第1話 「死に至る」
彼女は廃屋の中で目覚める。
無音の中でかすかに聞こえる甲高い雑音、その陰で耳鳴りのように笑う少年少女の声。その二人は、もう十年近くも前から彼女と共にあった。朽ちた天井を走り回り、埃だらけの床を這って。二人は彼女の足首に腕を絡ませ、愛しげな表情を浮かべて憤怒を囁く。
自分のものではない感情に蝕まれ、精神が疲弊していく。
すると彼女の住処はいっそう傷み、耳に聞こえるどこかの──目には見えない何処かの壁が崩れる音がした。
次第に壊れていく。
境界がなくなっていく。
全てが他人になる。
無論、これは現実ではなく心象の風景である。
そんな閉塞感が漂う悪夢を見たラフィールは、ひどく顔を歪めて目覚める。
所々が黒く変色した板天井を見上げ、眩しく輝く日の光を睨みつけ、舌打ちをする。彼女は使い古して薄くなった寝具を押しのけて、軋みが酷い床を歩き、隈で縁取られた金色の目を鏡に映して顔をしかめた。
太陽と同じ黄金色のこの目が憎らしい。
あの日に最期を迎えた少女と同じ瞳が忌まわしい。
洗面台に両手をついてうなだれ、深いため息をついた彼女はやがて顔を洗い、寝癖でくしゃくしゃの赤毛を手櫛で整え、襟元がよれた服を着て寂れた宿を出る。彼女は腰に安物の剣を差していた。これから向かう、先の見えないその場しのぎの労働にはそれが欠かせなかった。
柄に手を添えると、かつて鳴らした精悍な剣のかち合いが思い出された。
彼女は満たされた家庭で育った。温かな食事と寝所、心優しい家族、十分に行き届いた教育、心の置けない友、前途有望な仕官先……そういったものに恵まれ、希望溢れる未来へ向かって邁進していた。
そんな彼女がいかにしてその立場をなくし、それまでの人柄を裏返したかのような性格に変貌し、心身をすり減らしたのか。
きっかけとなったのは、とある少女の監督任務だった。牢獄でうごめく悪意の塊、その看守となったことが全ての始まりであり、終わりであった。
少女の白い手首には、くり抜いた目玉のような石をはめ込んだ腕輪が通されていた。台座の裏側に小さな亀裂が生じたそれをはめたまま、少女は小さな手を伸ばしてラフィールの額に触れる。その表情は、まるでこれまでの罪を悔い懺悔を求めるかのような痛ましいものだった。
「ぼくたちを、おねがい。ね……」
少女はそう言うと、一転して邪悪な笑みを浮かべ、狂乱の過去をラフィールに分け与えた。
その後だ。彼女の精神は一つの感情に支配されるようになった。
怒り。
言い表しようのないその思いは彼女を暴虐へと走らせ、周囲からの信頼を失い、帰る家もなくし、全ての縁が断ち切れた。そうして彼女は各地で職を転々とした。最近では資産家の用心棒などをやっていた。心すさんだ彼女は和やかな家庭の雰囲気に中てられ、反吐が出る思いで剣を鞘に押しとどめていた。
なぜ、こんなにも腹が立つのか。
全てが憎らしく、やるせなく、悔しさにも似た思いを味わうのか。
かろうじて理性をつなぐ彼女は憤懣の中で自らにそう問いながら、答えが出ない限りは剣を抜くことはできないと戒める。
そんな風にして、彼女は日々を過ごしている。
白髪の少女と黒髪の少年を頭の廃墟に住まわせながら──。