第86話
『……おいしい』
吸血鬼事件が落ち着いてからしばらく、戻ってきたルティに私はもう一度料理を振る舞っていた。
あいつがふいに零したあの言葉を、私は忘れることはないだろう。
『あっ……言わないつもり、でしたのに』
『ふふっ、どうして?』
『バネッサさんはバウムガルデンを離れるんでしょう? 今、言ってしまうと二度と会えない気がして』
全く、前に別れた時には”次には言う”って言ってたくせに。
『そんなわけあるかい。おいしいと思ったらおいしいと言って欲しいし、そう思わないのなら言わなくていい。それだけだよ、ルティ』
『――そうですね。つまらない願掛けをしてしまうところでした。それでバネッサさん。僕からお礼をさせていただきたい』
かしこまったルティが告げたお礼。
それはドレスコードのある超高級店へのお誘いだった。
実際、私も興味のあった店だし、ルティのような相手がいなければ足を踏み入れるのも困難だろう。
ロバートたちに頼むのも気恥ずかしい。
『……けど、ドレスなんて』
『勲章をもらった時に来ていたではありませんか。あの時のドレス、本当に綺麗でした』
『たく、おだてるんじゃないよ……』
あのドレスは借りものだと言って断ろうとしたんだけど、押し切られてしまって今日という日が来た。
イルザさんに頼んでまたあのドレスを貸してもらったんだ。
『ククッ、あの小僧からのご指名か。言っただろ? こういうのが効くって』
『……別にそういうのは狙ってません。相手はまだ子供ですよ』
『オレからすりゃみんな子供さ。それに5歳くらいの差だろ? あと5年もすればあってないようなもんだぜ?』
600年生きる人の基準で語らないで欲しいとでも返せばよかったんだろうけど、上手く返せなかった。
あの日以来に着たドレス。それを鏡で見ていると、これでルティに会いに行くのかと意識してしまって言葉が出なかったのだ。
『アンタの方はクラリーチェと違って、しっかり胸を張っている。立ち姿はそれで良いだろう。
まぁ、色々あるだろうが、いい経験になる。楽しんでおいで。バネッサ――』
イルザ・オーランドその人に背を押され、約束の店まで送ってもらった。
まさか吸血鬼殺しのオーランドに直々に送ってもらうなんて、随分と大げさなことになってしまったと思ったけれど、ルティと会ってしまえばもう関係なかった。
あの人も気を利かせて簡単な挨拶だけで去っていった。もう2人きり。
「――やっぱりよく似合っています。そのドレス。
あの日に直接言えればよかったのですが、機会がなくて申し訳ない」
「良いんだよ。あいつらがいるところで変に褒められたら茶化されそうだし」
案内されるままにテーブルに座って、それだけで理解する。
自然に案内して見せたここの給仕の腕は一流なのだと。
「それに、ルティの燕尾服もよく似合ってる。いつもより大人みたいだ」
「……そう言ってもらえると嬉しい。似合っているか少し不安でしたから」
「まぁ、女の子みたいな顔立ちだもんね。でも、本当によく似合っているよ」
私の言葉を聞いて、柔らかに微笑むルティ。
そこから私たちはゆっくりと食事を楽しんだ。
カッチリとした服装同士だったから、どこか緊張してしまうところもあったけれど、今日まで続けてきたとおりの楽しい食事を、いつも通りに行った。
サラダの味付けがどうだ、肉の焼き具合がどうだと色々な話をしながら。
「……いや、流石だね。まさかこんなに美味しいなんて」
「でしょう? 貴女がここを去る前には一度連れてきたかったんです。事件より前にはその機会がありませんでしたが」
「そうか。じゃあ、無事に事態が終息してよかったって訳だ。よく戻ってきてくれた。反対されたりしただろ?」
こちらの問いに頷くルティ。
「でも、味方してくれる人もいましたから。それにいつまでもバウムガルデンを忌避していても仕方のない事です。
全ての吸血鬼の血を回収できたとは限りませんが、どこかで区切りをつけて先に進まなければいけない」
さらりとそう答えてみせるルティからは、貴族の風格を感じる。
人の上に立つ人として育っているのだと分かる。
「……それに、僕も貴女が発つ前に少しでも長く会いたかった」
いたずらっぽく笑い、私の手に触れるルティ。
私は、それを払うことなく受け入れていた。
「アカデミアに、行かれるんですよね……?」
「ああ、オーランドの2人が席を用意してくれてね。料理専門の学科はないんだが、流浪の旅人よりはマシな身分になる」
「なるほど……確かに良い経験になるのだと思います。僕もいつか入学したいと」
やっぱりそうなるよね。貴族の子息が行くような場所なんだろうなぁって感じはなんとなく分かっていたし。
「その頃には私はもういないのかな」
「……そうですね、5年後くらいにはなってしまうでしょうし。飛び級で入学できれば良いんですが」
「いや、良いんだよ。別に無理して一緒にいなきゃいけない訳でもないんだ」
こちらの言葉に微笑むルティ。
「ええ、でも僕は一緒にいたいな。バネッサさん」
「……私も一緒に飯屋を回る相手がいなくなるのは寂しい」
「いつかまた、こんな日々が来るようにしてみせます。だから、少し待っていて欲しい」
私が、このバウムガルデン領を去るのは、私の都合だというのに、そんな相手に待っていて欲しいと言ってくれるのか。ルティは。
本当にありがたいし、私には過ぎた相手だと思う。
「……良いんだよ、私のことなんて気にしなくて。アンタにはアンタの人生があるんだろう?」
「それはそうですが、その僕の人生に貴女を欠かしたくないのです。まだ何も具体的なことは言えませんが」
「――分かった。気長に待っているよ。ルティが大人になったころには、とんでもない男になってそうだ」




