第83話
――白い毛並みにブラシを添える。
必要以上に力を込めてしまわないように、優しく丁寧に。
いつも通りの時間だけれど、随分と久しぶりだった。こうして2人きりでゆっくりできるのは。
「……もう少し、強くしてくれないか? イルザ」
ザクが甘い声でねだってくる。まったく可愛い奴だ。
「悪い悪い、久しぶりで加減を忘れていたよ。随分と毛も硬くなっちまったな」
「……お前もいなかったし、ゆっくり毛づくろいしている暇もなかった」
「ふぅん? あのクラリーチェとかいう小娘には頼まなかったのか?」
オレの声に籠ってしまった不機嫌さを察知したのか、アイザックの耳がピクリと動く。
「……あんな年端も行かない娘っ子に、こんなこと頼めるか。それに俺は、お前以外の女には興味がない」
横になっているザクがオレの髪を引き寄せて、口づける。
あの時のような真紅の髪じゃない。今は普通の銀色に戻っている。
……正直なところ、もう戻らないんじゃないかと思っていた。ゾルダン自身と、奴が集めた吸血鬼の血を二度も吸ってしまったのだから。
「――本当に綺麗だよ、イルザ。ようやくこうして2人きりでゆっくりできてうれしい」
微笑むザクの首元を撫で、ブラッシングを終える。
そうして今度はアイザックがオレの髪を手入れしてくれる。
これがいつも通りの時間だ。本当に久しぶりの時間に心が落ち着く。
「しかしお前もお前で新弟子を取った上に、若者と融合していたそうじゃないか」
「なんだ? 妬いてんのか?」
「……妬いてる」
そう言いながらアイザックが後ろから抱き着いてくる。
ブラッシングしたばかりの白い毛並みが、温かくて柔らかい。
まったくもってもう600年の付き合いだというのに、初々しい奴だ。
こういうところが好きなんだよな。
「――悪かったよ。でも、実際いい男達だろ? あいつら」
「まぁね。流石はクラリーチェの仲間たちだと思う。彼らがいなければ今回の戦い、もっと危うい状況に陥っていたかもしれない」
まったくもってその通りだ。
復活したばかりでも、あのクソ親父は仕掛けてくることが狡猾だった。
オレが奴の復活を察知し、探り始めたときには”吸血鬼の血”を各地にばら撒きながらバウムガルデンに向かい始めていた。
特にバッテンフェルトには多くの血を流していたようで、あと数日現地入りが遅れていたら完全に再起不能になっていただろう。
「……しかし今日でようやくアラステアが残していた血の売却名簿の総洗いが終了だよな? ザク」
「完全にとまでは言わないが、今までに回収した血の本数と倒した吸血鬼の人数で、ゾルダンが彼に渡していた分を超えることになる」
ゾルダンが直接渡していた分やアラステア以外に流通を頼んだ相手がいないとは限らない。
あのクソ親父は証拠らしい証拠を何ひとつ残していなかったから、これ以上は辿る方法がないのだ。
几帳面なアラステア・ストークスとは、つくづく真逆だと思う。
「――まさか、あのアラステアが、とはな」
「まぁ、彼の場合どこか分かってしまう気がするよ、俺は」
アイザックがそう言うのも分かる。
あの男は本当に優秀な商人で、彼がいたおかげで当代のバウムガルデンはかなり住みやすかったと思う。
けれど彼自身は、自分の妻子を喪った時から死んだも同然だった。あの時より後に、彼が本心から笑っているのを見たことはない。
正直、彼がどうしてあれほど意欲的に働いていたのか分からないほどに。それを思えば、彼を糾弾する気にもなれない。
「……親父の誘惑はさぞ甘美だっただろうな。あいつが自らの目的を語っていたのならば特に」
600年前に殺したあの時には終ぞ知らぬまま終わった話だった。
ゾルダンという男が、元々吸血鬼に全てを奪われた少年だったなんて話は。
まさかそれをロバートに話しているとも。
本当に随分と彼のことを気に入っていたのだろう、あんな親父の振る舞いは初めて見た。ロバートの記憶を通じて。
「……まさか死人の復活が目的とはね。意外と人間らしい所もあったもんだ」
「ああ、ロバートのおかげで色々と分かったよ。それに、親父が穏やかに死んでいったのもあいつのおかげだ」
これでもう、親父が蘇ってくることもないだろう。
あの時とは何もかもが違う。その点については、本当にロバート・クロスフィールドという少年に感謝している。
いいや、本名はロバート・サータイトか。本当に数奇な宿命を背負っている男だ。
「――彼らはアカデミアに行くと答えたそうだね」
「ああ、全員であいさつに来てくれたよ。さっそく手配を始めた」
アカデミアに知り合いは多い。
特にロバートに学ばせたいこと、そして彼がクリス・ウィングフィールドを追っていることを考えれば誰に頼むかの答えは見えている。
それにクラリーチェにとっても最適の相手だろう。機械魔法科と魔術史学科、その両方の頂点に立っている彼女は。
「トリシャ・ブランテッドに頼むつもりだね?」
「そうだ。お前もクラリーチェを送り込むのならあいつのところだろう?」
「もちろん。機械魔法という学問について彼女の右に出る者はいない」
ふと、アイザックが立ち上がり、お茶を淹れてくれる。
夜の紅茶だ。良い香りがする。これで穏やかに眠れるだろう。
「それにあいつのような実力者の近くなら、少しはロバートたちも安全になるだろ」
「……奇しくも経験者だものね。トリシャ自身も。
しかし、ロバートくんが探しているクリス・ウィングフィールドって、あいつの娘なのかな」
歳が合わないが、恐らく本人なんじゃないかとロバートは考えていた。
その矛盾点を除けば、ロバートの探すクリスティーナ・ウィングフィールドというのがオレたちの知るレッド・ウィングフィールドの娘である可能性は高い。
……しかし、時間の矛盾は大きい。崩れる可能性が皆無という訳ではないが。
「ロバートが探しているのと同一人物かはともかく、少なくとも今アカデミアにいるクリスってのはレッドの娘だと思うぜ」
「……あいつもあいつで今、何やっているんだろうなぁ。あの事件の関係者で表舞台にいるの、ルビアとトリシャくらいだろ?」
アイザックの言葉に頷きながら紅茶を口にする。
柔らかな香りに、意識がほどけていくのが分かる。
「――そう言えばイルザ、そのクリス・ウィングフィールドの異名、知っているかい?」
「もちろん。グリューネバルトの死竜殺しだろ? たっく、あのヘイズ・グラントも生きてるわ、慈悲王も蘇るわ、そこにレッドの娘も絡んでるわでハチャメチャだよな。
今度ベアトに顔出しに行くか? アイザック」
オレの言葉に、くすっと笑うザク。
「まぁ、あの慈悲王はいつか目覚めるとは思っていたけれど、まさかヘイズの方まで生きていたとはね」
「ホントだよなぁ。いったいどこに潜伏していたんやら。魔法皇帝が死ぬ前だろ? ヘイズがやられたの」
「そうだよ。つまりあの激動の前期魔法時代末期から後期魔法時代の終焉までずっと潜伏してたんだ、ヘイズは」
つくづく凄まじい執念だよなぁ。
まぁ、確かに生き汚い男という印象はあったが、まさかそこまでとは。
「しかし、蘇ったのが慈悲王で良かったじゃないか。他の魔法王なら今回のゾルダンみたいな脅威になっていただろう」
「全くだな。あいつほど先見の明があって、オレたちと近い思想を持っていた魔法王もいねえ」
あの激動の魔法時代において、慈悲王は唯一自国民を殺さず、急速に勢力を拡大するスカーレット王を見て、自ら眠りについた。
時代の潮目を読み取り、自らの土地に最も確実な安寧をもたらした。生半可な人物じゃない。
何度が会ったことがあるし、会うたびに身体が違ったからイマイチ正体がよく分からない奴だが、かなり好き相手だ。
ああいう奴を、魔法皇帝自身がとても気に入っていたのが、どこか奇妙だったのを覚えている。
「……彼にも随分助けられたよね。アマテイト教会を守るということにおいては」
「そうだな、オレたちだけじゃかなりヤバかったかもしれん。皇帝が生きてる頃はともかく、その後が」
魔法皇帝も、アマテイト教会と袂を分かったとはいえ、元々が教会の神官として生きていた男だ。
だから、教会への弾圧もそこまでじゃなかった。戦争をしてはいたが、生まれてきたアマテイト神官を殺したり実験に使うような真似はしていなかった。
問題は彼が死んだ後だ。魔法という力を持ち、魅せられ、他の魔法王と競うことしか知らない奴らにとってアマテイト神官として生まれてきた人間は絶好の研究対象だ。
本当に苛烈な時代だったと思う。血統に関わらず無作為に神官が生まれてくるということが、あれほど裏目に出た時代もあるまい。
「あの時代ほど、吸血皇女って異名が生きた時代もなかったね? イルザ」
「フン、あの程度の若造にどうにかされるオレたちじゃねえ。そうだったろ? アイザック」
――魔法皇帝は、この土地まで勢力を拡大しようとしてきたが、オレたちはそれを許さなかった。
2度戦うこともなく、あいつとは不可侵条約を結んだ。いつ破られるか気が気じゃなかったが、それでも負ける気はしなかった。
アマテイト教会の連中を守り抜けたのも、その結果。
あの皇帝は他人を魔法王として認めることで権威を拡大していったが、そもそもオレは吸血皇帝の娘だ。全く別のものだとして振る舞った。
「ああ、おかげで今回も無事に乗り切れた。……そろそろそのお礼の準備をしなきゃね」
「活躍した若者たちに勲章と報酬を――彼らには更なる活躍を期待しよう」
それがこのバウムガルデン領での活躍であろうとなかろうと、ゆくゆくは帰ってくるものだ。
能力ある者に報いる姿勢は、我がバウムガルデン領への信頼に繋がるし、オレたちへの好感を持った実力者が増えてくれるのは望ましい。
特にあのスノードロップたちは、恐らく歴史という表舞台に立つ者たちになる。あのままベインカーテンと戦っていくのならば確実に。
「いつの時代も、未来ある若者を見ているのは良いものだね、イルザ」
「……ああ、だが同時に心配にもなる」
特にロバートのような無謀な戦いを挑もうとしている男を見ているとそうだ。
あいつは無事にその天寿を全うすることができるんだろうか。
仮にそうなったとして、どれだけのことを成していくんだろう。
本当に、あの死の女神サータイトに関する謎を解き明かしてしまうのだろうか。
――オレたちなんかよりも遥か前、神話から続くあのベインカーテンと戦いながら。
「過度な深入りはしないのが俺たちのやり方だろう? 必要な手助けはしたとしても」
「――結局はそれが安全だからな。でも、お前もバイロンと戦って思ったんじゃないのか? オレたちがやってるのは、ただの保身だって」
「まぁな……それでも、俺はもっとお前と一緒にいたいんだ。それが最優先なのさ」




