静寂院
全ての夕食が終わったテーブルの隅で、一人入れたコーヒーを飲みながら、分厚くなった黒革のシステム手帳を開き、何やらぶつぶつと言っている暮葉が居た。
「あら、先生どうしたの?」
片付けが終った静が、コーヒーカップを持ちながら暮葉の横に座った。
「ああ、ご苦労様、お先にお風呂もらっちゃったけど」
手帳を閉じながら、暮葉が言った。
「あ、そうかぁ、先生お風呂行ったのね」
テーブルの上に置いてあるサイフォンから、静専用カップにコーヒーを入れると、口元まで持っていき、一口飲んだ。
「そうそう、行った・・・はずだけど・・・あれ、それにしても遅いわね、もう随分前に行ったんだけど」
「お風呂から出てそのまま部屋で寝てんじゃないの?ほら、今日は朝早くから出掛けてたみたいだったから、きっと、くたびれちゃったんじゃない?」
笑いながら静が言った。、
「そうかもね、彼、加減てものがないから、いつも全力でやっちゃうんだよねぇ~、
後先考えずにさ、もう呆れちゃう位」
本気で呆れながら、暮葉がため息をついた。
それを聞き、にっこりと静香が笑いながら、飲み終わったコーヒーカップを持ち、ゆっくりと立ち上がると、
「じゃあ、お風呂行って来るわね、暮葉はまだ此処にいるんでしょ?」
「うん、少しチェックしたいテレビドラマ今からやるから、もう少し起きてるよ」
「わかった、じゃあ、後で」
そう言うと、着替えを持ちながら風呂場に向かった。
「だけど、何で急に静岡に知り合い居ないかって、聞いて来たんだろう、せんせ、
それも、西部方面でって・・・全く分かんないわぁ~、・・・まあ、いつもの事だけど」
頬杖をつきながら二杯目のコーヒーを注ぐと、ぐびりと飲んだ。
「何、これ・・・冷めちゃってるじゃん・・・もう・・・あっ、九時になった」
文句を言いながら立ち上がると、リモコンを取りテレビをつけるのだった。
長い廊下を歩き、突き当りにある湯殿まで来ると、脱衣場の明かりが灯っていることに少し違和感を覚えた静香だった。
「あら、先生まだ入ってるのかしら?」
ゆっくりと引き戸を開け中を見回したが、人の気配はない様だ。
「誰もいないよね、・・・あれ?」
脱衣場の棚の上に男ものの服がある。此処の風呂場は今、客人として来ている作家先生と、友人の暮葉、それと静香の三人しか使っていない。
修行僧たちの風呂場は、本堂の庫裡にある。と、云うことは・・・
「先生、入ってらっしゃるんですか?先生!」
湯舟があるドア越しに声を掛けた。
嫌な予感がした・・・もう一度声を掛ける、今度は先程より声を張った。
「居るんですか、先生!何かあったんですか?・・・開けますよ!いいですね」
そう言うと、静かにドアノブを回し、湯気で一杯になった風呂場を覗き込むが
立ち上る湯気で中がはっきりと見えてこない、それでもドアを開け放ったせいで、
少しづつ見えてきたタイル地に、人の足が見えた。
「大変!先生、先生!・・・誰か!誰か来てぇ~!」
大声で叫んだ。すると、すぐさま、本堂の方から、数人の若い僧達が中庭を抜け、此の母屋迄駆けつけて来た。
「入りますよ!どうしました?大丈夫ですか静雀院様!」
「私は大丈夫、それより先生が、先生が倒れてるんです、直ぐここから出して下さい」
それを聞いた僧達がすぐさま風呂場に入ると、洗い場で仰向けに倒れている一馬を担ぎ、
脱衣場まで運んだのだった。
その騒ぎを聞きつけ、慌てた暮葉が、風呂場に走りこんだ。
「ああ・・・せんせ!何やってんですか!」
飛び込んだ暮葉の目の前に、素っ裸で、茹でたこのようになった一馬が見えた。
「お水を、お水を掛けましょう、皆さんいいですね、早く早く!」
静香の支持の元、僧達が代わる代わる水道から洗面器に汲んだ水を一馬めがけて掛けていった。
「ぎゃぁ~・・・つ、つ、冷たいじゃないかぁ~!」
気が付いた一馬が叫んだ。
「ああ・・・良かったぁ~、気が付きましたね」
ほっと、胸をなでおろした静香が声に出した。すると、・・・
「いやぁ~!もう、」
冷静さを取り戻した静香が、目の前の素っ裸で仰向けになり、目だけぎょろぎょろしている一馬の姿を見て悲鳴を上げた。
その様子を見た暮葉が・・・
「な、何か・・・掛けなさいよ!って云うか・・・パンツ・・・履けぇ~!」
大声で、どなった・・・その声は、密閉された風呂場に反響され、いい具合のエコーが掛かり、母屋の外まで響き渡った・・・。
「何だか・・・賑やかだなぁ~、母屋の方は、もう、眠れないじゃないかぁ~」
シートを倒し、睡眠体制に入っていた京助が身を起こした。
「全くぅ~、こっちに来てからって云うもの、ろくな目に会ってないな」
あきれ顔でしかめっ面をし、賑やかな母屋を睨みつけた。
もう一度身を倒し、京助が寝ようとした時だった。
「もし・・・もし・・・京助さん・・もし・・・」
蚊の鳴くような声が、アルピナの外から聞こえてきた。
サッと飛び起きると、その声がした方に顔を向けた。
暗がりの中、人影が見える、男の様だ、それも三人か。
「誰だ、何で俺の名前を知っている」
闇に立つ男達に向かって言い放った。
すると、静かにその男達が近づいて来た。とっさに身構えた京助の左手が、韻を結ぶ。
「京助さん、私らですよ、よく見て下され」
一人の男が、静かな口調で言った。
見る限りでは、先程の僧のようだが、同じ作務衣でも此の者達の着るそれは違っていた。
上下黒で、それに黒い帯が巻かれている、そして、坊主頭ではなく角刈りの様だ。
明らかに、此処の僧ではない。
「あっ!お前達、もしかして・・・与一の子分か?」
「はい、その節は、色々と、・・・でも、その・・・子分て云うのは・・・ちょっと」
二つ坂は長、与一率いる、物見衆との再会である。
「何で、此処にいるんだよ、山奥へ帰ったんじゃあ無かったのか?」
「ええ、帰りましたよ、でも、長の命で此方に行けと・・・薙ぎの院へ」
「だ~か~ら~!何でよ?」
「実は、此方に災い在りと言われ、此処の御当主、静雀院様を、陰ながらお守りするようにと・・・言われた次第でして・・・えっ!・・・もしかして・・・災いって・・・」
「な、何だよぉ~!」
京助が困惑した、それもその筈、こんな処で嫌な連中と会ってしまったからだ。
「それより、京助さんは、何で此処におるんですか?」
「お、お前らには・・・関係ないだろうが」
それを聞いた物見衆三人がひそひそと話し始めた。
(おい、もしかしたら、長が言っていた災いって、この人の事じゃあないか?)
(いや、さっきからそうかもって、思ってた)
(そうだ、きっとそうだ、何せ此の人は、長の妹君にも、手を出したと聞いている)
(恐ろしいお人やなぁ~)
「おい!ぜぇ~んぶ聞こえてるぞ!何だってぇ~!手ぇ出したってぇ~!いい加減にしろよ、嘘っぱちは!だ~れがそんな事言ったんだ」
完全に切れた京助が物見衆を射程距離でロックオンした。
「ち、違います、誰って、・・・長が言ってたんで・・・はい」
泣きそうになった物見衆の一人が言った。
「与一の野郎!でたらめ言いふらしゃあがってぇ~!許さねえぞぉ~」
「ひ、ひ、ひえぇ~・・・!」
「お、おい!まて!待てったら・・・言うんじゃあないぞぉ~、俺の事!わかったな!」
逃げて行った・・・。物見衆三人が、京助の目の前から逃げた。
前回の事象で、この男のあほらしさ、否、怖ろしさは、嫌と云うほど、見せつけられたからだ。この場に留まる事は、即、死を意味すると感じたからだった。
「あいつらぁ~・・・って、まずいんじゃあないのぉ~、この状況」
京助は、言葉にならない絶望感で一杯だった。
「やっぱり、まずいなぁ~、此処と二つ坂が訳アリってか、参ったな、よりによって、
御当主の静香さんと与一が知り合いとはな・・・それも、物見衆まで寄こすとは」
アルピナに火を入れると、アイドリングに入った。
「逃げよう、そうだ、ガソリンの続く限り、東に走ろう、うん、それがいい」
何が恐ろしいって、バイトがバレるのが一番避けたい事実だった、特に、与一と圭子には。
高めに上がっていた回転数が、グッと落ち着いたことを確認すると、静かに入れたDレンジを再確認し、ゆっくりとアルピナの鼻先を出口に向けた。
スモールランプのみで照らしながら慎重に走らせていると、出口付近に人影らしきものが見えた。
「ん、何だ・・・か、影だけだと!」
微量の光源に反応した黒い影が、より深い闇へと移動しようとしていることに反応した
京助は、すかさずアルピナをその場に止めると、静かにドアを開け、速やかに車から降りた。
「おい、それでも隠れたつもりか・・・正体出せよ」
あきらかに先程の物見衆とは違う匂いだ。ましてや、此処の僧とも違う。
京助の恫喝に、目の前十数メートル先の影が、此方を見たようだった。そして、
「お前、俺が・・・見えるのか?」
影が言った。
確かにそこに居ることは分かるのだが、闇が深すぎて、はっきりとは見えなかったが、
「ああ、良ぉ~く見えてるぜ、影法師・・・」
ハッタリが効いた。
「ちっ!めんどくさい奴めが・・・」
そう言った影法師の右手が、此方に向いた。
と、その途端、かなり激しい風が、京助に向かって吹いた。
とっさに体半身捻りながら躱すと、行き場を失った風がアスファルトに跳ね返り、四方八方へと飛び散らかった。
「凄まじい念圧だな・・・お前」
そう言った京助の口元が、小さく言霊を練った。
そして、左の小指を練り上げた口元に持ってくると、言霊を絡める。
その間、刹那!
闇めがけて放った京助の念撃が、影法師の潜む闇を切り裂く。
「ぐ、ぐえぇ~」
嗚咽のような声を上げ、深い闇が消えて行く。
「外れたか?」
身構えた京助が呟いた。
薄くなったその闇の中、片腕を押さえた影法師が今度ははっきりと見えた。
「お、お前こそ・・・何だ?お前・・・人では無いな・・・」
歪めた体をかばう様に、背を丸めた影法師が言った。
「おい、勘違いするな、人だよ・・・俺は・・・ただの人間だよ」
「ただの人間だと・・・そいつが・・・こんな力を出せる筈がなかろうて」
少しずつ深まる闇に体半分隠れながら、影法師が言った。
「お前こそ何もんだ?返答次第じゃあ、今度は本気で打つぞ、二度目は外さない」
「ちっ!わかたよ・・・そんなものをまともに喰らっちゃあ、蒸発もんださ」
「・・・闇戯れ・・・響馬はそう呼んだ・・・」