第8話 「継ぐもの」
聖域の奥を訪れた日の夜。セナとミラは自宅に帰り、ケイも宿泊している宿へと戻って、教会にはエースたち家族とシリウスが残っていた。翌朝の料理当番であるジーノは早々に就寝し、スランも短い晩酌を終えるとすぐに寝てしまった。
エースは皆が寝静まった頃を見計らって自室を抜け出し、居間へと向かった。というのも、シリウスに「折り入って相談がある」と呼び出されていたのだった。
居間の扉を開けると、シリウスが火を小さくした暖炉の前でソファに腰掛け、本を読んでいた。彼に睡眠は必要ない。地上に下りてきてからというもの彼は毎晩、読書に明け暮れていた。幸いにも書物はエースの部屋に山のごとくあったし、スランもそれなりに読書家であったことから、数日のうちに家の本を読み尽くして彼が暇を持て余すことはなかった。
エースは静かに部屋の中に入り、扉を閉める。シリウスは人差し指を立てて、少し待つように合図した。切りのいいところまで読んでしまいたいのだろう。エースは彼と向かいのソファに腰を下ろして待つことにした。
シリウスは癖のある髪を耳に掛ける。その仕草で、懐かしい横顔が露わになる。
白い顔。
白い髪。
それらが炎の赤に染まって燃えている。
エースはふと思う。彼女の最期はどんなものだったのかと。名前のない男に殺されたとは聞いたが、そうであるのなら彼女はさぞ悔しい思いをしたに違いない。自らの死期を悟って覚悟を決め、人生に──そして自らの死に意味があることを望んだ彼女だ。その希望が潰えると知った瞬間……彼女の記憶を持つエースだからこそ分かる……きっと、目の前が真っ赤に燃えて、激しい怒りがこみ上げたことだろう。そうして激情に駆られる中、彼女はそれでも名無しの男を生きて地上に返したのだ。
凶行を思いとどまったその決断。
普段の感情が平坦すぎるがゆえに、一つの思いがわき上がるとそれしか見えなくなる自分には、決してできない行動だ。
幼なかったあの日、エースは振り下ろした短剣で己の視界を真っ赤に染めた。自分は彼女と違って自制できず、人を殺してしまった。
その罪は未だ償えていない──。
「……」
エースは額に手をやってため息をつく。
この十年、ソラに示された未来……持てる医術を尽くして人を救うという使命に奔走してきたが、人を一人殺めた過去はそう簡単に消えるものではなかった。
誰かを救えば、その分だけ空虚が広がっていく。どれだけ多くの人を助けようとも、同じ立場にならない限り償えるものではないという虚無が胸に満ちていく。
「……ース」
考えてみても答えは出ず、海の底に沈みゆく思考……。
「……、エース?」
人間らしさをなくした青い瞳に光を戻したのはソラの声だった。いや、実際にエースの名を呼んだのはシリウスであるが、どうにもその声が彼女のそれに聞こえたエースは慌てて窒息の海から顔を上げた。
「何でしょうか、シリウス様」
「ちょうどいいところまで読み終わったし、キミさえよければ呼び出した本題に入りたいんだけど、いいかな?」
「はい」
エースは座りを直してシリウスの方を向く。何事にも真剣に取り組むその態度にシリウスは自然と顔をほころばせ、やや前のめりになって話し始めた。
「単刀直入に言うと、キミに僕の後を引き継いでもらえないかなと思ってるんだ」
「後を引き継ぐ?」
「星の内部を巡る光陰の魔力はやはり不安定なものでね。時々調整してやる役が必要なんだけど、それは知ってるかな?」
「いえ、詳しくは……」
「今は僕とソラでそれをやっていて、特に僕なんかは時々地上で幽霊になって、魔力の滞っている箇所に手を入れたりしているんだ」
シリウスは両手を胸の前で柳のように揺らし、クックと笑った。エースはその冗談にどんな顔をしたらいいのか分からず、とりあえず思いついたことを言った。
「あの、もしかして……依り代を作る本当の理由は、ソラ様がその役目をこなすためなのですか?」
その言葉にシリウスは小さく頷く。
魔法が苦手なソラはシリウスのように該当箇所を狙って地上に顔を出すということができない。そこで必要になるのが器である。それに乗り移ることによって地上へと降り立ち、修復が必要な場所へ向かうようにすれば、手間はかかるが陰の魔力の調整もしやすくなる──と彼は言った。
「まぁ、それもオマケみたいなものなんだけどね。僕としては、あくまで彼女の願いを叶えるのが本命さ」
「そうですか……」
「ソラが何とか自力で、初めての場所にも出られるようになればいいんだけどね~。こればっかりは仕方がない。魔法が存在しない世界から来た彼女に、一朝一夕で高次の魔法を使えるようになれっていうのは無理な話だ」
そこでシリウスははたと気づいた仕草をし、老成した顔つきになって声のトーンを落とした。
「いやぁ、話が脱線しすぎて困ったものだね。閑話休題としよう」
「後継ぎの話ですね」
「それそれ」
はにかみ、シリウスは静かな声色で、「何だかんだ、千年だからね。僕も疲れてしまって」。そう言った。
「……ソラ様は役目の交代について、どうおっしゃっているんです?」
「もちろん反対されたよ。そりゃもう烈火のごとくね。エースくんは駄目! だってさ。彼女としては、自分の知り合いにこんな役回りを頼むなんてできないらしい」
「……」
「だったら、ソラと面識のない赤の他人なら構わないのかって話になったんだけど……あの子はほら、包み隠さず自分勝手なところがあるだろう? 知らない他人ならいいんだとはっきり言い切られてしまったよ」
「ソラ様らしい物言いですね……」
「それも予測できた答えではあった。自分で自分の最低さを自覚しながらも、そう言うしかないんだよね……彼女の性格だと。それを言わせる僕も最悪ではあるんだけど……」
「それでもシリウス様は、俺にこの話をするんですね」
「ああ。僕としては、キミでないと駄目だと考えているから」
「なぜです?」
「エース……。キミも自分の血筋についてはだいたい想像がついているんだろう?」
シリウスは一度言葉を切ると、エースの髪をかき分けてその耳に触れた。通常であればアーチを描く耳の形であるが、エースに限っては耳輪部分が上方に引っ張られたような、わずかに尖った形をしていた。
その角張った耳の先端を指の腹で撫で、シリウスは言う。
「キミは……キミたち兄妹は僕ら聖霊族の末裔さ。金色の髪、青い目、病をはねのける体質、そしてその身に余る膨大な魔力を持つという特徴──」
「俺にそんな魔力はありませんよ」
「ああ、そうだね。そうだった……。だけど、キミにもその器はあるんだ」
「え?」
「キミは魔力の供給が極端に乏しいだけで、それを受け止める器は妹のジーノと同等のものが備わっている」
たとえば魔力の供給を蛇口から出る水であるとする。エースの場合、取っ手を全開にしても出る水はほんのしずく程度だが、それを溜める器は人の何倍も、何十倍も大きい。もしかすると、器の大きさだけで言えばジーノのそれを超えるかもしれない……何かを見通すような目で、シリウスはそう呟いた。
エースはその視線にむずむずとして、話を別に向ける。
「えっと……後継ぎと言っても、具体的にはどうするんですか? 俺は四属魔力しか持っていませんよ」
「僕を介して光の魔力をキミの中に満たしていくことになる。何年、何十年とかけてゆっくりと」
「……二属と四属の魔力は相反するというか、それらの間で魔力の移譲はできないものと聞いていますが?」
「それはその通り。地水火風の魔力が満ちるキミたち人間に、僕やソラが持つ光陰の魔力を譲り渡すことはできない」
その原則は魔法に長けたシリウスであっても覆すことはできない。だが、例外と抜け道はある。彼は意地の悪い顔をして話を続けた。
「キミは一度、ソラの持つ光の魔力を徴発して魔法を使ったことがあるよね?」
「はい。カシュニーで」
「この髪……」
彼はエースの前髪の一房を持ち上げる。透き通るような白に変色してしまっている部分だ。
「これを見れば分かる。エース、キミはそのとき十分にソラの魔力を発散できなかったね?」
「おそらくは、そうなのだと思います」
「だのにキミが生命の危機に陥らなかったのは、残留魔力がごく微量であったためだろう。そしてこう言っては何だけど……元から四属の魔力量が少ないのも幸いしたんだろうね。反発する相手がいないのだったら、そこには異物が入り込む隙が生まれる」
「ひょっとして……聖霊族に連なるかもしれない血筋も、何か関係が?」
「あるさ。光の魔力を扱った聖霊族の末裔であれば、その魔力を受け入れる素質が少なからずある。その証拠に、ソラの残留魔力は十年経ってすっかりキミに馴染んでいる」
器の底に残り続けたそれは、いつの間にか常態として体に受け入れられていた。ならば、器に魔力を満たし、魔法を使うことで体内の回路に行き渡らせて慣らしていけば、やがて供給源にシリウスの魔力を送り込んでも拒絶反応は出ない。と言うのが彼の論だった。
「──と、まぁ僕の理屈云々は置いておくとして」
シリウスは見えない箱を横に除ける仕草をして、後継ぎの候補としてエースを挙げる一番の理由を語った。
「大陸中、あるいは世界中を探せば聖霊族の血を引く人間は他にもいるかもしれないよ。だけど、そこに加えてほぼ魔力を持たないという条件つきで該当する人材を探し出すのはなかなかに困難だ。それに……これを言うのは卑怯だって分かってるけど、ごめんね……キミに代わる人を見つける前に、僕の魂がすり切れてしまう可能性もある」
「シリウス様……」
「だからね、その危険性と、辛さをよくよく説明した上でキミが受け入れるのなら仕方がないと……僕はソラに妥協させたんだ」
「そう、でしたか……」
「魔力の移譲には少なからず体調の変化が伴う。一番はやはり痛みとして症状が出るだろう。調子が悪いときは立ち上がることさえ億劫になるかもしれない。それが続くんだ。キミの体に魔力が満ちて、馴染むまでずっと」
「……」
「平定の役にしても楽ではない。時間の感覚は曖昧になるから幾分マシだけど、僕のように長くその役に就くとなると……生きていた時の感覚を保ち続けるのは難しくなる。時だけが過ぎ去って、自分は何も変わらないのに、何か違うものになっていく奇妙な感覚があるんだ」
それもこれも、軸を作った初期段階での設計が間違っていたと彼は苦い顔をする。人格を保持せず、平定のための『仕組み』として存在できたのならこんな面倒はなかったのだ。それができなかったのはシリウスの中にも自我があったゆえだろう。
いくら世界平定の使命を帯びた種族といえど、聖霊族の皆にも個々の性格はあったし、感情もあった。世界のために自分を無くしてしまうのを……心の片隅で、惜しんだのかもしれない。もしかすると、勝手に自分たちを虐げた人間への復讐心があったのかもしれない。わざわざ回りくどい手順を踏んで、いたずらに地上の人間を苦しめたのも、そのせいなのかもしれなかった。
もう、覚えてはいないが。
エースのように全てを覚えていられないシリウスは、その辺りの思いをはるか昔に忘れてしまっていた。
「──ソラからキミの特殊な記憶能力の話は聞いているよ。全ての子細を思い出せるキミの場合、もっと辛いことがあるかもしれない。自分だけじゃなく、ソラもきっと変わっていってしまうだろうから……」
「それを……見ていなければならないのですね……」
「……、……。引き継ぎは今すぐにどうこうという話ではない。さっきも言ったけど、魔力の移譲は何十年とかけてゆっくりと行う。でないと体に耐えきれないほどの負担がかかってしまうからね。そうであるからこそ、キミには天寿を全うしてもらえると思う。キミ自身の人生を取り上げるようなことにはならない。そこは約束しよう」
その役を引き受けると決めたのなら、シリウスはエースが老いによって死ぬその時まで見守ると言った。不慮の事故などで、魔力移譲の半ばで死んでしまったりしないよう万全を尽くすと。
天命が尽きるまでの安泰が保証される──というのは普通であれば歓迎するべき提案なのかもしれない。しかしエースにとってそれが幸いかと言えば……。
「俺は……」
「全ては僕の身勝手だ。それは分かっている。けれど……どうしようもなく……僕にはもう、この先は無理なんだ……」
「……」
「すぐに答えを出さなくてもいい。数年かかっても……もちろん断ってくれても……ああ、そうとも。一向に構わないんだ」
「ですが、そしたらシリウス様は……」
「その時はソラと一緒にまた別の人材を探すさ。一人じゃないんだし、何とかなるよ」
シリウスは力なく笑う。
その顔を見ながらエースは思う。自分にとって幸いでないのなら、それこそが選ぶべき道なのではないかと。困難と苦痛こそが、己に支払える贖いなのではないかと。
「きっと、辛い役目になる。よく考えるんだよ……」
シリウスはそれを最後に、読書へと戻ってしまった。話はこれで終わりだ。あとはエースが何を考え、どう答えを出すか……。
彼に就寝の挨拶をして、一人廊下に立ったエースは思う。
自分にできる償いとは、何なのだろう?
この世で苦しみあがき、後悔を続けることだろうか?
シリウスの申し出を受けることは、過去から逃げることになりはしないか?
そこまで考えて、頭の片隅に甘い囁きが聞こえた。
自分が殺したあの人と、同じ場所……そこに立って初めて、本当の償いが始まるのでは?
「──いや、駄目だ。そんな思いでソラ様の隣に立ってはいけない……」
それが分かっているエースは頭を振り、片隅の囁きを追い払った。そして、細く長く続く暗闇に立ち止まり、胡乱な瞳で足元を見る。
自分で納得して、迷いなく未来を歩いていく……そんなことはまだできそうになかった。