5.ステラの企み
翌日の夕方、ホテルに戻ったフェリシティはシャワーを浴びてさっぱりした後でアーサーの自宅へと電話を掛けた。
いつもなら二、三回のコールの後、家政婦のマーサが出るのだが、その日は五回コールしても誰も出なかった。
出かけていて誰もいないのだろうか、と受話器を置きかけた時、誰かが応答した。
「ハロー、どなた?」
それはステラだった、彼女が出たことでフェリシティは瞬時に緊張した。
「フェリシティです、ステラさんが出るなんて驚いたわ。マーサはいないの?」
「ドクターの婚約者なのになにも知らないんですね、マーサは午前中だけになったんです」
どこかひとを馬鹿にするようなステラの物言いにカチンときたフェリシティだったが、電話をしたのはステラと言い争うためではないと自分に言い聞かせ、努めて冷静な声で応じた。
「そうなの、知らなかったわ。アーサーを電話口にお願いできます?話があるの」
するとステラはもったいぶったような、どこか愉悦を含んだような声色で、
「ごめんなさい。先生は今、シャワーを浴びてますわ」
と言ったが、フェリシティはすぐには彼女のセリフの意味が理解できなかった。
未婚の女性を自宅に連れ込んでシャワーを浴びているということは、つまりはそういうことだ。事後なのか、これからなのかはしらないが、ステラはふたりの関係がそういうものだと明言したのだ。
これにはさすがのフェリシティも頭にきた。別にアーサーがステラに心変わりするのはかまわない、これはそうなると決まっている世界。いちいち彼をなじるつもりはないが、せめて自分との婚約を解消してからにしてほしい。
フェリシティはこれから、婚約者を寝取られた挙句、捨てられた女として社交界で笑い者にされるのだ。いくらなんでも許容範囲を超えている。
フェリシティが強く、気高く、美しい女性を保っていた理由のひとつは、女学院の生徒たちの手本として憧れの存在であろうとしたからだった。
フェリシティの運営する女学院は教育水準を高い位置に定めている。これだけの学力を持っているのならば、女性だとしても様々な社会活動に参加し、世の中に貢献できるのだという自信を生徒たちに持って欲しかった。
そして、社会進出を果たした女性の先駆者としての誇りを持って、彼女は日々の激務にも立ち向かっていたのだ。
そんなフェリシティの努力を踏みにじるようなやり方は到底許せるものではない。
「アーサーを今すぐ電話口に出してちょうだい」
怒りを含んだフェリシティの物言いにもステラは動じない。
「あとで折り返すならできると思うわ、何時になるかはわかりませんけど」
『わたしたちが楽しんだ後でなら電話してあげるわ』
そんな副音声が聞こえるようでフェリシティはますます不愉快になった。
「あなたの言い分はよくわかったわ、アーサーによろしくね」
フェリシティはそう言って受話器を叩きつけるようにして電話を切った。フェリシティの怒りにステラのほくそ笑む姿が見えるようで癪ではあったが冷静な対応なんてとても無理だ。
ふたりが既にそういう関係になっているのなら、社交界の噂になる前に婚約を白紙にしなければ。
他の女性に目移りした結果の婚約解消よりもまだダメージが少なくてすむだろうが、アーサーだって浮気者というレッテルを貼られたくはないだろうに、何故、フェリシティとの関係を清算するまえにステラを抱くのか。
マーサに手料理を振舞ってもらった日以降、彼は頻繁にフェリシティを求めるようになった。
アーサーはどちらかと言えば淡白なほうで、デートに出かけてもしない日も多かったというのに、最近では、デートが目的なのかフェリシティを抱きたいが為にデートをセッティングしているのかわからないほどだ。
別れる前提の相手なのだからと断ろうと試みてはみるものの、ヒーローの情熱の前にはフェリシティの言い逃れなどなんの効力もなく、結局、翻弄されて終わってしまう。
気が付いたら朝になっており、美しい笑みを浮かべた彼が用意するモーニングティーを飲んでいるという状態が続いていた。
シンポジウムで流感の対策案を引き受けたタイミングでの婚約解消は痛手ではあるが、遅かれ早かれこうなることは決まっていた。
アーサーもフェリシティもそれなりに地位のある要職についており、二人の離別を社交界が放っておいてくれるわけもない。
「覚悟を決めて矢面に立つしかないわ」
フェリシティはそうつぶやくと猛烈に仕事を始めた。
シンポジウムの最終日は出席者の全員が集まっての会議と決まっている。国際スクール協会として今後の教育のあり方についての提言を世界に向けて発信するのだ。
話し合いの結果、『様々な困難に対応できる人材の育成に尽力する』と『教育に携わる人々の労働環境の向上』が今後の目標として設定されることに決まった。
ふたつめの目標はフェリシティには難題になりそうだ、常々、オーバーワーク気味だとアーサーから苦言を呈されている。
確かにフェリシティもそう思うが多くの仕事を抱えているのだからしょうがない。
別の人間に決定権を譲渡していくことはずっと考えていたが実行に移す良い機会になるかもしれない。
「ミス・トランド、流感対策案に対するドクター・ブライトンはなにかおっしゃっていましたか?」
議長から発言を求められフェリシティは近くに置いてあったマイクをとって回答をする。
「草稿でよければ一週間ほどで用意してくださるそうです、その案を元に教育現場で実現可能な形に仕上げてみてはどうかという提案を頂きました」
ステラと衝突した数日後、フェリシティは彼の病院に連絡をした。自宅に電話をすると我が物顔のステラが出るのだから、彼の秘書と話をしたほうがいい。
それにこれは協会からの仕事の依頼、公的な窓口である秘書を通すべき事案だ。
電話口に出たアーサーは何事もなかったかのようにフェリシティの依頼、正確には国際スクール協会の依頼を快諾した。
「忙しいのにごめんなさいね」
フェリシティの謝罪にアーサーは小さく笑って、
「君の『おねだり』ならいつでも歓迎だよ」
と言った。
それはどこか甘い響きを持っていて彼の言う『おねだり』がベッドの中でのことを言っているのだろうとすぐに感づいた。
ここでふと疑問が浮かんだ。既に彼がステラと関係を持っているのなら、フェリシティを誘うようなことはしないはずだ。少なくとも原作のヒーローは不誠実な男性ではなかった。
どう返事をしたものか迷っていると受話器にステラの声が入った。
「先生、回診の時間です。お急ぎください」
「もうそんな時間か。すまない、またあとで電話する」
「いいえ、話は済んだから電話は必要ないわ。それじゃ」
フェシリティは早口でそう言い、アーサーの返事も聞かずに電話を切った。
そうだ、昨夜の彼は先ほどのセリフをステラに囁いたのだ。アーサーとステラはすでに男女の仲になっていて、自分は彼と早急に別れなくてはならない。
フェリシティは思い出したくもないアーサーとの会話を思い出しながら、議長に了承を得られたことを告げた。
「わかりました、あとは協会と彼とで直接やり取りをすることにしましょう。ミス・トランド、ご苦労様でした」
これで両者の橋渡しという役目は終わりアーサーに連絡を取る必要もなくなった。
帰国をしたら弁護士に婚約破棄の相談をしなくては。
フェリシティは本気でそう考えていた。
━━━━━━ アーサーの屋敷でアーサーとステラの会話
「まったくひどい目にあったよ」
「相手は体調の悪い子供でしたから。嘔吐も仕方ありません」
「君は大丈夫だった?」
「えぇ、平気です」
「さっき電話が鳴ったね?」
「はい、しばらくしたら切れてしまいました」
「フェリシティだったのかもしれない、今日、連絡が入ることになってるんだ」
「わたしにはよくわかりませんけど、ミス・トランドは喜ばないんじゃないでしょうか」
「何故そう思うんだい?」
「だって、先生。いつだってミス・トランドはお忙しそうになさってますもの、今もわざわざ外国にまでお仕事に行ってらして。
先生の長話に付き合う時間はないんじゃないかしら」
「なるほど、君はいつも僕の話を退屈な長話だと思っていたんだな」
「ひどいわ、わたしにとってのドクターのお話はいつだって楽しくて有意義な時間です」
「さぁ、無駄話はここまでだ。君を病院まで送っていくよ、車の中で打ち合わせをしよう」
「はい、先生」
お読みいただきありがとうございます