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地下二階のシンデレラ  作者: 田中
一章 名のなき始動
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10話 蛹の変化

 煙草を吸い終えた二人の間に、短い沈黙が落ちる。

 道路を走る車のエンジン音と、繁華街を歩く人の声が遠くに響いていた。


 「葵緊張してそうだし、私はそろそろ店戻るね。化粧もしなきゃだし。橘さんはどうする?」


 莉子は、いじっていたスマホをポケットにしまいながら言った。


「俺は外で時間潰してる。仕上がってから見たほうが楽しみは大きいし」


「期待してて。多分だけど、あの子化けるよ」


 莉子は軽く手を振り、雑居ビルの中へと戻っていった。

 後ろ姿は軽やかで、どこか期待を預けていくような気配を残した。


 見送ったあと、足が自然と動き出し、橘は当てもなく街を歩きはじめた。


 風が少し冷たくなっていた。秋の匂いが、どこか胸に沁みる。


 ――疲れたな。

 率直な感想はそれだった。


 さとい莉子がメンバーになってくれたのは心強い。 

 だが矛先ほこさきが自分に向くたび、気が休まらない。   

 ボロを出さないように。安く見積もられないように。気を張って、背筋せすじを伸ばして、笑ってみせる。

 彼女は頼りになるが、飼いならすことのできない女性だ。


 橘はショーウィンドウに映る姿を見た。

 スーツの襟元は少しよれて、靴の艶も消えている。

 “社長”という肩書きには、もう誇りよりも虚しさの方が勝っていた。


 ――これまでの俺は、なにも上手く行かなかった。

 学生の頃から、起業を夢見て動いた。情報商材、Webマーケティング、アフィリエイト。どれも軌道に乗らず、借金だけが積もった。返済のために次の事業を始め、また失敗した。借金は最大で200万を少し超えた。


 できる限りの努力はしたつもりだ。寝る間も惜しんで、可能な限り働き続けたが、目に見えた結果は出なかった。努力を積み重ねるほど、底なし沼に沈んでいくような気がした。


 ――知ってるさ。“頑張った”、“努力した”なんてなにも誇れることじゃない。結果が出なきゃ意味がない。俺の努力は、借金と、“社長”という名ばかりの肩書しか残さなかった。

  

 希望を失った俺には、街の灯りがくすんで見えた。街中を歩く人の笑顔が眩しかった。

 虚しさなのか、嫉妬なのか、自分でもわからない。

 

 そんなとき――あの日、偶然、加賀の不倫を見た。

 チャンスが欲しかった。ただそれだけだった。もう俺にはとれる手段も、成功を掴むアイデアもなかった。道を踏み外していると知りながら、俺はそこに手を伸ばした。

 罪悪感と安堵が同居して、胸の奥がにぶきしんだ。

 莉子の指摘が胸に響いたのは、目を背けてきた不都合な事実だったからだ。自分の計画のために、知らないフリをして進んできた。


 橘は立ち止まり、空を見上げた。

 秋の雲が街の光を反射して、どこか濁った色をしている。


 ――もう後がない。やり直しなんてきかない。

 でも、だからこそ、今度こそ掴むしかない。


 頭の中がもやに包まれていく。

 考えすぎて、視界がぼやける。

 泥水の中でたゆたっているような感覚――。


 そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。

 現実に引き戻されるように橘はスマホを取り出し、画面を見つめる。

 そこには短いメッセージ。


「終わったよ。美容院に来て」


 莉子からだった。


 橘は深く息を吐き、顔を上げた。

 ――後悔も悩みも今は置いておこう。葵がどうなったのか、それが楽しみだ。


 彼は歩を進めた。夜の光が看板を照らし、人の波が途切れなく流れている。夜の風が頬を撫で、さっきより少しだけ、冷たく感じた。

 

******


 美容院の前に着くと、ほどなくしてふたりが見えた。

 先に目に入ったのは莉子の姿。葵は背を向けており、まだ全容は見えない。 期待感に背中を押されながら、橘は足早に二人のもとに向かう。


「悪いおまたせ」


「遅い。何処行ってたの?」

 

 駆け足で来た橘に対し、莉子は腕を組み、待ちくたびれたと言わんばかりの態度だった。不満げに唇をとがらせている。


「悪い悪い。アイドルの原石がいないかスカウトしてた。でも二人に匹敵する子は見つけられなかったわ」


「こんな時までご苦労でした。そんなことより――」


 莉子の言葉に合わせて、葵の肩が小さく揺れる。

 光の当たり方が変わり、まだ顔の見えない横顔に陰影が落ちた。

 そして、莉子がそっとその肩を押す。葵がゆっくりと振り向いた。


 振り返った少女を見た瞬間、橘は息をのんだ。


 ――マジか……。


 そこに立っていたのは、さっきまでの葵ではなかった。

 重たく垂れていた前髪は軽く流され、光を受けて柔らかく揺れている。暗い印象を作っていた髪の影がなくなり、輪郭が明るくハッキリと見える。頬に差す街灯の光が新しい表情を浮かび上がらせる。その瞳は驚くほど澄んで見えた。莉子が化粧をほどこしたであろう影響もあり、あどけなさが残る顔立ちに大人びた光が宿っていた。


 そこにいたのは別人のようだった。


「どう? ね、変わったでしょ?」


 莉子は胸を張って言う。得意げな笑顔で、自慢げに笑っている。

 それとは対照的に、当人は照れ臭そうに、視線を落としている。


「なんか、まだ鏡を見ると自分じゃないみたいで……でも、ちょっと前向きになれた気がします。莉子さんのおかげです。ありがとうこざいます」


 別人かと錯覚してしまいそうになるが、その声と自信なさげな喋り方は、そこにいる少女が葵であることを証明している。その声は恥ずかしそうに小さく震えていたが、確かな希望が混じっているように聞こえた。


 葵の変化に対し、リアクションすべきなのに、橘は言葉が見つからなかった。いつもの調子で、軽口をたたきながら褒めることができなかった。


「――可愛くなったな」


 絞り出した言葉はシンプルな一言。嘘偽りのない感想。


 蛹が羽化に近づく。そんな比喩が、自然に脳裏をよぎった。

 十七歳の彼女はまだ完成されていない。光をまといはじめただけだ。それでも、無謀な夢に期待感を感じさせる変化だった 


「あはは……ありがとうございます。嬉しいです」


 葵が笑う。その笑顔はぎこちなく、でも真っ直ぐで、どこか眩しかった。


「よし、じゃあ記念に三人で写真撮ろ!」


 莉子の明るい声が響く。橘は促されながらスマホを取り出した。

 街灯の光が三人の間を照らし、風に髪が揺れる。


「ちょっと葵、顔かたい。髪切った日の女子は最強なんだから、笑って」


 莉子が軽く肩を叩くと、葵はおずおずと微笑んだ。


 静かなシャッター音。

 画面にはぎこちない笑顔の葵と、その両横でピースをする二人。それはまだ何者でもない三人が初めて並んだ、たった一枚の写真だった。


 橘はその写真を見ながら、心の中で誓う。


 ――絶対に成功させてみせる。

 あの時失ったものを今度こそ取り戻すために。この二人を輝かせるために。


 胸の奥で止まっていた歯車が、静かに、小さく動いた気がした。




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