一台欲しいんだけど。ドンキとかに売ってたりする?」


「あはは、今交渉中なんで、市場に出たら言うね」

 

「ってかホント可愛いね。何歳?」


「ピチピチの20歳でーす! でもお兄さんもそんなに変わらなくない? ってかお名前教えてください!」


「もう俺はアラサーのおっさんだよ。ってかおっぱいもデッカイね。何カップ?」


「諸説あるんですけど、AからGの間らしいよ。ってかお兄さんと話してたらおもしろーい! こんなに楽しいの久しぶり。楽しくて喉乾いちゃった。もっとお話したいんで一杯いただいてもいいですか?」


「おっぱい触らせてくれたらいいよ」


「ええー責任とってくれる?」


「もちろん。とるとる」


「でもマリカお金のかかるタイプですよ? 将来の夢は毎日高級レストランで食事して、全身ブランド物でおしゃれして、外車に乗りたいタイプなんですけどお嫁にもらってくれますか?」


「ごめん俺給料全額寄付するタイプだから無理」


「ええー、ひどい! 乙女心をもてあそんだー! ぷんぷん。罰として一杯ごちそうしてください」


 人懐っこい笑顔と声色は警戒心をほどく力があり、マリカは自然にふところに入り込んでくる。あざといボディタッチも絡めながら、男心をくすぐる。ただ、その本質は甘くはない。


 橘はスーツを着ているが、その足元はスニーカーだった。スカウトの際に歩き回るので、楽にできるという狙いがあったが、この場におけるドレスコードとしては相応しくない。私的な目的で来るのなら話は別だが、今回に関してはあえてスニーカーで来る狙いがあった。


 彼女達の仕事は客から金を引っ張ることだ。引っ張れるところから引っ張り、売り上げを上げて給料を上げる。安い客に時間を浪費することではない。歩き回ってくたびれたスニーカーは、橘が彼女達の望む客でないことが一目でわかる代物しろものだ。


 出会った直後、マリカは瞬時のうちに橘の全身に視線を通した。品定めされていることに橘は気付いていた。フリーで来た金の匂いがしない男を見て、しかもその男が面倒な絡み方をした時、どう判断して対応するのかを見定める狙いがあった。


 彼女達はプロであり、簡単に嫌な顔を見せたりしない。けれどもその前に人である。だからちょっとした表情や仕草さに苛立ちが透けることもある。ただ、マリカはそれをおくびにも出さなかった。


 ――こいつは使える。

 そんな予兆が、酔いの代わりに胸の奥を熱くした。


 

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