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2.フェリシティの日常

ペイン氏の集まりがあった翌朝、フェリシティは自身の運営する女学院の理事長室を訪れていた。


作中では一切語られていなかったフェリシティの仕事だが、彼女はなかなかに忙しい立場の人間である。


「おはようございます」


部屋の中央に配置された大きなデスクに備え付けられた椅子に腰かけたフェリシティに秘書の男性は恭しく頭を下げた後、怒涛の勢いでスケジュールを読み上げた。


「本日はこの後、理事会がございます。引き続きのランチミーティングでは、寮の改築業者の選別が必須です。

午後は教育庁との打合せと保護者会のディナーミーティングへのご参加となっており、翌朝は講師陣とのミーティング、開始は九時を予定しております」


聞き終えたフェリシティの眉がピクピクと動いた、彼女はこんな日常を繰り返してきたのだ。その合間を縫ってステラにちょっかいを出す為だけにわざわざアーサーの病院へ出かけていくなど、どんなパッションだと言いたい。


「理事会の資料はこれね?始まるまでに目を通しておきたいから電話は取り次がないように」


フェリシティは秘書にそう命じて資料を手に取り、それを読み始めた。しばらくして給仕係が紅茶を置きにきたが、フェリシティはそれに小さく礼を言うだけに留めひたすら文字を追った。



ランチミーティングを終えたフェリシティは理事長室へ戻った。時計を見ると十四時を回ったところで、次の来客まであと一時間ほどある。

デスクにたまった書類を片付けようと手を伸ばしたところで電話が鳴った。


「なぁに?」

「ミスター・ブライトンからお電話です」

「ありがとう、繋いで頂戴」


フェリシティが受話器を置くとすぐにもう一度ベルが鳴った。


「ハロー?フェリシティよ」

「アーサーだ、体調はどうだい?あれから異変はない?」

「大丈夫よ、ありがとう。昨日はあなたの晴れ舞台だったのにごめんなさい」


フェリシティの謝罪にアーサーは笑った。


「気にしなくていい。僕こそ、君のそばにいてやれなくてすまなかった」


原作では、パーティの為に着飾ったステラの姿にアーサーは初めて彼女を女性として意識し、以降の彼の視線は常に彼女を求め続ける。

『それはまるで初めて恋を知ったばかりの青年のよう』と描写されており、こんな風にフェリシティを気に掛ける余裕などないはず。


とはいえ、彼の腹の中がどうであれ心配をしてくれていることは事実なのだから、それには感謝をしなければならない。


「気にしないで、ありがとう」


フェリシティの柔らかい口調にアーサーの空気が少し緩んだことは電話越しでも伝わってくる。


「今週、どこか空いてないか?マーサが君に新作料理を振る舞いたいと言ってるんだ」


マーサというのはアーサーの家の家政婦だ。料理が得意な女性でアーサーはもちろん、婚約者であるフェリシティのことも仕えるべき主人として尊重し、気にかけてくれている。


「まぁ、嬉しいわ。木曜はどうかしら?」

「僕の午後予定は講義だけだが、終わるのは夕方になるな」

「わたしが病院に行きます。あなたのオフィスで待たせて頂いてもかまわない?」

「秘書に伝えておこう、彼女たちはきっと喜ぶよ」


フェリシティはアーサーの病院を訪問する際はいつもちょっとしたお菓子を手土産にしている。アーサーの秘書と彼女の仲間たちはそれを期待していて、フェリシティの来訪を心待ちにしているのだ。


「ふふふ、それじゃ木曜に」

「あぁ、待ってるよ」


フェリシティはアーサーが電話を切るのを待ってから受話器を置き、ふうっと大きくため息をついた。


婚約者同士というのは今のような会話で正しかったのだろうか。フェリシティはフェリシティとしての過去を思い出し、それらしく対応したつもりだが自信はない。婚約者などいたことがないのだから当たり前といえば当たり前だ。


再び電話が鳴った、先ほどのコール音と同じでつまりは秘書からの内線だとわかる。


「はい」

「出版社から教材の打ち合わせのためにアポイントを取りたいとお電話が入っております」

「木曜の三時以降は空けて欲しいの、それ以外でお願い」

「かしこまりました、面会は一時間の予定でスケジュールを組んでおきます」

「わかったわ」


フェリシティは秘書に指示をし受話器を置くと今度こそ、目の前に広げた書類に取り掛かった。



アーサーの勤める病院は街の中心にある。周囲には教育施設や博物館といった大型の建物が並んでおり、病院もその中のひとつだった。


病院のエントランスに着いたところで運転手が素早く車から降り、フェリシティのためにそのドアを開けた。

もっともそれは今日の彼女が少し大きめの箱を持っていてドアを開けるのが困難だったからで、普段はフェリシティ自身でドアを開けている。


大きな箱とはもちろんアーサーの秘書たちへの手土産だった。

フェリシティは病院に向かう途中で新しくできた洋菓子店に立ち寄ったのだが、どれにしようか迷ってしまい、結局、全種類を数個ずつ詰めてもらった結果である。


フェリシティの記憶を頼りにアーサーのオフィス兼診察室へと向かう。

ドクター・ブライトンと記されているプレートの横は開け放たれたドアであり、フェリシティは遠慮なく入室した。


「こんにちは」

「お久しぶりです、ミス・トランド」


アーサーの秘書はフェリシティよりも少し年上の既婚女性だが、彼女はフェリシティのことをドクターの婚約者として認識しており、きちんとした態度で対応してくれる。


「アーサーはまだ講義中かしら」

「はい、そうです。ですが部屋にお通ししておくようにドクターから言われています」


彼女はそう言って受付カウンターから立ち上がると、アーサーの個室へと続くドアを開けてくれた。


「ありがとう。これ、良かったら皆さんでどうぞ」


フェリシティは彼女に持参した手土産を渡すと室内に入った。それを受け取った秘書は満面の笑みを浮かべて、


「いつもありがとうございます。今、お茶をお持ちしますね」


と言ってドアを閉めた。




ほのかにアーサーの香水が漂うその部屋は八階建ての病院の六階に位置しており、窓からの景色が素晴らしい。周辺にはまだ高い建物がそれほど建っておらず、街全体が見渡せるのだ。


転生者でない頃のフェリシティはここからの眺めがとても気に入っていて、アーサーに会いに来る理由のひとつになっていたほどだ。


ここからの景色を見下ろしながらの彼との行為をフェリシティはことさらに気に入っていた。気を失いそうなほどの快楽の中でも、この景色を脳裏に焼き付けようとしていた彼女は間違いなく歪んでいたと思う。


原作では取り上げられていない情報のひとつとして、フェリシティには貴族の血が流れているということがある。


彼女の母は伯爵位を持っていたのだが様々な事情で爵位を返上し平民となった。しかし母の母、フェリシティにとっての祖母はそれに強く落胆していた。


貴族らしい美貌を持って生まれたフェリシティを殊更に可愛がっていた祖母は、事あるごとに幼いフェリシティを連れて街の時計台へと昇った。


「ご覧、これはお前が支配すべき人民なのよ」


貴族としての矜持を捨てきれなかった祖母は呪いのようにその言葉を繰り返し、自分たちは選ばれた人間であり平民とは違うのだということをフェリシティに徹底的に叩き込んだ。


聡明なフェリシティは祖母の思惑通りの高慢な人物には成長しなかったものの、彼女の残した呪いの芽はしっかりと芽吹いており、可哀そうな彼女はいつ如何なる時も選民らしく完璧な女性であろうとした。


その仮面はアーサーとの甘い時間でも外されることはなく、何度も引き上げられ、のぼりつめようとも漏れそうになる嬌声を必死でこらえ、貴族としてはしたない真似はすまいと心掛けていた。


ここからの夜景を前にした行為を気に入っていたのも祖母の教えを忘れることなくアーサーに抱かれたいがためだったのかもしれない。

彼の愛に深く貫かれていても小さくうめき声をあげるだけのフェリシティにアーサーは何を思っていたのだろうか。




「遅くなってすまない」

「いいえ、さっき来たところだから気にしないで」


先ほどまでアーサーの情熱的な一面を思い浮かべていたフェリシティは彼を直視することはできず、不自然でない程度に視線を反らして秘書の給仕に目を向けた。


「先生、これはミス・トランドがお持ちくださったお菓子ですよ」


秘書の説明にアーサーは微笑みを浮かべた。アーサーは、自身の秘書と良い関係を築こうというフェリシティの配慮を喜んだのだが、フェリシティは単に珍しい洋菓子を前に喜んでいるのだと思った。


「新しくできたお店だからよってみたの」

「どこだい?」

「カッパー通りよ」

「あの辺りは今、新店ラッシュですね」


秘書も交えて三人で会話をしていると部屋の外で誰かが言い争う声が聞こえてきた。


「なにかあったのかしら」


フェリシティの疑問に秘書は、見てきます、と言いドアを開けた瞬間、聞き覚えのある女性の声が飛び込んできた。


「だから緊急だって言ってますでしょう?先生のお部屋に入れてください」

「ドクターは来客中です、対応をお伺いしてきますからここでお待ちください」


受付に残っていた秘書と言い争っているのはステラだった。


思わず顔を見合わせたアーサーとフェリシティに気づいたステラは許可もないのに勝手に部屋に入ってきた。


「来客ってミス・トランドでしたのね。こちらは患者さんの命にかかわる用事なんです、ご遠慮いただけますか」


あまりに一方的な物言いに驚いたフェリシティではあったが命の危機にあるのなら譲るべきはこちらだ。


「もちろんどうぞ。お話になって」


フェリシティの快諾にステラは困ったように微笑んで、


「病院には守秘義務があります、フェリシティさんがここにいては先生とお話ができませんわ」


と言った。


平たく言えば今すぐアーサーの部屋から出ていけということだ。


これにはさすがにカチンときたフェリシティではあったが、ステラの言っていることは正論で抗うことはできない。


「そうね、ごめんなさい。わたしはラウンジに行くわ」

「そんな。ミス・トランドは受付でお待ちください。ステラの話は長くはかかりませんから」


白旗をあげたフェリシティに秘書は声をあげたが、病院関係者でも患者でもない自分がこの場にいることは相応しくないだろう。


「みなさん、仕事中ですもの。お邪魔をしてしまったわ」


フェリシティはそう言って立ち上がるとアーサーに、


「終わったらラウンジにいらしてね」


と告げ、アーサーはすまないとだけ言ってフェリシティを送り出し、同時にステラを迎え入れてドアを閉めた。


秘書のふたりはフェリシティに申し訳なさそうな顔をしているが、アーサーがステラを部屋に入れたことで答えは出ている。


フェリシティはなんでもない顔をしてさようならの挨拶をし、来客用のラウンジへと足を運んだ。



コーヒーを注文し新聞を読んでいたが、隅々まで読み終わった頃にようやくアーサーがやってきた。


「遅くなってすまない」

「ステラさんの言っていた患者さんはご無事?」


その問いかけにアーサーが眉をひそめたことでフェリシティは自らの失言を悟った。どうやら患者は助からなかったらしい、今夜はもう病院の話はしないほうがよさそうだ。


「急ぎましょう、きっとマーサが待ちくたびれてるわ」

「そうだね、行こう」


アーサーは当然のようにフェリシティにエスコートの手を差し伸べた。


本当はステラのエスコートをしたいのだろうにとフェリシティは内心で彼に同情しつつもその手をとった。

お読みいただきありがとうございます

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