もう一つの力
入り口近くの古い山茶花の木だろうか、その前に立てられている看板に書いてある。
するりと門を潜ると、五、六十台は止められるであろう広い駐車場の西側の隅に、石垣を気にしながらアルピナを静かに止めた。
隅々に何本か立てられている水銀灯の白い明かりに照らし出され、綺麗に引かれた駐車区画を示す白線が浮かび上がっている。
落陽が見せる残り香を匂わすように、雨上がりの暮れなずむ夕景に照らされて、キラキラと木の葉に光る雨玉を眺めながら、豊臣秀吉が詠った辞世の句を想い出していた。
「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速の事は夢のまた夢」
左腕にはめられた時計をのぞき込むと、午後七時を指示していた。
「まだまだ日が昇るまでには恐ろしく時間があるなぁ~・・・」
今沈んだばかりのお天道様にバカな事を言いながら、薄手のジャケットを脱ぎ、布団代わりに胸にかけると、倒したシートに背を預け目を閉じた。
相変わらず攻撃を仕掛けてくる胃袋を宥めながら、少しずつ眠気がやって来るのを感じていた・・・その時だった。
「もし、・・・もし、お気付きですか?」
開け放たれた運転席側の窓から、一つの影が覗き込み、声を掛けてくる。
慌てて飛び起きた京助の行動に、その影も驚いたのだろう、後ろへとのけ反った。
「ああ、・・・すみません、驚かしてしまったようで」
その影が静かな口調で、理解が出来ていない顔をした京助に言った。
窓側から離れた影が、水銀灯の灯りに映し出され、坊主頭に灰色の作務衣を纏った男が
立っている。
「私はこの寺で、お手伝いをしながら修行させてもらっている者です、御用の方とは思いますが・・・何用で御座いましょう?」
この男、口調はやんわりと静かだが、只ならぬ雰囲気を持っている。
「あ、決して怪しいものではありません、明日の地質調査を手伝いに来たものです
確か・・・此処は・・・薙ぎの院と云うんでしたっけ?」
「そうでしたか、はい、此処は薙ぎの院で御座います。明日の地質調査の件も存じております。東京のリーゼルさんの方だったんですね、気が付かず、すみませんでした」
「いえいえ、実は頼まれて明日のお手伝いをさせてもらうことに・・・それで、早く着きすぎちゃって、少し此処で休ませてもらおうと・・・」
まさか、泊まることも出来ないなんて言えなかった。
「そうですか、此方は構いませんが・・・こんな所で大丈夫ですか?もし宜しかったら中の方にお入りになって下さい。リーゼルさんの方でしたら何も問題は御座いませんので」
そう言うと、若い修行僧は、袖内から携帯を取り出し、何処かに掛けた。
後ろ向きになった体の頭だけ、こくりこくりと頷いているようだ。
数分後、何かを命ぜられたのか、此方を向くと
「只今、主に報告させて頂きましたところ、是非、此方においで下さいとのことなので、
私に着いて来て頂けないでしょうか?」
めんどくさい事になったと思った・・・
「いえ、私はここで結構ですよ、リーゼルさん・・・でしたっけ、正直言うと、私はそちらの人間ではないんです、只々、お手伝いですから」
何とかこれ以上めんどくさい事にならないようにと願った。
「それでも構いません、是非にお願い致します、来て頂けないと私が主に叱られてしまいますので・・・お願いします」
困惑した顔で、若い修行僧が深く頭を下げお願いしてくる。
仕方ないかと京助も諦めた、顔だけ出して挨拶したら、此処を離れよう、そして、何処か近くのコンビニの駐車場にでも行こうと考えた。
「わかりました・・・では、ご挨拶だけ・・・」
「有難う御座います。ささ、お車から降りて私に・・・」
急かされる様に背中を押され、駐車した場所より反対側へと案内された。
暫く行くと、駐車場とは違う門構えが見えてきた。
潜り戸のように見えるが、それとは大きさが違った。
観音開きの右側を開けると、先に進むよう促される、その先は上りの石段が長く続いていた。
所々ソーラーライトが、丁度いい塩梅で足元を照らしてくれている。
暫く行くと、空腹の胃袋を刺激するが如く、良い匂いが漂ってきた。
あがり切った処の正面に本堂があるようだ、境内はかなり広く感じる。
その右側に、玄関だろうか、格子の扉が見えた。
大きなソテツが左右、その玄関を守るが如く立っている。
若い僧侶が、徐に開けると、直ぐに声を張った。
「静雀院様・・・お客人が御出で下さいました・・・静雀院様・・・」
張った声に反応するかのように、奥の方から即座に声が聞こえる。
「今、今参ります・・・暫しお待ちを」
透き通るような女性の声が聞こえた。
京助の興味が、あれほど嫌がっていた気持ちを簡単に覆した。
「よくぞ来て下さいました、ささ、どうぞ中へ」
想像していた姿とはまるで予想外・・・確かに白い衣に黒い袈裟を羽織ってはいるが、髪は後ろ手でひとつに纏められ、白く細身の顔立ちがはっきりと見えている。
確かに美人だ・・・。
(あれ・・・何処かで・・・見たような顔立ちと、雰囲気・・・)
京助の海馬がフル回転している・・・。
「ささ、遠慮なさらずに、ささ」
京助の背を押しながら、若い僧侶が促した。
玄関を跨ぐと、先程からの匂いの正体がはっきりと分かった。
(うわぁ~、カレーじゃないか・・・た、たまらんなぁ~・・・)
限界に達した胃袋の最終攻撃が、恥ずかしげもなく京助の腹の虫を鳴かせるのだった。
ぎゅるるる~・・・
「あらまあ、もしかしたら晩御飯まだ取られておりませんの」
静かな笑みを浮かべながら、女主が京助に言った。
とっても恥ずかしかった、多分今の顔は真っ赤に燃える季節外れのモミジの様なんだろうなと思った。
「あ、お恥ずかしい事ですが・・・まだ・・・です」
俯きながら絞り出すような声で言う京助であった。
「丁度良かった、宜しかったら此方でお食べになって行かれたらどうですか?少し作り過ぎてしまったようで・・・カレーはお嫌いですか?」
カレーが嫌いな奴なんて、この世にいるわけがない・・・、京助の胃袋が言葉を喋れたなら、きっと言っただろう。
「だだ、大好きなんですよ・・・カレー!」
やはり、空腹には敵わないのだ。遠慮もなく出た言葉に、京助自身も驚くのだった。
「じゃあ、どうぞお上がり下さいな、隣の食卓の方へ」
そう言うと、後ろから来た先程の若い僧侶に案内するよう促し、奥へと消えていった。
「何か・・・突然で、申し訳ないですね・・・」
珍しく京助が恐縮している。
「そんな気になさらずとも、静雀院様は面倒見が宜しいんですよ、いつもの事ですから」
にっこりと笑いながら、隣の食卓へと誘った。
かなり広い和室に、白いテーブルクロスが掛かった長方形のテーブルが置いてある。
片側五人掛けだろうか、両方で十人は座れそうだ、その奥が厨房らしい。
その厨房から、皿の擦れ合う音が幾つか聞こえて来る。
限界値をかる~く超えた胃酸が、ヨダレとなって今にも京助の口から溢れ出しそうだった。
「もう、ほら早く来なさいよ・・・まったくもう、まだ寝惚けてるんですか?」
あきれ顔の高梨暮葉が、一馬の横に立ち、今にも片耳を捻じり掴む勢いで言った。
離れの一室を間借りしながら、今度はどんな物語になるのか、そのプロットが気にはなるが、あんまり急かすと、何処かに逃げ出しそうで、とても言えない。
そんなストレスが、一馬の横を歩くこの女史の口を酸っぱくしているのだろう。
「暮葉さん、あんまり、お腹空いてないんだけど・・・先にお風呂頂けないですかねぇ~」
ようやく覚醒した頭が、最初に一馬に命令した言葉だった。
「なぁ~に言っちゃってるんですか、男は最後ですよ、お風呂・・・大昔の日本じゃあるまいし、女性の方がデリケートなんですからね、それに、せっかく作ってくれた晩御飯、食べなかったらバチが当たっちゃいますよ、せんせ」
もうこれ以上は絶対無理だと諦めた一馬は、仕方なく、のそりのそりと、暮葉の言う通りに食卓へと向かった。
その頃、あっと云う間に一杯目を平らげた皿に、遠慮もなく大盛の二杯目をお願いし、それもぺろりと平らげ、ベルトのバックルピンを緩めの穴に差し替えて、満足そうに楊枝を咥えた京助が、食卓を出て、外庭が見える廊下に置いてあるソファーに腰掛けた。
暗がりの広がる外庭に目を凝らすと、何本かのソーラーライトに照らされて、形良く整えられたツツジだろうか、ぐるりと庭を囲むように植えられていた。
季節になれば綺麗な花をつけ、尋ね来る人々の目を楽しませるのだろう。
そんな物想いにふけっていた時だった、それは突然やって来た。
離れから続く渡り廊下の方から、ソファーに深く腰掛けている京助の方へと、影が二つ近づいて来る。
「な、何だ・・・このプレッシャーは・・・」
近づく影の一つが、京助の危険センサーに反応した。
京助の方へと近づく影の一つが、部屋の明かりで照らされ、姿が見え始めた。すると・・・
「う、うわぁ~!!」
プレッシャーを掛けていたであろう一つの影から、悲鳴が上がった。
それと同時に、ソファーから飛び上がった京助も悲鳴を上げたのだった。
「うわぁ~・・・な、な何なんだぁ~・・・」
二人の悲鳴と共に、横を歩いていた暮葉も悲鳴を上げた。
「な、何なのよぉ~!!ビックリするじゃない!どうしったって云うのよぉ~」
騒ぎを聞きつけ、数人の若い僧と共に、主、静寂院も駆けつけてきた。
「暮葉!どうしたの!・・・大丈夫?」
「あ、静、わかんないのよ・・・何・・・この人達・・・もう、バッカじゃない」
(何てこった・・・正夢ってか・・・夢ん中に出て来た奴じゃないか、ハッキリと覚えてるぜ、こいつだ・・・鎌イタチ野郎)
反射的にソファーの後ろに逃げた京助の体が、臨戦態勢を取った。
(うわぁ~、この人だ・・・僕の体を真っ二つにした・・・)
今にもひっくり返らんばかりに、後ろにのけ反った一馬の右腕が鎌の形を取っている。
(おいおい、此処で・・・やるってか?)
京助がそう思った時だった。
「あらあら、お二人とも、お知り合いだったんですか?」
二人の男に、やんわりと言葉を投げかけた静寂院が微笑みながら間に入った。
すると、呆れた暮葉が、
「あなた、誰なの?」
自分に向けられたであろう此の女の指が、かなり尖って見えた
京助は黙ったまま、目の前にいる一馬から目を離さない。
「ああ、暮葉、この人ね、明日の地質調査に来てくれた、リーゼルさんの人なのよ」
すかさず、静寂院が京助の代わりに答えた。
「えっ!そうなの、よっちゃんとこの?」
その言葉に、暮葉が納得した。
「そうそう、よっちゃん」
静寂院が頷きながら暮葉の前に立ち、言った。
「いや、すまない・・・何か、人違いしたようで、騒がせちゃって申し訳ない」
在るはずもない夢の中の出来事が現実と交錯してしまったことに、京助の頭が混乱したのだった。
それを聞いた一馬も・・・
「ごめんなさい・・・僕も人違い・・・したみたいで・・・」
(そうなんだ、あまりにもリアルな夢だったから・・・でも、夢は夢だから)
無理やり納得しようと、言葉に出した一馬だった。
「もう、ホントに勘弁してよね・・・先生も・・・分かった?」
またしても暮葉に怒られた一馬が、俯きながら、何度も頭を下げた。
「あ、そうだ、せんせ、名刺あったでしょ、差し上げたら?もしかしたら一冊位買ってくれるかもしれないじゃない」
一馬の耳元で暮葉が囁いた。
「あ、はい・・・ちょっと待って・・・」
後ろのポケットから取り出した財布を開け、恐る恐る京助の前まで行き、自分の名刺を渡そうとした時だった、自分の名刺とは別に、一枚の名刺がパラリと京助の足元に落ちた。
気が付いた京助が、それを拾ってやろうと屈んだ時だった。
ゴツン!
同じタイミングで屈んだ一馬のおでこと、京助のおでこが激しくぶつかった。
「ああああ・・・・!」
それ以上言葉にならなかった。
その光景を見てしまった、この場にいる連中の大笑いが聞こえたのは、言うまでもない
「あっははは!久しぶりに見たわ、たんこぶ!あっははは!」
遠慮もなく笑いながら、この間抜けな二人に呆れかえった暮葉女史だった。
同じく、大笑いしながらも、落とした名刺を拾った静寂院が、急に真剣な顔つきとなった。
「ねえ、この名刺・・・何処で貰ったの?」
おでこを抑えながら悶絶している一馬に聞いた。
水色の名刺は、所々小さな水玉が描かれている変わったものだった。
「あ、えっ、あぁ~それ、何か、ルポライターさんて云う、女の人から貰ったんです」
「えぇ~!会ったんだぁ~・・・圭ちゃんに」
ビックリしたような仕草で、静寂院がその水色の名刺に書かれているのであろう名前を言った。
「え、圭ちゃんて・・・誰?」
暮葉が聞いた。
「ほら、大学の時、おんなじ山岳部のサークルで、仲良かったじゃない、結婚式にも出たでしょ彼女の・・・此処から北山の方へ行った所にある、月夜野ってとこの、葛城孝子よ、その妹じゃない、覚えてるでしょ、暮葉も・・・圭子よ、葛城圭子」
驚いたのは暮葉ではない・・・
今、まさに、おでこを腫らしながら頭を抱えている京助だった。
(なな、何だとうぉ~・・・葛城・・・圭子だと?・・・何だよぉ~、知り合いってかぁ~)
静かな夜であってほしかったと、泣きべそをかきながら京助が俯いた。
「ああ、そういえば、まだお名前、伺ってませんでしたわね、私は此処の住職をしている
静寂院と言います。本名は山脇静香って言うでんすよ、あ、それと、此方にいる方は、神奈川で作家をなさっている、響一馬先生、横の女性は、編集者で私の親友であります、高梨暮葉さんです」
簡単な自己紹介と間柄を説明すると、京助の方へ向き直った。
成り行きとはいえ、こうなった以上ホントの名前は死んでも言えないと京助は感じた。
「あ、そうでしたね、まだでした・・・おれ・・・否、私は・・・勝、勝山と言います」
でまかせにも程がある名前を、口に出してしまった。
「そうですか、勝山さんですね、とんだ事になりましたが、どうぞ、ゆっくりしていって下さいな、遠慮はいりませんよ、何かお困りでしたら、僧におっしゃて下さいな」
にっこり笑うと、暮葉と一馬を連れ、食卓のある部屋へと消えていった。
勿論、じろりと睨まれたのは言うまでもない、すれ違いざまの高梨暮葉という女に。
そして、京助の方をチラチラと振り向き、かなり恐ろしそうな女の後ろを、小走りについてゆく作家先生だった。
(あぁ~、ヤバいって、絶対ヤバいって・・・どうしよう、・・・とにかく、戻ろう、車に、此処に長居してバレたら・・・うぁ~、考えただけで恐ろしい・・・圭子にバレたら)
否定しようと、思いっきり首を振った、そして、先程入って来た玄関へ向かうと、そこにいた若い僧侶に食事のお礼を言い、車に戻る事を告げ、外に出た。
すっかり上がった雨は空の大気を浄化したのだろう、天空に輝く月を、プラスティックのように輝かせていた。
「へぇ~、今夜は三日月かぁ~」
上がって来た階段を慎重に下りて行き、観音開きのドアを押し開け駐車場へと出た。
これ以上は何事も無いようにと、柄にもなく天空の月へお願いした。
「あすになったら、チャチャと片付け、バイト代貰ったら、速攻で帰ろう」
居候先である横浜の離れと、美代さんが妙に懐しかった。
その頃、取り合えず夕食のカレーを無理やり胃袋に詰め込むと、先程まで京助が腰を下ろしていた庭が見える廊下のソファーへと、一馬も座った。
どれ位の時が経ったのだろうか、ウトウトし始めた一馬の耳に、聞き慣れた声がした。
「せんせ、お待ち同様、お風呂、いいですよ」
薄いクリーム色のバスタオルで髪の毛をゴシゴシと拭きながら、こちらもクリーム色をしたパジャマに着替えた暮葉が、ソファーでまったりしている一馬に声を掛けた。
それに気付くと、ゆっくりと起き上がり、大きく背伸びしながら暮葉に向かい小さく頷くと、ソファーから離れ風呂場に向かうのだった。
今回間借りしている、離れへと続く廊下の途中に、左へと伸びたもう一本の廊下がある。
そこの突き当たりに、湯殿と書かれたガラス戸があり、その引き戸を開けると、ヒノキの香りが漂う風呂場がある。
早々に脱ぎ散らかした服には気遣いもせず、濡れているタイル張りの床に気を付けながら、
湯舟へと体を放り込むのだった。
ゆっくりと肩まで沈むと、更に口元まで浸かりながら、ぷくぷくと息を吐いた。
「あの人、絶対只者じゃあないよね・・・何か・・・ありそうだな」
独り言を呟きながら、先程の緊張感がまだ残る胸を押さえた、そして、今度は湯舟に頭まで浸かると、大きく息を吐いた。
(まさか、あの おねえさんと知り合いだったなんて、暮葉さんも静香さんも)
あまりにも意外だった事実に、困惑を隠せないでいた。それと、勝山と名乗ったあの男。
一馬の記憶の回路が、只、空回りするだけで、飛び回るシナプスの波も震える海馬には反応出来ていないようだ。・・・故に、答えが導き出されない。
それは多分、今までに経験したことのないタイプのプレッシャーって事なのだろう。
湯船から出した顔が、大きく溜め息をつく。すると、思い出したように・・・
「おねえさんて云えば、あの事件、どうなったんだろう・・・」
それは、今より一か月程前の事だった。蒸し暑い、夏真っ盛りのある日。異常に高いであろう湿度に、拭っても拭っても止まらぬ汗が、一馬の額から整った鼻筋を伝い滝のように溢れ落ちていた。
開け放たれた二か所の窓からは、そよぐ風さえ入る気配を見せない。
決してお世辞にも広いとはいえない部屋の中で、二人掛けのソファーに一人腰掛け、小さな机に置かれたパソコンのキーボードを必死の形相で叩いている
。
「先生! 出来ましたぁ? うわっ! 暑っ。まだ直してないんですか、エアコン」
いきなり入って来たこの女が呆れるのも無理はない。
この暑さの中、締切に追われた一人の作家が、死にもの狂いでラストのページを書いているのだが・・・
二日前、猛暑の夜に突然逝ったエアコンは、サイドワインダーミサイルの如くに追尾する締切の為に、修理される事なく壁のオブジェとなって、うんともすんとも言わず、天井近い上から偉そうに只、見下ろしている。
「あ・・・暮葉さん。あと少し、もう少しですから」
熱気で曇る黒縁のメガネを外すと、足元に置いてあるティッシュを一枚抜き取り、きゅっきゅとレンズを拭きながら、おどおどした口調で言った。
「いつもいつもこれでは、困りますよ。先生!」
「あぁ・・・ごめんなさい」
何とも頼りない作家先生には、ほとほと閉口している担当の高梨暮葉女史。特別嫌味な性格ではないのだが、毎回ハラハラさせられるこの先生と呼ぶ男の行動に、ついと口が尖ってしまうのだ。
「大体、今回の旅行もそうでしたけど、訳の解らん理由で選ぶからおかしな具合になっちゃうんでしょ。揚句に、この体たらく」
「相変わらず・・・きつい・・・ですね」
「誰がそうしちゃうんですか」
「あぁ・・・ごめんなさい」
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