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その日ではないあの日のこと (転校前)

作者: 六月


僕が今いる学校に転校する前に通っていた学校のことを出来るだけ思い出そうとしているけど、あまり思い出すことができずにいる。特別あそこに思い入れなんかなくて、一年と少しはいたのだけれど、唯一無二の親友ができたわけでもなければ、壮絶ないじめも経験しなかった。教室の中でただ黙って机に座って、時間が過ぎるのを待っていた覚えがある。だからか、今となっては、音楽室がどこにあっただとか、先生や同級生の顔もぼんやりとしている。

そんな場所のことを僕に思い浮かばせた、すごく青い海とそこで遊んでいる人達はとっくに過ぎてしまって、気付いた時には代わりに古い民家が並んでる暗い路地に入っていた。

「もうお店は近くなんですか?」長い間続いていた沈黙と退屈に僕のほうが耐えかねて、声をかけた。学校での生活とか、仕事?は辛くないかとか趣味とか、話題にすることは全て出し尽くしてしまって、しかもその全てに僕が間違った態度で答えて潰してしまったから、もうこういう素朴な疑問しか口に出せなかった。言い終えたとき、少しぶっきらぼうに言い放ったように見えてしまって、まずいなと思った。

「もう近くのはずなんだけどなぁ、ごめんね。大丈夫、もうすぐ着くから」

失礼だけど、特にその言葉から何かこの状況を打破するものが見つからないなと思ったから、僕はまた自分の頭の中に潜っていった。

とりあえずまたあの学校についてのいろいろなことを思い出してみる。かたまって話をする女子、顔が脂ぎっていてニキビだらけだったクラスのリーダー、国語教師の汚すぎる筆跡など、執念深く探してみれば意外にもたくさん見つかった。その一つ一つに、その中にある出来事に対して自分が持つ感情が商品のラベルのように貼り付けられていて、僕は親しみを持ちながらそれらを手に取ってじっくりとそれを眺め続けようとしたのだけれど、その行為をやり始めて何分か経った後、やっぱりそれらの思い出が僕にとって何ら懐かしさを覚えるものではないことに気づいてしまった。またあの苦痛な空間に引き戻されるのが怖くなり、必死になって何とかそこにある感情を読み取ろうとした。無駄だった。昔捨てたごみをわざわざ引っ張り出しきても、ごみでしかなかった。それでも諦めることができずにそのごみたちを漁っていたら、その中に僕がラベルを付け忘れていたであろうものが一つ出てきた。ぼくはそれが妙に気にかかった。抱いている感情もないから、それ自体大した出来事ではないのだけれど、その何もなさが少し面白いと思った。僕はそれと真正面から向かい合ってもうすこしじっと見つめてみようとした。

僕が2年生になってすぐの頃、クラスが変わったからといって生徒のみんなの前で自己紹介をする時間があった。自分なんてそんなに取り柄がない人間だとは自覚しているけど、地味な人間だと思われて場が冷めてしまうのも嫌だから、大抵こういう時に僕は楽器が多少弾けることをある程度の反応がもらえる保険というか武器のような感じで話すようにしている。その時もそうしてある程度の反応がもらえたので、安心して机に戻ると、前の席に座っていた男子が僕の方へ振り返っていきなり話しかけてきた。何か僕の楽器が弾けるのを僕の見た目からは想像できないと驚きをもって言っていたような気がする。僕は容易に忘れてもらえる程度に興味を持ってもらえるものとして楽器が弾けることを話していたから、こんなに反応を示されるとは思わなくて困ってしまった。僕はありがとうと一言言ってその場を済ませようかと思った途端、その子はこちらが頼んでもいないのに自分の話をしだした。僕はそれを聞くことにした。

その子はいきなり自分に母親がいないことを告げた。初対面の人間に最初の話題として普通にそんなことを告げたことに面食らって、僕は一瞬何が起きたのか分からなかったし、その子や告げられたことにどんな顔をすればいいのかも分からなった。変な顔になっていた気がする。あと、母親がいないのは僕も同じだったから、僕とおんなじだ、僕と同じような人なのかな、と思ったりもした。同情の気持ちなんかは湧かなかった。その子はとっくにその話題について話し終えていて、気づいたらもうその子が部活でやっているバスケのことについて熱弁していた。出張先だった海外での事故で亡くなったという彼のお母さんのことを僕だけが引きずっているように感じて、何だか恥ずかしかった。彼はバスケについて、遠いところからシュートをした瞬間の浮いている感じが好きだと言った。いつもそのみじかい時間に色んなことを考えているらしい。こんなふうにいちいち耳に残る言葉が彼の口から発せられるので、僕はいつものように聞き流すことができなかった。そのあとも彼は有名な海外の選手やルールについて説明してきてくれた熱量の方が先走ってしまっているからか、あまりわかりやすくはなかった。僕はだんだん彼と話がしたくなった。人に対してそんな思いを持つことは思い返してみればあんまりなくて、少し自分にびっくりしたのだけれど、そんなびっくりさえもすぐに頭の中から過ぎ去ってしまうように彼への関心がどんどん強くなった。僕に彼のことを知ってもらいたい。それと同じくらい、彼に僕のことを知ってもらいたかった。

そうして彼に自分の話をしようと心に決めた瞬間、彼の名前が先生に呼ばれ、彼が自己紹介をする番になった。そのとき聞いた彼の名前は、なんとも風変わりな気がした。

「ごめん、また後でこの話の続き言うから。」

と言って、彼はそのまま走って教壇の上に立ち、はきはきと自己紹介をしていた。


 なんでこんなことを忘れていたのだろう。全然大したことない出来事なんかじゃなかった。だからこそ、この記憶に感情がついていないのが不思議だった。すこし考えてみる。あの時僕が彼に対して感じたのは、少なくとも羨望なんかではなかったはずだ。そうやって自分が持ち合わせている感情を除外していくと、どうにもぴったりなものは見つからなかった。一番近いのは「熱狂」だった。たぶん、その時の僕も今の僕と同じように彼に対して持つべき感情がなかったんじゃなくて、分からなかったのだろうと思う。だからラベルもつけずにごみとしてとしてほかの思い出たちと一緒に捨てたんじゃないか。答えはもう出ている気がする気がする。ただ僕がそれを理解しようとしていないだけだと思う。もう一度彼の姿を思い出してみた。話をしている時にしたシュートの動きとか。波のようにしなる腕の動き。

あ、そうか。

この思い出に貼るべき感情が分かった。


結局、行くはずだったお店は潰れていて、帰っている最中も必死に謝られたけれど、もうそんなことはどうでもよくて、いまはただひたすら自分から喜びが溢れ出ている感じだ。だいぶ前から僕は自分自身を肯定されていた。それがただただ嬉しい。そういえば今日思い出しとこの思い出以外に、彼に関する記憶は見つけられなかった。あの後彼と僕はどんな話をしたんだろう。彼は今どこで何をしているんだろうか。でも、そんなこと別に知らなくてもいいかな、と思った。この感情に出会えたことは、彼と再び出会えたことと同じだ。窓の外はもう何も見えないくらい暗くなっていて、遠くの方に僕らが住んでいる街が光り続けているのが見えた。この思いを自分の生活に持って帰ろうと思っている。消えないように、失くなってしまわないように。


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