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1.悪役への転生

よろしくお願いします

まさか自分の身にこんなことが起こるとは思わなかった。


目が覚めるとそこは『知ってはいるが見覚えのない』部屋で、自分を心配そうな顔をしてのぞき込んでいるのはやはり『知ってはいるが見覚えのない』人物。


「気分はどう?」


はしばみ色の瞳を持ったその男性は手を伸ばしてベッドに横たわっている彼の患者、つまりわたしの脈をはかりはじめた。


彼はアーサー・ブライトン。医学博士で診察はもちろん、病院の経営にも携わっており、そのうえ研究論文を発信している非常に才能あふれた男性だ。


「大丈夫よ、驚かせてごめんなさい」


わたしは動揺を悟られないようにこの身体の持ち主が考案した『自身が最も魅力的に見える微笑み』を浮かべて答えた。


そう、わたしは今、フェリシティという女性になっている。



なっている、つまりは転生━━━



異世界転生なるものが自身の身に降りかかってくるとは思っていなかった。しかしフェリシティとしての記憶を持っており、これが物語の世界であることも理解しているということはそういうことなのだろう。


アーサーは医師らしくフェリシティの脈をとった後、首筋を触診している。


「本当に大丈夫だから。もう会場に戻って頂戴」


今のフェリシティに必要なのは医師の診察ではなく、この状況を落ち着いて判断する環境だ。

物語の登場人物を目の前にしていては、まとまるであろう考えもまとまらない。


「急に倒れるなんて心配だよ、今までにもあったのかい?」


ここでイエスと答えれば彼の診療はさらに長引くだろう。


「いいえ、まさか」


フェリシティは努めて気軽な風を装って返事をした。本当は何度か過労で倒れているのだが今、彼にそれを伝える気はない。


アーサーが眉をよせたとき、部屋のドアがノックされた。


「誰?」


アーサーの質問に愛らしい女性の声が返ってきた。


「ステラです、ミス・トランドのお加減はいかがですか?」



ステラが来た!



フェリシティはその声に思わず体を固くした。

彼女はこの物語の主人公、アーサーと結ばれる結末を持った女性だ。


この混乱した状態ではヒロインと対面するなどできそうもない。


彼女の入室を拒否しようと口を開きかけたが、その思いもむなしく、素早く立ち上がったアーサーが彼女を部屋に招き入れてしまった。


「心配をかけたね、今、目が覚めたところだ」

「まぁ、良かったです」


部屋の出入り口で親密そうに会話を交わしたふたりはそのまま並んでフェリシティのベッドサイドに立った。


「急に倒れられたのでびっくりしました」


手を胸の前で組んで心底心配そうな顔をしているステラは同性のフェリシティから見ても愛らしい。


「思った以上に疲れが溜まっていたのかしら。今夜は早々に失礼させていただくわ」


するとアーサーがすかさずフェリシティを家まで送ると言った。


「大丈夫よ、ペインご夫妻に運転手をお借りするから」


ペイン氏というのは今夜の集まりの主催者だ。


「しかし」

「あなたたちは主役よ、こんなところにいてはいけないわ。わたしは大丈夫だから戻って頂戴」


フェリシティは一秒でも早くひとりになりたかった。自分の身に起きているこの理解しがたい状況を整理しなければならない。


渋るアーサーの腕を引いたのはステラだった。


「先生、皆が先生のスピーチを待っていますわ」


ベッドに横たわっているフェリシティから婚約者の彼を引きはがそうとするステラの行動は間違っているが、言い分は的を得ている。

主役のスピーチがなければ夜会の始まりを告げる乾杯もできない。会場に集まった人々はおいしそうな料理と楽団の奏でる陽気な音楽にうずうずしていることだろう。


アーサーは小さくため息をつき、


「わかった、僕たちは会場に戻る。ペイン子爵には僕から話をして運転手をよこしてもらうように頼んでおくから」


と言ってフェリシティの上に身をかがめ、唇に触れるだけのキスをして出て行った。


婚約者同士なのだから驚くことはないのだろうが、予測をしていなかったフェリシティはその行為にしばらく思考が止まったのであった。





『あなたと共に』


極めてシンプルなタイトルを持つこの物語は、蒸気を動力とするスチーム文化からモータリゼーションへの移行期にあたる古き良きヨーロッパをモチーフとした世界が舞台だ。


主人公はステラ・スノウで、白雪姫(スノウホワイト)を連想させるような美しく透き通るような白い肌と、神秘的な黒髪を持つ女性。


物語は、とある村の坑道で起きた落盤事故から始まる。


ステラはアーサーの経営する病院のひとつで働く看護師なのだが、非常に腕がよく、その優秀さを買われてアーサーの専任助手に任命された。専任である以上、ステラは常にアーサーと行動を共にし、彼が往診に出かけるときも当然、同行した。


ある日、アーサーとステラはとある老紳士の診察に出かけることになった。持病のある彼に空気の良い土地での療養を進めたのはアーサー自身、老紳士は田舎への移住を受け入れる代わりにアーサーの診察をねだった。


そこでアーサーはその村の医師に協力を求め、普段の診察は彼に、三か月一度の診察は村の医師とアーサーのふたりで担当することに決まったのだった。


老紳士の診察と話し相手を終え、アーサーとステラが街へ帰ろうとした矢先、村の人間が医師の助けを求めて老紳士の家に駆け込んでくる。


「先生、ここにいたのか!大変だ、落盤事故が起きた」

「なんだって?怪我人はいるのか?」

「わからねぇ。外に逃げ出せたのはほんの一部だ、奥にはまだ大勢が閉じ込められてる」

「なんてことだ!」


村の医師と男の会話を聞いていたアーサーはすぐに決断を下した。


「僕の車に乗って!すぐに向かおう」


アーサーは村の医師とステラと共に坑道のある山へ行き、そこでアーサーとステラは息の合った素晴らしい連携で多くの患者の命を救った。

その結果、大きな落盤事故であったにもかかわらず、一人の死者を出すこともなく救助を終えることができたのだ。


坑道の持ち主であるペイン子爵は大いに感謝し、村の医師と、アーサー・ステラの活躍を称える夜会を開いたのだ。


アーサーは婚約者であるフェリシティにパートナーとしての同行を頼むのだが、フェリシティはすぐには承知しなかった。


それは彼女が多くの仕事を抱えていてスケジュールの調整をしなければならなかったからだが、ステラ目線で書かれた原作では、フェリシティが田舎を馬鹿にしている高慢ちきな女性だから行きたくないのだということになっていた。


アーサーとの時間を確保するため、フェリシティは仕事を前倒しして片付けなければならず、過労による貧血を何度か起こしていたのだがその場面は描かれてはいない。


そして当日、フェリシティはアーサーとステラとの待ち合わせ場所にしたホテルのロビーに現れた。


「お待たせしたかしら?」

「いいや、僕たちも今来たところだ」


原作のフェリシティは完璧な美を持った女性として描かれており、スレンダーな体躯に輝くブロンドの巻き髪、思慮深く光るグレーがかった蒼い瞳を持っている。


正装を身にまとった彼女は近頃、新聞紙面を賑わしはじめた美しいマヌカンのようで、その場に居合わせたホテルの従業員や客はフェリシティが何者かとささやきあうほどであった。


そんな中、アーサーは誇らしげに彼女の手をとり、自身のほうへそっと引き寄せるとその唇に軽く触れるだけの口づけをした。


フェリシティに見とれていた男性たちは彼女がすでにこの男のものであることを理解し、歯噛みしたのは言うまでもない。


「悪いひとね」

「なに、誤解を解いたまでさ」


それからアーサーはフェリシティにステラを紹介した。


「こちらはステラ・スノウ。僕の専任助手として働いてもらっている看護師だ」

「は、初めまして」


ドクターとしてのクールなアーサーしか知らないステラは、彼が見せた情熱的な一面にどぎまぎしながら挨拶をした。


「初めまして、フェリシティ・トランドです。どうぞよろしく」


フェリシティは自己紹介のあと、右手を差し出した。


ふたりの女性が礼儀正しく握手を交わしたところで、アーサーは出発を告げ、自らが運転し会場へと車を走らせた。





盛大な拍手の音がフェリシティのいる部屋にまで聞こえてきた。今は、集まった社交界のメンバーにペイン子爵がふたりを英雄として紹介しているシーンだろうか。


この後はアーサーがスピーチをし、周囲の期待に応えたふたりはダンスを披露する。それは彼らの治療と同じくとても息があっていて、人々はお似合いのカップルだと囁きあうのだ。


婚約者でありながらファーストダンスをステラに奪われた上にそんな称賛まで耳にしたフェリシティは立腹し、アーサーに運転させて帰宅してしまうのである。


フェリシティが途中退場する流れは同じだが、アーサーを会場に残したことでなにかが変わるのだろうか。いや、変わったとしても結局、自分は捨てられるのだろう。


この世界はヒロインのための世界であり、全ての事象はステラが幸せになるための小道具でしかないのだから。

お読みいただきありがとうございます

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