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栗の花

栗の花


僕の人生でいちばん幸せだった時間は、仕事での成功でも、好きな女性と初めて肌を重ねた夜でもない。

ほんの十分足らずの、何も起こらなかった朝のことだ。


高校二年の春、同じクラスに「彼女」がいた。

地味な制服に短く整えた髪。背が低く、なで肩で、腕が細くて、まるで教室の影のようにそこにいた。

最初は「可愛らしい子がいるな」くらいにしか思っていなかった。目が悪くて、人の顔なんてちゃんと見たことがなかったから。


でも、選択の音楽の授業で彼女がすぐ後ろの席に座ったとき、僕ははじめて彼女の顔を正面から見て、息をのんだ。

切れ長の少し吊った二重瞼。右目の下に、一粒の涙ぼくろ。

まるで映画から抜け出してきたような顔だった。梶芽衣子の十代の頃は、きっとあんな表情だったんじゃないかと思う。


後にテレビである若手女優を見たとき、「あ、彼女に似てる」と思った。

顔の輪郭や体型は近い。でも、たぶんあんなに美人ではなかった。

ただ、もっと刺さる。もっと毒がある。もっと魅せる。

一目惚れだった。



僕たちの通っていた高校は、県内トップクラスで、東大や京大に十人以上進学するような学校だった。

彼女は、その中でも常に上位。クラスで一、二を争っていた。


一見おとなしく見えるけれど、実は負けず嫌いで、勝つための努力を惜しまない。

正直に言えば、ガリ勉だった。でも、それすら上品だった。

僕はずっと、医者か大学教員の娘だと思っていた。

実際は一般家庭の娘だったと知ったのは、ずっと後のことだ。


あの気品は、生まれつきじゃなくて、彼女が努力で手に入れたものだったのだと思う。

成績でクラスのヒエラルキーが決まるような空気の中、

彼女がクラスで2位になったとき、僕は彼女の笑顔の奥にほんの小さな悔しさを見つけた。

誰も気づいていなかったと思う。でも僕は、ずっと彼女のことばかり見ていた。


僕はと言えば、入学してすぐに自信を失った。

中学までは成績優秀で「天才」とすら呼ばれていた僕は、高校最初のテストで400番台。卒業するまで浮上することはなかった。

授業中は寝てばかりで、起きているときは図書館で借りてきた小説を読んでいた。

ラグビー部に入って、男友達にはそれなりに人気があったけど、

彼女には、きっと遠い存在に映っていたと思う。


それでも、好かれたかった。

でも何もしなかった。

勉強も──

好かれるような努力も。


三年になり、僕らは別のクラスになった。

彼女はさらに成績上位者ばかりが集められるクラスに入って、僕はその他のクラスにいた。


ある日、放課後。友人に借りた教科書を返しに彼女のクラスを訪れた。

彼女は勉強していた。隣には、同じように優秀な男子生徒。

親しげに僕に話しかけてくれたけれど、僕はショックを受けて、青ざめた顔で何も言えなかったと思う。


五月の終わり、雨が降った朝。

学校の最寄りの駅を出て 傘を持っていなかった僕に、彼女がふと傘を差し出してくれた。


一瞬、世界が音を失った。


相合傘で歩いた数分間、僕は舞い上がって、くだらない話をベラベラと喋り続けた。

今思えば、彼女は当時の彼氏とうまくいっていなかったのだろう。

僕に好意があるのを知っていて、それを見せることで、なにかを伝えたかったのかもしれない。


ずるいな、と思う今もある。

でも、嬉しかった。ただただ、嬉しかった。


通学路の最後の坂道で、あの匂いがした。


栗の花の匂い。

誰かが「精液に似ている」と言っていたけれど、僕にはそれが、初夏の息吹を感じさせる、

若々しいエネルギーそのものの匂いに思えた。

湿った土の中に、ほんのり甘く、胸を高鳴らせるような匂いが混ざっていた。

高揚感と、甘やかな予感が入り混じった──

それが、人生でいちばん嬉しかった朝の匂いだった。


彼女とはその後、少しだけ付き合った。

でも僕はまだ、自分の気持ちに正直になれなかったし、

彼女のことを“内面から好きになった”とは言えなかった。


たぶんあのころの僕にとって彼女は、アニマ──

自己の無意識にある「理想の女性像」の具象化でしかなかったのだと思う。


今でも彼女を抱きたかったという思いはない。


ただ──

彼女の細い肩越しに見えた景色、

傘は要らないほどの優しい霧雨に濡れた新緑。

そして、あの栗の花の匂い。

それは、今もふとした瞬間に蘇る



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