最終話 「最果ての、その先へ」
半年の製作期間を経て依り代は完成した。化粧を施し、閉じた瞼の下に瞳を入れ、癖のあるたおやかな髪を丁寧に解きほぐし、一針ずつ繊細な糸使いで仕上げられた衣装を着付け、聖櫃に納められたそれはルーシアと彼女の師によってソルテ村まで運ばれてきた。
彼女たちが村に着いて少しすると、軸の座に戻っていたはずのシリウスは以前の通りソラの体を借りて地上に下りてきた。彼は厳かな櫃の蓋を開け、その中に横たわる人形を確認した。
透明感のある仕上がりとなっている白磁の肌。顔の造形を主張しすぎず、控えめに施された化粧。閉じている瞼をそっと上げると、そこには彼岸の花のように赤い玻璃の瞳が眠っていた。栗色の髪は光を反射して柔らかな光輪を描き、瞼を縁取る睫毛にも同じ素材が使われていた。黒が基調の花嫁衣装は荘厳であり、しかし飾り立てすぎず、華やかであり淑やかという絶妙な印象を与える出来になっていた。
首にはソラがかつて使った魔鉱石の指輪がペンダントとして掛けられていた。それは今後、彼女が地上で魔法を使う際に必要となる物であった。
シリウスは一言、「素晴らしい」。頭で考える前に自然とそう呟いた。隣で見ていたエースやジーノも息を呑むほどの美しさで、その人形はまさに繊細を極めた芸術と言って差し支えなかった。
こうして、彼女を下ろす器が整った。
残すはもう一つの目的のみだ。
葬儀は既に決定事項であったため、準備はつつがなく進められた。参列者の都合を聞き、期日を設定し、それに向けて着々と舞台を整えていくのだ。
そうして、シリウスと出会ってから約一年と半年後の初冬。まだ雪もうっすらとしか積もっていないその季節に、村の教会でソラの葬式は執り行われた。
死者が自ら棺に横たわり、目を閉じるというのも妙な光景だった。ソラの体を運んできたシリウスは「じゃあ、あとはよろしくね」と言ってその場を離れていった。
ペンカーデル地方では、死者の服装は白と決まっている。体の傷が見えないようソラは指の先まで布に覆い隠され、肌の黒化も化粧で消し去り、雪を降らせたようなレースの中で眠りについた。
過度な装飾はせずに、大海を行く船を模した形に作り上げた檜の棺。その中で眠るソラには多くの人が最後の面会に訪れた。
ミュアー、ユナ、カム、セトル、ベリック。その他、彼女と面識はなくともその存在を救世の魔女と知るソルテ村の人々。
依り代の製作に関わったルーシアと職人たち。
東ノ国からはユエ、ナギ、カエンが駆けつけてくれた。ツヅミに関しては「宿借り」の逃亡を手助けしたことから王国への入国が禁止となっており、同じ頃に朱櫻から冥福を祈るとのことだった。
王都からも保護観察中のラフィールと、彼女の目付役としてフィナン、ロカルシュ、そして中央憲兵隊に出向中だったエィデルがやってきた。以前、王都でシリウスがセナに頼んでいたのは、彼女を今回の葬儀に参加させることだったのだ。
目を閉じるソラを前に、かつての子どもたちが思い出を語る。
「何だか妙な気分だわ。ソラが魔女だって聞いたときも、世界を救ったらしいって聞いたときも、実感なんてなかったし」
「分かるなぁ。全然そんな気しないんだよね。ソラお姉ちゃん、普通に普通の人っぽかったもんね」
「突進してきたユナに轢かれるくらい鈍くさかったもんな、あの人」
「セトル~。あんまそういうこと言うの、よくないぞ。何てったって相手は救世の魔女様なんだからな」
「それが不思議なんだよね。ユナじゃないけど、僕もソラお姉ちゃんからは全然そんな雰囲気感じなかったし」
五人は雪合戦をした日を思い出してしきりに首を傾げていた。
その会話を聞いていた東ノ国の三人は、ソラがどこにでもいるごく一般の人間だったことを思い知る。
「うちな、ナギ。どこかでソラ様のこと、特別な星の元に生まれた方とばかり思てたんやけど……実際のとこ、うちらと同じだったんやね」
「はい。私たちと変わらぬ、ただの人だったのだと思います」
ユエとナギ、カエンは棺の中のソラを見、手を合わせて深く腰を折る。
そうして定刻が来ると、棺の蓋は閉じられた。エース、セナ、ケイ、ジーノが坂下にある村外れの火葬の施設まで、その船を運んでいく。
死者の魂を軸へと送る炎は、代々斎場を預かる者が手ずから燃やす。灰のみを残して全てを焼き尽くすその火にはそれなりの温度が必要で、斎場の主は一回の葬儀でその日の魔力を使い切るのが常だった。炉へと差し入れられた棺は蓋を落とされ見えなくなり、半屋外の部屋にはただ火が燃える音だけが響いた。
二時間ほどが経ち、休憩を終えて戻ってきた参列者たちを代表して、エースに木製の骨壺が手渡される。こんなに小さくなってしまったと思う間もなく、皆はまた坂を上って、教会の裏手にある森──聖域に隣接する墓地へと向かった。
石碑の前にあらかじめ掘っておいた穴。その中に壺を置き、参列者は最後の別れを告げる。
そこで初めて、誰からともなくすすり泣く声が聞こえ始めた。
本当に、彼女は死んでしまったのだと……今更ながらに分かったのだろう。
そうした泣き声を聞きながら、ラフィールは呆けた顔をして、参列者たちの手で墓穴が徐々に埋められていく様を眺めていた。
嬉しいような。
こんなことを思ってしまう自分に絶望するような。
分かるのは、怒りが少しずつ収束していくということだった。
土を被せる作業はやがてラフィールに番が回ってくる。鏝を差し出したのはエースだった。ラフィールは戸惑い気味にそれを受け取り、フィナンに背中を押されて穴の前に立った。
傍らの土をかき上げ、穴の中に落とす。
その行為でラフィールと、記憶に住み着いた少年少女は実感する。
「本当に……」
死んだのだ。
さすがにその言葉をこの場で口にすることは憚られた。ラフィールは唇を噛んで耐え、胸の内で目の前の事実を反芻する。
あの女──魔女は死んだ。
もういない。
全て燃えて、粉々の灰になってしまった。
土の下に埋められ、もう戻ってくることはできない。
頭の中の廃墟から、笑い声が消える。
まだ足音だけはあったが、きっとそれもそのうち立ち去るだろう。
そんな気がして、ラフィールは一つ涙をこぼした。
エースは憑き物が落ちたような顔をして立ち上がった彼女を見ながら……土の下に埋められていくソラを見ながら、実感する。
ああ、やはり──と。
同じ立場になって、その後にこそ償いは叶うのだろう。
今までずっと疑問で、その答えに自信がなかった。
だが、ラフィールを見て確信に変わった。
きっとこれしかないのだと。
嬉しいような。
こんなことを思ってしまう自分を卑下するような……。
エースもまた涙を流し、最後のひとかきで穴を埋めた。
葬儀が終わると、皆は教会の前に集まって故人を偲んだ。儀式後になぜか野外での会食を行う風習があるこの村では、飲食の合間に死者にちなむ話をし、悲しい別れを楽しかった思い出で乗り越える。
そんな中で、セナは一人だけ食事の席を外れて礼拝堂にやってきていた。祭壇の上に安置されたソラの依り代を前に、彼は片膝をついて両手を握る。
肌が白くなるほどに力を込め、気温のせいだけではなく小刻みに震えだした拳。
それに、温度のない小さな手が触れた。
聖櫃の中から身を乗り出し、黒髪の人形がうっすらと赤い目をのぞかせて。
それに表情はなかった。
口が開くこともなかった。
ただ、声だけがセナの耳元に響いた。
「キミを恨んでなんて、ない」
聞き間違うわけがない彼女の声。
「まだ下りるのに慣れてなくて、あまりお話はできないんだけど……」
彼女の手は顔を上げたセナの頭に触れる。
セナは唇を震わせながら、絶え絶えに言葉を紡ぐ。
ずっとずっと、言えなかったその一言を。
「ご、ごめんなさい……。俺……、あの時……!」
「大丈夫。分かってるよ」
そこでセナの言葉は切れる。彼女が無機質な人差し指を口元に立て、その先を制したからだ。
「──私はキミの人生に幸多き未来を望む。どうか、これからは喜びと共に生きてほしい」
それだけを言って櫃に戻り、気配を消した。
セナは膝をついたまま、握りしめた手を額に押しつけ、声を忍ばせて泣いた。
あの日の少年は今、ようやく許されたのだった。
食事が終わり、あとの時間は個人で死者に思いを馳せる段階となった。
スランが杖を突かないで歩けるようになったおかげで一人分多く労働力を確保できたため、式の片づけ作業は案外早くに終わった。日付が変わって少し経った頃には身内だけで昔話をする時間も作ることができ、エース、ジーノ、スラン、ケイ、セナの五人は一連の儀式が滞りなく終わったことに感謝しながら酒を傾けた。
エースが一人で落ち着くことができたのは、それから二時間ほど後のことだった。セナは疲れて先に寝ていたミラを背負って自宅に戻り、ケイは来客用の大部屋に引っ込み、ジーノとスランもそれぞれ就寝のため自室に入った。
最後まで居間に残っていたエースは人知れず外套を羽織ると、音を立てないよう静かに家を抜け出し、小さな明かり石の光を頼りに聖域の方へと歩いていった。こんな夜中に誰もいないことは分かっているが、彼はキョロキョロと周りを見渡してから洞穴の中に入って行った。
岩の間を通って染み出た水が地面に落ちる音──それが前から後ろからと耳に届き、エースは自分の足音が後ろから追いかけてくるという不思議な錯覚を覚えながら奥へと歩いていく。
しばらくして、彼はシリウスがブルーダイヤモンドを作り出した泉の前にたどり着いた。あの石は結局、ケイが提案したとおり依り代の制作費に見合うだけの欠片を(ノーラに渡すことを約束していた分も一緒に)削り取り、残りはシリウスが座に持ち帰った。
彼がその青色の鉱物を作り出したと知ったあの時の衝撃を思い出し、エースは眉を下げながら虚空に呼びかける。
「シリウス様、いらっしゃいますか?」
地上からの呼びかけが軸に届くのかは果たして分からなかったが、エースの声はしっかりと相手に届いていた。輪郭の曖昧な白い靄としてシリウスはその姿を現す。出会ったときに本人が言っていたとおり、まるで幽霊のようだ。
そんな彼にエースは前置きもなく、率直に胸の内を明かす。
「俺、シリウス様の後を引き継ぎます」
『本当にいいの?』
「はい」
彼はソラを見送ったラフィールを見て決意した。
自分にできる償いとは、何なのか?
それがずっと分からなかった。自分で納得して、これこそがまさに償いとなるだろうと信じ、歩むことができなかった。この世で苦しみあがき、後悔を続けるだけで足りるのかと──それが疑問だった。
シリウスに後継ぎの話を聞かされた時、自分が殺したあの人と同じ場所……死の淵に立って初めて、本当の償いが始まるとも考えた。だが、自信はなかった。自分で道を決めて一歩を踏み出すことができずにいた。
その迷いに決着がついたのだ。
ラフィールがソラの死を受け入れ、前を向こうとする顔を見たその時に。
「俺……ようやく自分で決めて、罪を償えるんです……」
『……どうにも前向きな発言には聞こえないね』
シリウスの言うとおりではある。死ぬことで殺した彼女と同じ立場になり、その後も困難な大役を続けることで贖罪とするなど、まるで今までと同じだ。自分を卑しめ傷つけているのと変わらない。
『キミの償いはいつ終わるんだい?』
「分かりません……終わりなんてないのかもしれません。でも……罪にどう向き合えばいいか分からずに右往左往していた俺は、今までただの一つも償えてなかった」
今生ではできる限りを尽くして人を救い、一生が終わったその次は世界に生きる生命の為に身を粉にする。彼はそう決意して、顔を上げた。
「生きているうちの行いは……この世界のために犠牲となった方々への報いです。善き人を育て、善き世界を作る。シリウス様もそうしてほしいとおっしゃったじゃありませんか」
『まぁ、確かにね……』
「だから、俺自身の罪に対する償いは……その後にしかできないんです」
『その決意でソラの隣に立てるかい?』
「俺はあの人の目を見て、きっと言えます。これこそが俺の悔いなき人生なのだと」
『そう……』
エースは自らの決断を思う。シリウスの言う通り、自分の決断は決して前向きなものではない。それでも、後ろを向きながらも顔を上げて、現実と向き合う覚悟を決めたのだ。
選んだ結果を受け止め、その先をどう生きるか。シリウスは人生をそう表現した。エース自身も、生きるとはそういうことなのだと思う。
エースは幼い頃から数奇な運命をたどってしまった。人を殺めた罪──彼はその行いを後悔し、償いたいと願い、ただただ苦しみの日々を生きてきた。その地獄を報いだというのなら、いつだったかソラも言ったとおり、彼は相応の罰を受けたと言えよう。しかしそれでは本人の心に決着が付かないのだ。彼自身がそれを罰と信じていなかったから。
だからエースは他の方法で償う道を探していた。罪を受け止め、それでも生きるのなら──生きることを望まれたのなら、どのように在ればいいのか。
二十数年。
長く暗く続いた道に、光が射す。
「俺……今更これを嘘だと言われて、未練を残して死にたくないです」
シリウスの言葉を受け、ラフィールの姿を見、それを定めることができた今、エースは自らの意志で生きる意味を語ることができた。
彼がそう信じ決めたのなら、シリウスには──ソラにさえも、その思いを否定することはできなかった。
『これ以上問いを重ねて、キミの意志を試すような真似は野暮だね。そうしたら……手始めにこれを返そうか』
シリウスがスッと上方に手をかざすと、白く光る輪の中から抜き身の黒剣が落ちてきた。彼はそれを軽く受け止め、エースに差し出す。
『かつてキミが使っていた剣だ。ソラの魔力の影響を受けて刀身が黒く変化してしまったけれど──問題はないよ。座にある鞘とこの剣は縁でつながっている。今後はこれを媒介にしてキミに僕の魔力を分け与えることになる』
「分かりました」
エースは黒い剣を恭しく受け取ると、そのまま一歩後ろに下がった。
「俺、戻りますね。何だか用件だけで……すみません」
『構わないさ。もう夜もだいぶ遅いし、外も冷えているだろう? 暖かくして眠るんだよ。といっても、キミは風邪なんて引かないと思うけどね』
「ええ。聖霊族の血のおかげですね」
『フフフ……全くだね。以後は健康に、堅実に過ごし、キミはキミの望むようにその一生を終えるといい』
「はい」
エースは晴れやかな表情になり、まるで数十年ぶりに本当の笑顔を浮かべた気がして、少し照れたように瞼を伏せた。
別れの儀式は終わり、縁ある者も己の居場所へと帰った。
ラフィールはその後、話をよく聞き心を助けてくれる人間を見つけ、何とか立ち直ったと聞いた。ロカルシュは何やかんやとフィナンに迷惑をかけつつ王宮での仕事をこなし、王派閥の諜報員として活躍しているらしい。
ユエはソラの葬儀から故郷へ帰った後、しばらく心穏やかに過ごして亡くなったそうだ。家督はナギが継ぎ、魔女の遺物を託された家として、それを適切に保管し後世に伝えていくべく様々な行動を起こした。
セナはますます魔女の研究にのめり込み、ミラもそれを手伝い各地をよく飛び回った。
ジーノはソルテ村で祠祭としてスランの後任に就き、持ち前の明るさと強かな精神力をもってその職務に励んだ。
エースはといえば……シリウスの後継ぎの話を身内にのみ打ち明け、予想通りスランとの間で少しだけ揉めて、最終的には説得した。その後はケイの魔術知識と技術、人脈や資産を引き継ぎ、大陸だけにとどまらず世界を旅して見聞を広め、多くの弟子を育てた。
そして、葬儀のあった日から八十八年──聖霊族の血筋ゆえか、通常の人間よりも緩やかな老いを生き、エースが奇しくも百二十の齢を数えたその年のこと。
スランやケイはもとより、セナも逝き、ミラでさえもしわだらけの「おばあちゃん」となった。彼女とジーノは同じだけのしわを顔に刻み、それでも普段から活発に動いていたおかげか、年の割に元気であった。
そんな二人と弟子たち、村の皆に囲まれて、エースはその生涯を終えた。あらかじめ「もう一ヶ月もないだろう」と本人から告げられていたため、葬儀や遺品の整理といった後片づけはすんなりと終わった。
ジーノは雪の中でも杖をつきながら墓地を訪れ、ソラの墓標の隣に作られた真新しい墓に花を手向ける。彼女はその後、何の気なしに聖域へと足を延ばした。
しんと静まり返った森の中に、さらさらという音と共に雪が降り積もる。
木道を歩いて階段を上り、広場の先に待ち受ける洞窟──黒い岩は雪の冠を被っていた。
大地の中へと続くその道は軸につながっていないと聞いたが、ソラもシリウスも、いつもここを通ってやってきた。だからきっと、縁はつながっているのだろうとジーノは思い、心地よい闇を抱く洞穴の前でふと笑い、その場を後にした。
礼拝堂まで戻り、彼女は祭壇の前までやってくる。今もそこに安置されている聖櫃にはソラの依り代とエースの剣が納められている。
「お兄様。ソラ様をよろしくお願いしますね」
そう呟くと……、
──うん、任せて。
──私がお世話される方かぁ。
そんな声を聞いた気がして、ジーノは後ろを振り返る。
いつの間にか開け放たれた礼拝堂の扉からは、いつだったか……ソラと初めてであったあの時のように、温もりのある風がふっと駆け抜けた。
これからも季節は移り変わり、時を経て全ては変わっていく。
聖なる櫃を前に彼女は祈った。
幾百年、魂が星を巡るその先で。
救われた世界に、ほんの一つでも誇れる価値を見いだせたのなら。
その願いを継いで、これからの物語は続いていく……。
〈 異世界神の黒き花嫁/魔女の葬送 ── 終 〉




