01
「この書類、ここに印鑑おしてー」
差し出された書類を見て、不備があったことに気づく。
ああ、流れ作業しちゃったからか、と別のことを考えて作業していた少し前の自分を思い出す。
「ああああ、すまん・・・・すぐやる」
渡された書類を受け取り、がくんと頭をデスクにぶつけた。
「最近、疲れてる?気晴らしに飲みいく?」
眼の前で麗しい顔をしている年下の上司様。
同僚、というよりも仲間としての時期が長かった分、上司と部下という関係になってから半年をゆうに超えても、未だに距離がわからない。
評価される側と評価する側。
どこか自分で勝手にラインを引いてしまっていた。
そして静かに鍵をかけた。仲間の時期に動かなかった自分が悪い。
というよりも、吐きそうになるくらい忙しかったあのプロジェクトが悪い。
おかげさまで、ストレスに鈍くなり体を壊してオペ室のお世話になり、未だに定期的に病院通いしてるくらいだ。
「・・・ダイジョブ。ありがと。」
「そう?」
「うん。だいじょぶ。」
「さーちゃんのだいじょぶは当てにならんからなー!」
あははと笑いながら自席に戻って行く彼の背中から視線をずらし、手元の書類に目を向ける。
会社支給のデイト印の日付を直して、ぺたんと押す。
こんなふうに、自分の気持ちが印付けられたらどんなに楽だろうと、微かに思いながら。
「もぅ・・」
日付を直すときにどうしても手につく赤いインク。
なかなか取れないそれに、眉間を寄せながら、書類を渡しに行く。
「今日、17時でフレックスするから」
「病院?」
「うん、いつものやつ」
「りょーかーい」
「あとでallにメールしておく」
「はいよーよろしくー」
軽い会話も、最近ようやくできるようになった。
難しいもんだな、とため息を付きながら自席に戻る。
その背中を彼に見られていたなんて、気づくこともなく。
*****
「51番の方ー診察室2番どうぞー」
マイク越しに手元の番号が呼ばれ、重い腰を上げて診察室へ向かう。
いつも思うけどなんでこのドアこんなに重いんだろうか。
骨折とかしてたら開けられなくない?なんてどうでもいいことを考えながら。
「こんにちわー。」
重いドアを開けながら中の人に声を掛ける。
まず目に入るのは、いつもいるめっちゃ美人だけどめっちゃドSな看護師、吉澤さん(年齢不詳)。
にっこり笑って会釈してくれる。
それに返して目線を移すとその先にはまた美形で声がドタイプのドSな医師、半沢先生。
「お、来たな」
にっこり笑って椅子をくるりと回す。
黒のスクラブの上に白衣をバサッと羽織る感じ。
「あー今日手術だったんっすねー。」
「おー」
荷物をドア近くのかごにおいて、丸椅子に座る。
「さて、検査結果みたところ、数値がちょっと気になるんだよなー。また無理してんだろ」
結果が記載されている電子カルテと詳細が書かれた紙を見ながらジト目で見られる。
「いやぁー?」
明後日の方向を向いてとぼけてみるけど、数字に出ちゃってるんだから誤魔化しようがない。
なんだって数字っていうのは正しいっていう定義になるんだかわからん。
「お前なぁ・・・。また入院したいの?俺に切り刻まれたいの?」
「でも先生に切り刻まれたおかげで多忙なプロジェクトは見直されて、かつ私も穏便に異動できたわけですよー」
「そうか」
「まあ会社がそこそこフリーブラックなので、基本変わらないんですけどねー」
「フリーブラック?」
「社員全員がナチュラル社畜」
「ナチュラル社畜?」
「自覚なしってこと」
「だめだろそれ」
「ねぇ?」
「ってお前もか!このおバカ!」
まったく、とテンポいい会話をして突っ込まれ。
「んーでも仕事が面白いっていうのも拍車をかけるのかもしれないなぁって最近思うんですよ」
でも事実、うちの会社はみんな楽しそうに仕事をしている。
適材適所をしっかりと見極めてくれる上司や人事・労務が優秀だからだろう。
いや優秀だったらこんな事になってないのか・・?
「そうか。でもどっかでブレーキをかけるなりなんなりコントロールできないと、また運ばれてくることになるんだぞ?」
いや、そんな簡単にいうけども。そううまくできたら問屋は卸さないわけですよ。
「・・・はーい」
「わかってねえな」
「ソンナコトナイデスヨ?」
だめな患者だとは理解してる。
会社で倒れて起きたら天井が変わってた。
救急車に乗ってこの病院に運ばれて、夜間救急で緊急オペ。
自分でもこの胸の痛みはなんかやばいかもなとか、なんとなくわかってた。
でもどうしても抜けられなかった。
あのとき、少しでも自分自身の悲鳴を聞いてあげれてたらと後悔してる。
後を悔いるで後悔。どうしようもないってわかってるけど。
「とりあえず、禁煙続いてるんで、褒めてください」
「それ、ドヤ顔で言うことじゃないからな。あたり前のことだからな?」
わかってんのかお前は、って言葉が続きそうな顔で言われる。
「今回は軽度だったからまだ間に合ったものの・・・」
首からかかってる黒の聴診器に手を伸ばしたのを見て、胸元のボタンを外していく。
目線の先にはまだケロイド状の痕が見える。
男性の大きな、でも器用そうな手のひらで暖められたそれを当てられる。
小さい頃から、思ってることも聞かれるんじゃないかと、思ってしまう。
ないはずなのにね。
「心の声も聞ければいいんだがなぁ。こいつは呼吸音とか鼓動とかしか聞こえないんだわ」
思わず驚愕した顔で先生を見ると、残念だな、って苦笑いをされる。
「康介に聞いた」
「ああ・・・元気してますか?あの人」
「なんだ、お前ら会ってないのか」
「全然。会う必要性もないですし」
「兄貴だろう?」
「遺伝子学と戸籍上はそうだと思います」
「相変わらずだなぁ」
「仲が悪いわけじゃないんですけどねぇ」
「まあ、あいつらのお前の可愛がり方は異常だからな」
名前が出てくるだけでどっと疲れが出るのは双子の兄の一人で半沢先生と同じ医師を生業としている康介。
まああの人は小児科なので、顔を合わせることもない。
と、おもってたら
「半沢ー紗絢きてるー?」
「げっ」
「お、いたいた!」
診療室の入り口とは違う、奥側のカーテンから顔を出したのは噂の兄だった。
そしてもう一つ同じ顔の兄、健介も。
「なんで二人・・・」
全くしょうがないと、ため息を付きながら少し急ぎ目にボタンを締めていく。
この二人に手術痕は、あまり見せたくない。
「もう終わる?」
「あと採血だけだな」
「じゃ、ここで待つかな」
よいしょ、と診察室にある簡易ベッドに腰掛ける違う色のスクラブを着た兄たちを見て、思わずため息をつく。
「あにぃ達は暇なの?医者なのに暇なの?」
「ちょっと健介きいた?さあちゃんが俺らのことに興味示してるよ!」
「康介、とりあえず落ち着け。紗絢がかわいいのはわかってることだから」
「・・・暇なのね」
康兄は小児科医、健兄は救急医としてそれなりに忙しいはずなんだけど、今日は平和なのかな・・・なんて思ってたら、案の定健兄は呼び出しを食らって悔しそうに飛び出していった。
「しかしホントお前の血管は細いし出てこないしツンデレだしなんなんだよ」
吉澤さんから半沢先生にバトンタッチされた採血リレー。
これも毎度のことなので、最初っから半沢先生がやればいいのにっていつも思うけど、なんかルールがあるんでしょうかね?毎度このセリフを言われてる気がする。
「さあちゃんのそれはばーちゃんのと一緒なんだよなぁ。ばーちゃんもライン取りづらくて大変って言ってた」
先月まで骨折でこの病院に入院していた祖母を思い出す。
「あにぃ達とはちがって繊細なの」
「間違いないな!それ!」
「すごい嬉しそうに言うことじゃないし、そこ否定してほしいところなんだけど」
「すごい久しぶりに会ったのにさあちゃんが冷たいんだけど、半沢!」
「はいはい、お前今日当直だろ。さっさと医局戻れ」
2本目の採血が終わって、後処置をしながら「これ検査回しといて」と吉澤さんに指示をだす半沢先生。
「半沢まで冷たい・・・吉ざわさ・・・はい、戻ります」
助けを求めた吉澤さんに絶対零度の笑顔を向けられた康兄は、名残惜しそうに消えていった。
「さて、今日はこれでおしまい。次はちょっと早いけど来週どっか来てほしいんだが」
「採血の結果?」
「ああ、流石にあの数値は見過ごせないからな」
「それなら水曜の同じ時間がいいけど、先生いる?」
「ああ、いる。奇跡的に空いてる。じゃ、水曜のこの時間に予約しとくから、会計したとき予約表もらっといて」
「了解」
「・・・はい、これで終わり。よし、飯行くぞ」
「は?」
「ん?長丁場の手術だったから腹減ってんの。ちょっと付き合え」
「えー面倒。吉澤さん誘えばいいじゃん」
「私、今日夜勤なんです」
矛先を変えようとしたのだが、器具を整理しながら笑顔でバッサリ断られてしまった。
あれ絶対夜勤じゃない・・・。
「なんだろうこの人柱感・・・」
「あ?なんか言ったか?」
「いーえ、なんでも」
「じゃ、会計済んだら入り口のロビーで時間つぶしてて。カルテ整理してすぐ行く」
会計を済ませ、ロビーで会社支給のタブレットを開く。
飛び交っているメールを片っ端から開いて片付けて閉じてと繰り返していると、上から影が降ってきた。
「まーた仕事してる」
眼の前にはラフな格好なはずなのに、あれさっき目にした雑誌のモデルさんですか?って聞きたくなるくらいのイケメンがいた。
「はいはいすいませんでした。で、何食べるんですか?」
「寿司くいたい」
「ごちそうさまです!」
思わず食いつくと、はいはい、と苦笑いし、顎で行くぞと入り口を示される。
なんだろうなぁ、この人なんでやることなすことかっこいんだろうか。
ロビーに居る見舞いの人たちとか、診察終わった入院患者さんとか、目で追ってますけど。
隣りにいるのが私ですいませんってなんか謝りたくなる。
担当医!この人私の主治医!って言えたらいいんですけどねぇ。
少し先を行く先生の背中をじっと見ながら、後をついていった。