6.王族の来訪に備えて
フェリシティは帰国してすぐに自分の弁護士に面会のアポイントを取り、アーサーとの婚約を解消したい旨を伝えた。
話を聞いた老齢の弁護士は眉をひそめて、
「アーサー君が君を裏切るような真似をするかな?」
と言ったのだ。
彼の名誉のためにもステラの件は伏せるつもりでいたが、信じてもらうことが大事だと考えたフェシリティはありのままを打ち明けることにした。
「アーサーの自宅の電話に出たのはステラだったわ。アーサーはシャワーを浴びているから電話には出られないと彼女に言われたのよ」
フェリシティの告白に弁護士は驚いた顔をしたものの懐疑的な考えは変わらなかった。
「シャワーを浴びるのはなにもそういうときだけじゃないだろう?雨で濡れたのかもしれないし、汚れたのかもしれない。
それにその看護師も間違っている、他人の家の電話を勝手に取るなんて。マナーがなっている人物ならまずしないだろうさ」
「それはそうですけども、親しい仲ならあり得るのでは?」
「では君はアーサーの自宅の電話が鳴ったら出るのかい?」
「もちろんしませんわ、そんなこと」
フェシリティの返事に満足したのか弁護士はソファに背中を預けゆったりとした姿勢になると、秘書の置いて行ったコーヒーに手を伸ばした。
「アーサー君は間違いなくおまえさんに惚れとるよ。
いつだったか二人でオペラ鑑賞に来ていたな、わたしも会場にいたから知っているが、アーサー君はこっちが恥ずかしくなるくらい君をうっとりと見つめていた。家内なんかは、ふたりの結婚祝いはなにがいいかなんて言い出す始末さ。
それなのに婚約を解消するだなんて正気かい?ステラのことをどう思ってるのか本人に聞いたらいいさ。おまえさんが気にする意味がわからないって顔をするだろうよ」
そう言われても本人に聞いたところではぐらかすだろう。フェリシティとの婚約中にステラに目移りしているのだから明らかにアーサーの有責だ、素直に認めるわけがない。
返事をしないフェリシティに弁護士はため息をついた。
「無駄金になってもいいなら準備は進めるがどうするね?」
弁護士の非難めいた口調にフェリシティは良心の呵責を覚えながらも力強く答えたのだった。
「是非、お願いします」
アーサーの提案した流感対策は一定の効果があったようで、国際スクール協会だけではなく、一般の企業などにもその対策が広まっていった。
おかげでその年はそれほど流感が流行ることはなく、人々は穏やかに冬の訪れを迎えることができた。
しかしまさか王族がその功績に注目するとは思わなかった。
国際スクール協会は予防策を提案したドクター・ブライトンの病院を見学したいという王弟殿下の申し出に驚きながらも各所に連絡を取った。その連絡先にフェリシティが含まれていたのは協会の代表として王族のもてなしを依頼したかったからだ。
フェリシティに貴族の血が流れていることは知っている人も多い。協会に所属している誰かが王族の対応なら元貴族のフェリシティに任せればいいと言ったのかもしれない。
しかしフェリシティは爵位を返上しなければならなかった家の娘だ、王族の相手をできるほどの貴族なら今もまだ爵位を保持しているはず。
とても無理だと一度は断ったが適任者がいないと泣きつかれ、結局、引き受けることになった。
アーサーの病院は新興都市にある為、王族一行が宿泊するにふさわしい格式の高い歴史あるホテルがない。
一番いいのはかつてトランド家が所有していたような貴族の住まう屋敷だろうが、残念ながら爵位返上と同時に売りに出してしまい、買い手もすぐについてしまった。
どうしたものかと悩んでいるフェリシティに救いの手を差し伸べたのは、よりによってアーサーの母だった。
婚約解消に向けて動きだしたのだからアーサーとは多忙を理由に接触しないように気を付けていた。
もっともあちらも学会が始まり忙しくなったようで、電話の回数が減った。デートを取り付ける為の連絡が減ったのだからデートそのものも当然、減っている。
息子と会っていないのにその母親と頻繁に会うのもおかしいという常識を持っているのか、彼の母もフェリシティに連絡してくることはなかったのだが、王族訪問のニュースにはさすがに黙っていられなかったようで彼女はいち早くアポイントを取り付けるとフェリシティの学園にやってきたのだった。
「フェリシティ、聞いたわ。あなた王弟殿下のもてなしを引き受けたのですって?」
「ミセス・ブライトン、お久しぶりです。えぇ、お引き受けしましたわ、他に適任者がいないようで」
フェリシティは礼儀正しく握手を交わし、ブライトン夫人にソファを勧めた。
「それじゃ彼らの宿泊先の選択に困っているでしょう?この街はまだ新しいもの」
「そうなんです、適したホテルはないし、隣町では病院までの距離がありますし。それで、この間だけ、どなたかの別邸を借りられないかと探し始めたところなんです」
フェリシティの返事を聞いた彼女は上機嫌な顔になって言った。
「それならわたしの屋敷を使ってちょうだいな」
「ブライトン邸をですか?それはあまりに厚かましいわ」
「何故?あなたはいずれ息子と結婚してブライトン家の人間になるのよ、そのあなたがうちの屋敷を利用するのはちっとも不思議なことじゃないわ」
その息子さんは別の女性に心変わりをしました、とは、さすがに言えない。
「ありがたいお話ですが」
しどろもどろの辞退の言葉を口にするフェリシティにアーサーの母親は厳しい目を向けた。
「断るのは簡単だけれどそれなら代替案を用意してからにすべきだわ」
彼女の指摘はごもっとも、彼女の提案より優れた解決方法など見つからない。
ブライトン家は代々医師を輩出している歴史ある家柄で過去には男爵位を持っていたこともあるのだ。
所有する屋敷の中でも本邸は小国の城だと言ってもいいくらいに荘厳で立派な造りをしている。
「わたしと主人はしばらくの間、別荘に移るわ。それでも最初の挨拶だけはさせてもらいましょうか」
「何から何まで感謝します」
夫人はうっとりとフェリシティを眺めて、満足げな溜息をついた。
「嬉しいわ、将来の嫁が王家のおもてなしを任せられるほどの素晴らしい女性だなんて」
「元貴族というだけです、他に適任者がいなかったというのもありますし」
「フェリシティ、あなたはもっと自己評価を上げるべきよ。貴族の血が流れているというだけでも価値あることなのよ。
あなたがアーサーと婚約したと聞いたとき、わたしは本当に嬉しかったの。あなたが元貴族でなかったとしてももちろん喜んだけれど、これから先、ブライトン家が大きくなるにはそういう力も必要だから」
確かに貴族でなくなった今も彼らとのコネクションは健在だ。もう貴族が支配する時代ではなくなった、一介の商人であるトランドとのつながりも社交界は重要視している。
その事実を考慮すればトランドを足掛かりにして社交界に進出したいブライトン家の考えは間違ってはいない。
しかしフェリシティはどうだったのか、彼女は何故アーサーと婚約したのだろう。
記憶はもちろん持っているが、彼女の気持ちや感情まではフェリシティの中に残っていない。
自分が知っているのはアーサーとフェリシティが婚約したという事実だけ。フェリシティがアーサーの持つ地位を利用しようとした結果なのか、純粋にアーサーに恋をした結果なのかはわからない。
自分がフェリシティだったらアーサーと婚約しただろうかと思う。
記憶の中の彼は親切で、礼儀正しく、医学博士という地位を持った男性というだけだ。
彼はフェリシティにだけ特別に親切ということはなく、愛情を持っていたようにも見えなかった。
「僕と婚約しないか?」
「そうね、いいわよ」
アーサーは何でもないことのようにフェリシティに求婚し、彼女も何でもないことのように承知した。
フェリシティは元貴族令嬢だ、それだけのことなのに彼女の周囲の男性は放っておいてくれず、連日のように多くの男性からデートを申し込まれていた。
彼女には仕事があったから毎晩、遊び歩く時間などないのに、誘いを断るとあからさまに不機嫌になる男性もいた。そういう男性はそれっきり連絡が絶えるのだが、腹いせに社交界にフェリシティの悪評をまき散らしてくれる。
元貴族ということを鼻にかけているお高くとまった女━━━
社交界のフェリシティの評価はそんなものだった。
共通の知人を介して知り合ったアーサーもそれを聞いていたはずだ。でも彼は色眼鏡で見ることはせず、ありのままのフェリシティを受け入れていたように思う。たぶんフェリシティにはそれが心地よかったのだろう、だから彼の求婚を受け入れ、体を許す仲にまでなった。
アーサーがステラを選ぶことを知らない自分ならば、彼の手を取ったのだろうか。
「近いうちにお屋敷にお邪魔させていただきます、殿下にお泊りいただく部屋を決めなくてはなりません」
「お付きの方は何人くらい来るのかしら」
「殿下の身の回りを取り仕切るメイドは二、三人かと思います。あとは護衛と、お願いすれば料理人も派遣してくださると思いますわ」
下手にこちらの料理人に食事を用意させて殿下が体調を崩しでもしたら責任問題に発展してしまう。
それを避けるためにもフェリシティは最初から王家専属の料理人を依頼するつもりだった。
「ランドリーメイドとハウスメイドは貸してくださると助かります、スカラリーメイドは迷っています、食器類を洗うだけですがキッチンに出入りできるというだけで疑いをかけられないとも限りませんから」
「それは先方に確認したほうがよさそうね。今回のような訪問はたびたびあるのでしょうから、今までどういう対応をしてきたのか、教えていただけるでしょう」
夫人と話し合いをすることで滞っていた王家おもてなしの大筋は解決した。
「お申し出を心から感謝します、久しぶりに今夜はぐっすり眠れそうです」
フェリシティの心からの笑顔に夫人はいたずらを思いついた子供のような顔で、
「そう思うならアーサーに会ってやってちょうだい。あなたがとても忙しそうだからデートに誘いづらいって嘆いていたわよ」
と言った。
アーサーを避けているのは婚約破棄に向けて動き始めているからだ、忙しくて会う時間がないというのも本当だからまるっきり嘘ではないが。
「そうですね、時間があれば」
「あら、こういうときはその気がなくても、さっそくデートしますって言わなくちゃ」
夫人はコロコロと楽しそうに笑ってソファから立ち上がった。もう帰るつもりなのだろう、フェリシティも見送りのために同じように立ち上がる。
「うちに来るときはアーサーと一緒に来てね」
「そうします」
今度は義母の喜ぶような言葉で応じたフェリシティだった。
「楽しみに待ってるわ」
夫人はそういってドアを開け部屋を出ていく。
が。
「そうそう、なにやら弁護士に妙な仕事をさせているようだけれど、無駄なお金は使うべきではないわ」
それじゃあと優雅な笑みを浮かべて去っていく夫人の後ろ姿にフェリシティは凍り付いた笑みを浮かべることしかできなかった。
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