第19話 「記憶の移植」
「い、一級品の織物が……壷だってお気に入りだったのに……、窓なんて特注で作らせた模様入りの玻璃だったのよ……!?」
部屋の惨状を見ながら、ノーラは愕然としていた。机の下に隠れていたシリウスは顔だけをのぞかせて、
「何だかすまないね。とはいえ僕も襲われた被害者なわけだし、文句は襲撃した本人に言ってね?」
「分かってるわ……分かってる……。ええ……」
それでも、ノーラは騒動の原因となったらしいシリウスに恨みがましい目を向けた。シリウスはその視線を煩わしそうに払いのけ、エースの手を借りて立ち上がり、乱闘が決着した庭先を見た。
「そっちはどうなんだい、セナ。怪我はない? 何かすっごく……いい音がしたけど」
「ご心配どうもシリウス様。こっちは大丈夫です。ミラが助けてくれたんで」
「ミラが? 彼女は平気なの?」
「何ともないっスよ。上で東ノ国のお二人に保護されました」
「そう? ならよかった」
ウンウンと頷くシリウスの横を通り抜けて、エースが窓枠の破片を避けて外に出て行く。
「一体誰なんだ、この人……。セナは知ってる?」
「いんや、ちっとも。しっかし、こいつの身のこなし……こりゃ絶対に素人じゃないぜ」
「うん。何だかおかしいんだ。剣を差してる割に筋は拙いし、身のこなしも急に柔軟になったりで……」
「それもこれも、コイツの目が覚めたらの話ですね。博士、この女を拘束しておきたいんですが、魔封じの何か持ってません?」
「ないわよ、そんなもの」
「えぇ……。じゃあ紐か何かください。とりあえずふん縛っておくんで」
「分かった。持ってくるわ」
そこに、一階のテラスからナギとカエンが顔を出し、セナを心配してついてきたミラも姿を現す。セナは駆け寄ってくる娘を途中で制し、後ろのナギに視線をやった。
「そっちのお二方、何か魔法を制御できるような道具を持ってないですかね?」
「その方を捕らえておきたい、ということなのですか?」
「ええ」
「カエン。制禦術式を」
「承知いたしました、若様」
ナギの答えを聞いたカエンは袂から細長い符術布を取り出した。彼は気を失っている女の首にそれを巻き付け、術式を発動させる。
「あとは手足をしっかりと拘束していただければ、逃走の心配はないかと思います」
「ありがとうございます」
カエンが施した制禦術式とは、体内の魔力を常に一定量発散させ、対象に魔法を使うことができないようにするものだった。十年前にジーノがカエンから受けた暴徒制圧のための術式は魔力を根こそぎ奪うものであり、ジーノは意識を失って無力化されたわけだが、今回のものはその魔力をほんの少しだけ残しておくのである。主に罪人を勾留したり尋問する際に使われる術式で、相手の意識を保ったまま魔法による抵抗を封じる手段であった。
セナはノーラが持ってきてくれた紐で女の手足を縛り上げ、エースと一緒になって家の中に運び込む。ノーラはそれを嫌がったが、シリウス一行はやはり、女を憲兵に引き渡す前に聞いておきたいことがあった。
無論、当人の素性と襲撃の目的についてである。
セナとエースは女をダイニングまで運んでいって、遅れてノーラが持ち込んだ背もたれのない簡素な椅子に腰掛けさせた。壁に背を預け、その体が横に倒れないようにエースが肩を支える。セナは足の拘束を椅子の脚にくくりつけて、そうなると後は女の目が覚めるのを待つのみだった。
ジーノにミラの面倒を頼んで寝室へ戻してから数分。
くぐもったうなり声を上げて、女の頭が揺れる。
「お目覚めかな?」
などと言うと、シリウスはまるで自分の方が悪役のようだと思ったが、これ以外に声のかけようもないのでそう言った。女は彼の声に気づいて暴れ出そうとしたが、そこは両サイドに控えていたエースとセナが押さえ込んだ。
シリウスは立ったまま彼女と一定の距離を保ち、青白い瞳を向けて問う。
「悪いけれど、僕はキミのことを知らない。こうして恨まれるような覚えもないのだけれど、そんなキミは一体誰だい?」
「私の……わたし、ぼく……の、……名前は……」
女は一人であるのに、誰かと会話をするように「黙っていろ」「やめろ」だのと呟いていた。彼女の頭の中では、廃墟に住み着いた少年が「自分こそ名乗りを上げる」と躍起になっていた。
やがて、諦めたように肩を落とし、彼女はうつむきながら言葉をこぼした。
「──名乗る名前はない。名前がないんだよ、僕には」
「では何と呼べばいいのかな? どうあれ話をするには呼び名が必要だろう?」
「名無し」
「何だって?」
「ナナシと呼べばいい。それでお前らには分かるんじゃないか?」
「キミは……」
シリウスを見上げる女。その顔は彼女が目覚めた時とは別物に見えた。まるで生気がなく、泥のように濁った瞳。濃い隈に縁取られた下瞼、鋭く凶悪につり上げられた口元……見覚えのある表情がそこにあった。
「僕はナナシ。そしてジョン・ドゥ。お前に見捨てられ、処刑された……かわいそうな子どもだよ……」
彼女はまさにその男の顔をしてニタリとした。
まさかその名前を聞こうとは……愕然とする一同の中で、いち早く我に返ったエースが横から問いつめる。
「その二人は死罪となった。だいたい、何でそれらの名前をキミ一人が同時に口にするんだ? 子どもというのも間違って──」
「っるせーなァ」
彼はエースの言葉を遮り、正面のシリウスを睨みつけて言う。
「そこの兄ちゃんが言ったとおり、僕は死んだ……。そしてお前も死んだはずだ。僕が殺したんだ。なのに何で生きてる? どうしてここにいる!?」
「それはこっちの台詞なんだけどなぁ」
シリウスは彼の視線を意に介さず、あくまで冷静に、冷徹な目をして見下ろした。
「この見た目で説得力はないかもだけど、僕はソラではなくてね……」
「じゃあ誰だってんだ!?」
「地の果てで会っただろう? キミはあの時、世界を壊して僕を救ってくれようとしたじゃないか」
「お前、あそこにいたガキか……?」
「そう。今はソラの姿を借りて地上に下りてきている。だからこんな格好なんだよ」
シリウスは名乗らずに先を続ける。
「さて、名前のないキミたち。なぜその姿で、ここにいるのか。教えてもらおうか?」
回りくどいのは苦手だと、彼は肩をすくめて言う。
それは相手にしても同じなようで、彼は今一度うつむくと、肩を震わせて小さく笑い出した。
「ねぇ、オニーチャン」
それはまるで少女の声で、彼女は無垢な金色の瞳を部屋の明かりに輝かせ、エースに向かって口を開いた。
「あのとき、そこのオネーチャンのまりょくをかりて、まほうをつかったオニーチャンなら。ぼくがやったこと、そうぞう、つくんじゃない?」
「あの時……魔力を借りた……? カシュニーでのことか?」
「そうそう~」
正しく記憶をさかのぼったエースを褒めるようにして、彼女は表情をほころばせる。
「まさか、キミは……」
「そのとーり。きおくを、うつしたの」
「……」
「やりかたはおんなじ。ただ、まりょくをきょうゆうさせた。それだけ──」
「馬鹿言うな!」
声を荒げたのはセナだった。
「第一騎兵隊の連中に拘束されてからお前……は、ずっと魔封じの腕輪を装着していたはずだ。そんな……自分の魔力や、他人のそれを操るなんてことができるわけない!」
「あんなの。まふうじのうでわ、なんて。ぼくには、こどもだまし」
「何だって……!?」
「ずいぶんじかんが、かかっちゃったけど。かいせき、できた。だからうちがわから、こわせた」
魔封じの腕輪……それは今の彼女が施されている東ノ国の術式と異なり、魔力を発散させて奪うものではなかった。ただ魔法としての放出を阻害するだけのもので、つまり体内の魔力は減ることなく本人が所持していることになる。
だからといってそう易々と、装着した内側から壊すことはできないはずだ。
そのはずなのだが、魔鉱石を介さずに魔法を使える彼女にとっては、時間はかかっても不可能ではなかったのだろう。
「それできおくをこのオネーサンにうつして……ううん、そのまえに、いちどだけ僕にあって、さきに、僕のきおくをもらっておいたんだ」
ジョンが魔封じの腕輪を無力化した段階で、ナナシは既に人格が破綻していた。否、軸の座から地上に戻されて、「もう一人の自分」を見た瞬間にその心は壊れてしまった。名前のない自分は何者なのか、目の前のジョンは本当にナナシなのか……自分は果たして彼女なのか……同じ人格を持つ自分が二人いる……現実にはあり得ない真実の食い違いに、彼は廃人同然になった。
「ななはもう、だめだった。かわいそうに……。だから、ぼくがきおくをもっていって、いっしょにいてあげようって。おもったの」
一方で、少女は「氏名不明者」としての自己を保っていた。彼女の場合、自我を得たその瞬間から自分とナナシとがいる状況が当たり前だったため、同じ人格を持つ自分と他人がいる現実を受け入れることができたのだった。
だからジョンは最期に一目、彼に会いたいと言って……全てを諦めたしおらしい、かわいそうな子どもを装って面会をねだり、ナナシの中に残っていた記憶を全てもらい受けた。
「そして、ぼくのきおくといっしょに、僕の記憶もこの女……ラフィールだっけか? それに移したんだよ。これで僕らは死んだ後も一緒ってわけ。簡単だろ?」
そうして二人の記憶は「記憶」のままとしてではなく、それぞれの人格としてラフィールの中に定着してしまったのだった。
「何てことを……」
エースのみならず、皆が驚愕と軽蔑の表情を浮かべる。そんな中、ただ一人シリウスだけは……ただただ呆れた風にしてため息をついた。
「まったく非常識極まるね。そんなこと考えたとしても、実際にやってみようなんて思わないだろう、普通」
「ハハッ! いったじゃん……ただじゃしなないって」
内面に激しい感情を抱えながら、声色だけは優しく……彼女は言う。シリウスは「ナナシ」と「ジョン」が「ラフィール」という女の姿でその名を名乗ったわけに納得し、次の疑問を口にする。
「なぜ、僕──いや、ソラを狙った?」
「そんなの! お前のことが憎かったからだ。ずっとずっとムカついてたんだよ……何もかも台無しにしやがって。最初に裏切ったのはお前のくせに!」
「彼女が、キミを裏切った……?」
「お前が! 手を……!! 一度は伸ばしたくせに! 引っ込めたじゃないか!!」
ナナシが言っているのは、おそらくカシュニーで初めて対峙した時のことだ。ソラはあそこで確かに、一度だけナナシに手を伸ばした。ジョンと記憶を共有したことをきっかけに混乱していた認識を正常に戻し、彼が彼自身として、差し出した手を掴んでくれることを期待して……。
しかし、ナナシはそれを掴めなかった。
彼は自分の母とジョンのそれとを混同し、本来であれば見ず知らずの女を「オカーサン」と呼んだのだ。その狂気──自身の目を持ちながら他人の視線で世界を見る……完全に正体を失った彼の目を見てソラは恐怖を覚え、思わず手を引き下げてしまったのだ。
「だから僕はこうなったんだ! こうなってしまった! お前が助けてくれなかったから!!」
「それは──!」
とっさに、エースはシリウスとナナシの間に割り込み、その肩を強く握って怒鳴った。
「それはソラ様のせいじゃない!! カシュニーで会った時点で既に多くの人を殺めていたお前を……それを助けろだなんて! そんな……、何でお前はそんなことが言えるんだ!?」
「うるさい! うるさいうるさい! あいつが悪いんだよ全部!! 見て見ぬふりしやがって!! 卑怯者め! この偽善者が!!」
それはまさしく、不満を訴えて泣き叫ぶ子どもだった。その勢いに押されて、エースは一歩下がって自らを振り返る。
頭の中でナナシの言葉がこだましていた。
見て見ぬ振りをした。
過去のエースはそんな不満を覚えたことはなかったが、なぜ誰も自分の苦しい気持ちに気づいてくれないのかと考えたことはあった。そうやって小さな疑問が積もり積もっていったら、それらが解決されずにずっと放っておかれたら……寂しい気持ちはやがて怒りに変わるのだろう。
自分の苦境を理解していなかった……父や師、妹、村の人々、知りもしないこの世界の誰かに対してさえ、「どうして救ってくれなかった」と、怒りがこみ上げて仕方がない。
エースは思う。もし、自分も彼と同じ思考に陥っていたら……恐ろしい。おぞましく、気持ちが悪い。
その怒りが理解できてしまうかもしれない自分に吐き気がして、エースは口元を押さえてうずくまった。




