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第2話 「天狼の星」

 世界は救われた。


 たった一人、異世界からやってきた女の献身によって。


 その奇跡の救済から十年が経った今、北限の村ソルテにも春が訪れようとしていた。雪は日毎に溶け、吹きつける寒風に比べて日差しも暖かさを増し、地面の所々に広がる水たまりには晴れやかな青空が映っていた。


 長かった冬が、また終わる。


 魔法術学会の会合から帰ってきたエースは久しぶりに村の祠を訪れていた。雪の滴がしたたる林道を進み、数年前に作り直した階段を上っていくと、急に開けた場所に出る。ぬかるむ雪に足をとられる父スランを支えながら、エースは先を歩いていた妹ジーノが立ち止まったのを合図に、自らも足を止めた。


 広場の奥には、大人が屈んで通れるくらいの穴が口を開ける洞窟があった。そこが目的の祠である。どの時間帯でも穴の中に光は入り込むことなく、黒い陰がその入り口に蓋をしていた。まるで人の進入を拒むように。


 実際、かつてはそこに「自然結界」と呼ばれる障壁があった。この世界の生命にあまねく宿る地水火風の四属魔力──その上位に当たる光陰二属のうち、光の魔力を使って形成されたその壁は、世界中で唯一人間だけを拒むように作られた「聖域」であった。


 しかし、今ではその結界も消えていた。つまり現在では、洞窟は誰でも自由に行き来することが可能であった。だが、天地を支える軸に座する神への信仰が厚いこの村では、今もって聖域と呼ばれたその場所へ進んで足を踏み入れようとする者はなく、洞窟の中は未だに未知の領域となっていた。


 そんな神秘の洞窟を前に、エースとジーノ、そしてスランはそれぞれの思いを胸に瞼を落とした。祠の向こうで繋がっていると信じられている軸へ──そこにいる神への祈りを捧げる。


 しんと静まり返った神聖なる土地にて、何人も冒しがたい尊き時間。木の枝から落ちる滴が太陽の光を反射して宝石のように輝き、地面へと落ちる。溶けかけの雪がそれを追いかけ、ドサリと……まるで誰かが地上に降り立ったかのような音を立てた。


 それを合図にエースたちは祈りを切り上げ、切なそうな笑みを浮かべた。


「戻りましょうか」


 そう言って、ジーノが背後のエースを振り向いた。兄妹は父を支えて教会へと戻る道を進み始める。すると不思議なことにその後ろ……祠の奥から、ヒタヒタと何かが歩いてくる音が聞こえた。春が近いとは言え、朝晩は冷える。森の動物が寒さを凌ぐための巣でも作っていたのだろうか? エースとジーノは互いに顔を見合わせ首を捻り、探るような視線を洞窟の中に向ける。


 音は次第に反響を失い、足音の主ももうすぐ出口までやってくる。


 そこに突然、カラカラと乾いた音が響いた。何かと思い洞窟の穴を注視していると、影の中からどこかで見たことのある杖が転がり出てきた。先端にはめ込まれた透明な鉱物は不自然に欠け、元の形から半分に割れてしまっているようだった。


「わっと、と……。ちょ、待って待って……」


 その杖を追いかけるようにして、もう二度と耳にすることはないと思っていた声が聞こえてくる。


「この声……それに、あの杖は私の……?」


「そんな、まさか……あれはあの時、俺の剣と一緒に──」


 エースの記憶が正しければ──いや、彼の記憶が過去を間違えることなどありえないのだが、それでも彼は目の前の光景を疑い、ジーノの言葉に首を振る。しかし、その推測を否定するかのように、その声は小さく笑って言った。


「そのまさかだよ。二人とも」


 洞窟の影から姿を現したのは白い髪の女だった。


 癖が強くうねる毛先の間から、珠の青い瞳が覗く。彼女は眠たそうな目をきょろきょろと動かし、気の抜けた表情を浮かべていた。


 左の袖が上腕の中程からゆったりと風になびく。


「ソラ、様……?」


 髪も瞳も元の色から変わってしまっていたが、彼女と別れたその瞬間を……昨日のことのように思い出せる。エースはよろめいたジーノの肩を支え、その人を見つめた。


 彼女は言う。


「え……あ、うーんと……。十年ぶりで何て言えばいいのか──」


 口調もそのまま、何も変わらずに。彼女は足下に転がる杖を拾い上げ、なぜか気まずそうにして言葉を続けた。


「元気にしてた?」


 それを聞くや否や、ジーノは飛び上がるようにして駆け出した。


「お帰りなさいませ! ソラ様!!」


 ジーノは落ち着きというものをかなぐり捨てて、両手を広げて彼女に抱きついた。エースもまた、一歩一歩を踏みしめながら妹の後を追い、その細い体に手が届くことを確かめながら、優しく彼女を抱きしめる。スランはそんな三人の姿を、涙をたたえて見守っていた。


 エースは驚きと喜びを織り交ぜて口角を上げ、こぼれてくる涙を拭いながら何度も頷いた。


「ソラ様……本当に、よくお戻りになられました……」


「うん。キミたちが元気そうでよかったよ」


 ソラはヘラリと笑って……その表情が少し堅いように思えるのは、彼女も再会に緊張しているからなのだろう。ソラはエースとジーノの頭に手をやって順番に優しく撫でると、寒さに震えるでもなく左腕をさすって言った。


「続きは教会へ行ってからにしない?」


「そうですね! 初めて出会った時のように、お体を冷やしてしまっては大変です」


 ジーノは口元に大きな笑みを描き、両手を合わせてソラの言葉に頷く。それはまるで十年前のあの日──十七歳の少女に戻ったかのような仕草で、ジーノはソラの手を引いてルンルンと歩き出した。その歩みにエースとスランが続く。


 スランはソラの後ろを歩きながら、その背中に語りかける。


「よくぞお戻りになられましたね、ソラ様。こうして再び(まみ)えようとは思ってもみませんでした」


「いや、なに……アー」


 ソラは祠の前の広場から林道へとつながる階段を下りながら、顔だけでスランを振り返り、


「──そうですね。私自身も、まさか帰ってこれるとは思っていなかったもので……ダメもとでのお願いだったのですが、叶ってよかったです」


「お願い、ですか?」


「まぁその……十年後も生きていたかったな、と。そういった思いをシリウスに伝えたら……」


「すみません、ソラ様。シリウスとは?」


「ああ、そっか。そうだった……。ジーノとエースは彼に青星のことを話してあるのかな?」


 ソラは兄妹に視線を向け、首を傾げる。その口調に若干の違和感を覚えたエースは彼女と鏡合わせに(・・・・・)頭を傾け、共通の記憶──同じ癖を持つ者として、訝しげに眉を寄せる。


 ジーノは階段を下りきったところで一度立ち止まり、そんなエースとソラを交互に見やって頭の上に疑問符を浮かべた。兄は時折、発言の意図を取り違えて間の抜けた反応をするが、今のやりとりに何か疑問に思うことがあっただろうか? ジーノは目をぱちくりとさせつつ、不自然に止まった会話を継ぐため、いつも通り相手の視線を自分に引きつけて話を続けた。


「東ノ国でユエさんからお聞きしたことは、お父様にも一通りお話ししてありますよ」


「そう? では、その青星というのが……私の居た世界ではシリウスとも呼ばれていまして。それを聞いた青星本人がその名で呼ぶよう私に言ったのです」


「青星様の元のお名前ではなく、ですか?」


 エースに支えられて一歩ずつ階段を下りてきたスランは途中で足を止め、不思議そうな顔をして素朴な疑問を口にした。それに対し、ソラはふと上空を見上げ、かつて地の軸が見えていた方向に視線を移して懐旧に目を細めた。


「……軸を作った際に、地上に未練を残さないよう名は捨てました。そうでなくても誰にも呼ばれず千年と経つうちに忘れてしまいましたよ──とか、何とか」


 彼女はまるで他人事を話すかのような口振りでそう言った。


 実際に他人の話なのでその口調は適切なのだが、エースはスランの横で半眼になってソラを見つめた。先ほどからどうにも彼女に対する奇妙な感覚が拭えない。その疑念を察知して、ソラは小さく咳払いをして教会への道を再び進み始めた。


「コホン。話を戻しますね。それで全てが終わる……いや、始まると言った方がいいのかな。そんな時に、シリウスに何か願い事はないかと聞かれまして。相談してみたところ、何とかして地上に再臨できる方法を探そうと言ってくれたんです」


「そして十年を経て、こうしてお戻りになられたと」


「ええ。十年後の地上に降り立つことでその願いを叶える……何だか屁理屈みたいに聞こえますが、そうでもして叶えないことにはシリウスの気が収まらないようだったので。ちょちょいとやってきたわけなのです」


 ソラはエースの視線が背中に刺さるのを感じながら、それを振り払うようにして軽い言葉で話を終わらせた。そんな彼女の横で、ジーノが忍び笑いを漏らす。


「ふふふ……」


「どうしたのかな?」


「ソラ様はとてもいい頃合いで戻ってきてくださいましたね」


「そうなんだ?」


「ええ。お兄様はちょうど王都の学会から戻ってこられたところでしたし、ケイ先生もセナさんもいますから」


「へぇ……あの二人が、今この村に?」


「そうなのですよ。あと、ソラ様にはミラも紹介しないといけませんね!」


「ミラ? 知らない名前だね」


「セナさんのお子さんです。私たちとお父様のように血はつながっていませんが、本当の親子のように仲がいいのですよ」


「そうか……。うん、それはいいことだ」


「はい」


 そうして彼女は妹と共に林道の終わりへと向かっていく。


 あと数歩で枝ばかりの林を抜けるところまできて、エースが立ち止まりその背中に声を掛けた。


「ソラ様」


「何かな?」


 振り向いた彼女にエースはキュッと目をつり上げ、スランを自身の背後に下がらせて半身に構えた。


 臨戦体勢とも取れる兄の姿にジーノはぎょっとして、ソラをかばうため二人の間に割って入った。ジーノの顔には困惑と焦りの表情があった。まるで、いつかの対立を再現したかのような構図……兄は何を思ってそれを繰り返すのか。突然の豹変ぶりに、彼女は不安を隠せなかった。


 かつての愚行を再び行うつもりなのか? 妹のその思いは実を言うとエースも同じだった。しかし、そうせざるを得ない。彼は自らの頭に記憶されている正確無比な過去の記録との相違により、目の前に立つ女を疑わざるを得なかった。


「ソラ様……いいや、違う。貴方はいったい……」


 あのとき(・・・・)腰に差していた剣はないが、人間一人なら素手でも拘束するくらいはできる。彼は返答次第で相手の身柄を取り押さえるつもりでいた。


「貴方は、誰なんですか?」


 そう問うたエースに彼女(ソラ)はやや驚いた顔をして、そして安堵したように微笑んだ。エースはその表情に油断せず、畏れ敬うべき存在を騙る相手に敵意を抱きながら、やおら身を低くする。


 その行動を諫めたのは、過去と同じくスランだった。


「待ちなさい、エース。どういうことなんだい?」


「どうもこうも……この方はソラ様じゃないんです」


「ソラ様じゃ……ない……?」


 その答えを聞いて愕然とするのはジーノも同じだった。彼女は後ろの何者かを振り向き、エースの言葉が間違いであることを期待するような視線を送った。


 しかし、その気持ちは裏切られる。


「エース……やはりキミを欺くのは難しかったようだね」


 懐かしき顔が他人の表情を浮かべる。


 白い髪に、青い目。


 元々は黒髪に褐色であったはずのそれを見ても「ソラ」であると認識していたその姿は、あれよあれよという間に見ず知らずの他人に変わっていく。その(さま)に顔を青くしながら、ジーノは一歩、また一歩と後退り、エースはそんな彼女の腕を引き寄せて父親と共に背中に隠した。

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