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第11話 「荒廃」

 今日もまた、少年少女のけたたましい笑い声で目が覚めた。それは外を行き交う子どもの声ではなく、頭の中に響く幻聴であった。


 姿は見えず、ただ気配と声だけがある。


 ラフィールは瞼を痙攣させながら起き上がり、雨垂れで白く濁った窓から差し込む朝日に舌打ちをした。全てを照らし出す白き光……それから逃げるようにして洗面場へと向かった彼女の脳裏によぎるのは、極寒の白銀だった。目の前に置かれたすり鉢状の洗面陶器。金物の蛇口から流れ落ちる水は底の穴に吸い込まれて管を下り……ラフィールはその流れに巻き込まれて溺れたような気分になり、はっと顔を上げた。


 正面の鏡に映ったのは自分か、他人か。


 男のように短く切りそろえた赤毛。うっすらとそばかすが浮いた白い肌。以前よりも細くなった首に、筋肉が薄くなった体。金色の瞳が収まる目の縁には濃い隈が染み着いていた。


 以前はもっと肉付きがよく、それでも女であることを意識し、まともな見た目をしていた気がする。


 ラフィールはやや痩け気味の頬を四本の指でべったりと撫で、脂気が移った指の感覚に不快感を露わにした。彼女は洗面器に頭を突っ込むようにして顔を洗い、水気を拭けばそのまま布巾を放り投げて寝室へと戻った。寝台の縁に掛けてあった一昨日の服を着て、ほとんどなまくらに成り下がっている剣を腰に差し、そこでぐぅと鳴った腹に顔をしかめる。床に直置きの木箱の中から赤々と艶めく林檎を一つ取り上げ、彼女はそれにかじり付きながら部屋を出た。


 向かう先は都きっての資産家の邸宅だっ。まっとうとは言えない金を扱うその家は、顔も分からぬ誰かに恨まれる覚えがあるらしく、警備人は多いほどいいと言うことで、ラフィールのような騎士崩れの浮浪者まで雇っているのだった。敷地の中には入らないことを条件に、高い鉄柵と生け垣に囲まれた外を執念深く見て回るのが主な仕事である。


 彼女は柵の間から雇い主家族の日常を盗み見る。親の悪事などまるで知りもしない子どもが甲高い声を上げ無邪気に笑っている。


 ラフィールはそういった光景に反吐が出る思いだった。その家の御令嬢は時折、敷地の外に見かけるラフィールの姿を物珍しそうに眺めていた。騎士でもない女が警備の仕事に就くなどそうあることではない。だから令嬢は家族や使用人の制止も聞かずにラフィールの元へ駆けてきて、彼女の嫌悪など知りもせずに話しかけてくることがあった。


 家業はどうであれ、満たされた家庭で不自由なく暮らす子ども……ラフィールは令嬢と目を合わせず、「はい」か「いいえ」で答えられる話にしか応じなかった。これが日々を生きていくための金策でなければ、彼女は子ども相手に剣を抜いて威嚇し、悪夢に見るような恐怖を与えて追い払っていたことだろう。そんな大人げない振る舞いをするほどに、彼女は全てを憎んでいた。


 原因も分からぬ怒りに耐えていた。


 なけなしの理性でかろうじて人としての矜持を保っているが、いつか何かのきっかけで、それこそほんの些細なことが引き金となり、自分は今しがみついている崖の縁から落ちて、クソの掃き溜めに埋もれていくのではないか。ラフィールは頭の中の廃墟で一人膝を抱えていた。


 今日も今日とて苦痛しかない仕事が終わり、彼女は華やかな都の中でも寂れた一角へと戻る。その途中で金を無心する無頼の男に因縁を付けられ、彼女は腰の剣を鞘ごと抜いてその者を滅多やたらに打ちすえた。肉が崩れ、骨が砕け、血達磨の男が小さくなって震え始めたところで、ラフィールはふと我に返り鞘を納めた。


 最後に腹を一つ蹴飛ばし、唾を吐き捨て、いよいよ住処へと帰り着く。


 ラフィールは洗面器に両腕をついて前のめりになると、数回咳をした後に胃液を吐いた。


 吐き気がする。


 反吐が出る。


 何もかもが気持ち悪い。


 忌まわしい。


 他人の人生も、自分の人生も。


 笑顔が。泣き顔が。


 母を呼ぶ声、父を呼ぶ声。


 慈しみの言葉、激しい叱咤、怒声、悲鳴、


 物が壊れる音、湿った足音、振り上げられた拳、


 鞭を打つ手、醜く弧を描く口元、


 差し伸べられない手。


 一度は差し伸べた手をいとも簡単に引っ込めた──、あの女。


 最後の最後に全てを台無しにしてくれたクソッタレ。


 あの時(・・・)の腐った血の臭いを覚えている。


「……」


 あの時とは、いつだったか?


 ひとしきり嘔吐したラフィールは口を水で濯ぐと、朝と同じような顔つきになって布団に入った。頭の中の廃墟に入っていって、本来の「自己」を大事に抱え、朽ちた部屋の隅に座り込む。


 廃墟を縦横無尽に駆け回る少年たちが、それを頭の上から覗き込んだ。彼らはまるで自分のことのようにラフィールを心配し、甘く優しい言葉を掛ける。ラフィールはその声に耳を塞いだ。


 何も聞こえはしない。


 ひとたび目を開ければ曖昧になる自分を抱き抱えて、我が子を守るようにして彼女は歯を食いしばる。


 何も憎いことはなかった。


 幸せだった。


 こんな怒りはなかった。


 全ては順調だった。


「……」


 いつ、自分は転がり落ちてしまったのだろう?


 ラフィールは憤怒に塗りつぶされている記憶の中から過去のある出来事を思い出す。


 そう。「いつ」こんなことになったのかは、明白だった。


 あの時──、父親を刺し殺した時……。違う。


 あの時──、ゴミ溜めで自我に目覚めた時……。違う。


 あの時──、オカーサンに見捨てられた時……。違う。


 あの時──、北の地の果てで屈辱を味わった時……。違う、違う。


 そのどれもが違う。


 ラフィールが道を外れたのはその後……。


 悪鬼「宿借り」、ジョン・ドゥの看守を務めたあの時に間違いなかった。

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