第20話 「僕を見て」
気分を悪くしたエースを食卓の椅子に座らせ、シリウスは未だブツブツとソラへの恨み言を述べるナナシに近づいていった。
「キミの言い分は分かった」
ナナシを押さえるセナはそれ以上近づくなと言ったが、シリウスはそれを無視して彼の前にひざまずいた。
「その怒りは的外れとまでは言わないが、やはり自分勝手だね」
「何だと!?」
「ソラの立場から考えてみれば、殺人鬼を前に怖くなるのも当然だよ」
「……」
「それでもきっと、彼女は……キミに言わなければならないのだろうね」
シリウスは憐憫の情を向けてそう言う。
ほんの少しの時間なら、彼女の言葉を伝えられる。
シリウスが目をつむると、髪の色が頭の上から次第に黒く染まっていった。
やがて瞼を開き、赤い瞳を持つ彼女は言った。
「あの時、一度は差し伸べた手を……私は引っ込めてしまった。本当なら……これは理想でしかないけど、でも……それでも。私はきっと、無理やりにでも貴方の手を掴んで離すべきじゃなかった。たとえ、貴方を救えなかったとしても……」
ナナシは顔を上げ、幾筋にも垂れた涙を噛みしめてソラを睨みつける。
「その手を掴んであげられなくて、ごめん……」
「今更だ。今更だ……そんなの……!!」
ナナシは自分を見なかった者、その惨状を知らなかった者、知る術もなかった者も含めて、この世の全ての人間が憎かった。第三者から見れば、それこそどうしようもない怒り。向けられても困惑するだけの不当な感情……だが、ナナシにとってそれは確かに正当な感情だった。
「アンタはひどい、アンタたちはひどいよ……僕を見捨てた。僕は、ただ……誰かに手を……」
ああ、憎らしい。
悔しい。
何で僕が、こんな目に。
どうして僕は、こんな……!!
彼は泣きじゃくり、叫んだ。
「誰も僕を見てくれない。どうして気づいてくれない? 見て見ぬふりをするなんてあんまりじゃないか。ぼくはこどもだったんだぞ……! 理不尽だ。不幸だ。どうして僕が死ななきゃならないんだ? 他の奴が死ねばいいのに! お前らが……お前らこそが……っ!!」
誰も、見ず知らずの他人を無条件で愛することはできない。名前も知らない誰かに──しかもそれが人殺しの倒錯者であるのならなおさら、その後の人生を捧げて面倒を見るなんて重い決断はできるものではない。
そんなことは分かっている。
分かっていても、それがたまらなく悔しく、恨めしい。
ナナシの怒りは誰にも、彼自身にもどうしようもなかった。
もしも誰かが自分に手を差し伸べていれば、事態は違ったかも知れないのに。それは理想でしかないけれど、それこそが正解だったはずなのだ。
「僕にだって、手が差し伸べられてもよかったじゃないか!!」
けれどソラはナナシを恐れ、自分には彼を救う手立てがないと諦めてしまった。
ナナシも、目の前に差し伸べられた手を自分で掴めなかった。
これは、何もかもが噛み合わなかった悲劇なのだ。
「ごめん……」
その言葉を最後に、彼女はここではない別の場所へ戻っていってしまった。残されたシリウスは青い目を伏せて。ナナシの肩に手を置いた。
「キミの隣に、親身になって話を聞いてくれる誰かがいてくれればよかった。キミ自身がそんな人を見つけだして、助けを求められればよかった。ソラもあの時、キミの手を掴んで離さなければよかった」
しかし、そのどれも違った。
そうではなかった。
残念なことに。
「キミの言うとおり、全てが理不尽だ。キミは辛い思いを耐えて生きてきた」
そうではなければよかったのにと、シリウスは辛そうに言う。
だが、彼は人を殺した。
怒りにまかせて、見境なく、残忍に。
多くの人を。
「キミはそれを後悔しているか?」
「……」
「それとも、やってやったという達成感を覚えるかい? 自分をないがしろにした奴らを殺してやったぞ、って」
「……」
「だとすれば、ナナシ。死者の無念に後悔を覚えないキミがたどり着くのは……やはりあの最期しかなかったのだと僕は思うよ。キミはどうなんだい?」
シリウスの問いかけは元々の人格──ラフィール本人への言葉だった。
彼女は濡れた視線をさまよわせ、廃墟の埃にむせ込みながらも、必死に息をつないで言った。
「分かってる……。こんな、こんな奴ら……救うなんて無理だった。アンタの反応は妥当だった。怖い、恐ろしい、得体が知れない、気味が悪い……気持ちが悪い。分かるよ、私だってそう思う。でも……」
それでも、ラフィールの中にはナナシの記憶がある。彼の悔しさも、悲しさも、絶望も。何もかも自分のことのように分かってしまう。
「私は! アンタが憎いよ……そんなことないはずなのに、どうしても……。どうしようもなく……!!」
頭の中の他人が怒れと叫ぶ。
望まない憎しみを植え付けられ、築き上げてきたものをぶち壊しにされ、一度しかない人生を堕落させられた。
そのことに対して、ラフィールは自らの感情で怒る。
「私がこうなってしまったのは私のせいなんかじゃない!!」
「ああ、そうだ……。それだけは本当だ」
「私のせいじゃ、ない……!」
「ごめんよ、ラフィール」
「うっ……、ウゥ……ッ!」
ラフィールは泣き崩れ、いくつもの涙を膝の上に落とした。
名前のないあの男をこの世界の法で裁くという決断のせいで、彼女はこうして巻き込まれてしまった。
その判断は間違いだったのかもしれない。
だが、あの時はそれが最善だと思った。
ソラには彼を私刑に処すことができなかった。自らの命を賭して救うと決めたジーノとエースのため、家族の記憶を失った彼女が最後に掴んだ愛のために、彼らに顔向けできないような自分で最期を迎えることはできなかった。
偽善だと罵られてもいい。卑怯者だとそしられようとも。
「ソラ。あれはキミだけのせいではない……。けれど──」
この結果を見てしまったのなら、ソラもまた自らの勝手を悔やむべきなのだろう。それは彼女の言葉を聞いて、手を貸したシリウスも同じだった。
どうしようもなかった……そんな言葉は余りに無責任だ。
シリウスはラフィールに寄り添い、軸で独り気を落としているであろうソラに心を寄せ、それでも涙ひとつこぼさない自分に……どこか安堵していた。




