第77話
「ッ――冗談じゃない!! あのウサギ野郎め……ッ!!」
ディズと造り出した闇を潜り、バウムガルデン領内の宿に戻ったところだった。
奪ったはずの血液。空間を切り取って奪い、小瓶の中へと転移させていたそれが発火しているのに気づいたのは。
……イルザとロバートは完全に出し抜いていた。こんなことをやれるのは、あいつしかいない、アイザック・オーランドしか。
『ハハッ、すげえな、あの兎さん。これで今回はお前の骨折り損だ、デイビィ』
「やかましいぞ、ディズ。お前、よくも俺の正体を喋りやがって……おかげでせっかくの友好的な関係も台無しだ」
『フン、あの皇帝の血を奪ったことを見抜かれた時点でもう取り繕う余地はねえよ。分かってんだろ? あいつらキスしてんだぜ?』
――確かに、それはディズの言う通りだ。
そもそも、吸血皇帝が女の姿をしていること自体が驚きではあったが、まさかロバートという男があれほどに入れ込んでいるというのも驚きだった。
まぁ、それでも吸血鬼に身を落とすことがなかったというのは、最初に出会った時の印象の通りではある。
俺も詳しいわけじゃないが、あれほどまでに吸血皇帝と深い関係を持っておきながら、吸血鬼にならなかった人間もそうはいないだろう。
「……確かにお前の言う通りかもな。
あいつ、ゾルダンにトドメを刺していたくせに、ゾルダンを傷つけられることに対する怒りが尋常じゃなかった」
俺があの瞬間に宝石魔法を使ったのは、あの瞬間しかなかったからだ。
あれよりも後に行っていたら、恐らくだがイルザの影に察知されていたと思う。
だから、あの時に仕掛けた。近くにいるロバートは気付いたとしても、そこまで大きな問題だと思わないと考えていた。
せいぜい少し不思議なことが起きたくらいにしか思わないと。だが、実際は違った。
あいつは、俺の魔法が何なのかを深く洞察するほどに、そして強い怒りを抱くほどにゾルダンという男のことを好いていたのだ。
(……それでいて、殺せるんだものな。あの男のことを)
不思議な感覚だと思う。
自らが愛し、自らを愛してくれる絶対者をなぜ傷つけることができるのか。
――俺は、女神を愛している。だからサータイトのことを裏切ることは絶対にない。彼女を傷つけることも。
それが人間社会の中でどう捉えられるか、善か悪かなんてことは問題ではないと考えている。
この愛の前では、全てが論ずるに値しないと。しかし、あのロバートは自分の中の善に従った。愛に至らずとも好意を持った相手でさえ、殺してみせた。
『そういうことだよ、デイビッド。あのロバートって奴との決別は、ゾルダンの血を奪った時点で決まってたのさ』
「……しかも、その成果は手に入らないってんだもんな」
なんとか炎は消し止めた。しかし、瓶は熔け、血は完全に焦げ付いてしまっている。
もう何の意味もないだろう。これを舐めたところで吸血鬼には成れない。
まぁ、全くの無価値になったかどうか、持ち帰っても良いが、成果が得られるとの期待はできない。
『とりあえずさっさとずらかろうぜ、あいつら下手したらここ嗅ぎ付けてくるぞ』
ディズの言葉に頷く。
……やれやれ、どこかの転移魔法使いのように、もっと広い範囲へ移動できればいいのだが。
この闇の宝石魔法では、移動できる距離に限度がある。
そもそも魔力の消耗が激しいし、距離を無にするわけじゃない。闇の中で走らなければ移動できないのだ。
ビルコ・ビバルディとかいう、この諜報界における怪物とは決定的に違う。
「――焦ることはない。仮にそうなったのならば、私が相手をしようじゃないか」
その声に、緊張が走る。
「……まさか、こんなところまでご足労いただけるとは。”教授”」
「なに、単純な興味だ。私も吸血皇帝の理論には興味があったのさ――」
白衣を身に纏った老年の男。そう見えるが実際には違う。
彼こそ、このベインカーテンという組織における最高幹部の1人。
捉え方にもよるが、この男こそが我らが女神に対する次席とも言える。
簡単に言えば、サータイトの次に偉い人というわけだ。
まぁ、彼女の声を直接に聞ける俺にとっては、あくまで同志の1人でしかないが。
「珍しく、事が起きた時から興味津々でしたものね。何か理由でも?」
我々の研究所がひとつ全滅した。
その原因が、保管されていた吸血鬼の血であることが分かった時から、この教授の興味は異常だった。
普段は組織の運営になんて首を突っ込んでこないくせに、事細かな情報を欲した。
女神からの命令でもないのに、俺が動くことになったのもそれが理由だ。まぁ、あのクラーケンを潰した男が居ると聞いていたからという俺自身の興味もあるが。
「――なに、昔の話だよ。私は吸血鬼がこの世に生まれた瞬間を知っているんだ」
ッ……流石は教会時代の前、神話の時代から生きているとも言われる怪物だ。
まるでそれが当然かのように、とんでもないことを言い出す。
「興味ありますね。教えてくれるんですか?」
「……人間の中に溶け込んでいった妖精が居たんだ。私の友だった真紅の妖精が」
「人間の魂に溶けた妖精――それが吸血鬼の血の根源だと?」
相変わらず彼の語る神話の世界は、その実態がよく分からない。
人間に溶けていったとは、いったい具体的には何を指しているんだろうか。
「ああ、彼女の血が混ざった人間、それが後に吸血鬼と呼ばれる者たちだ。
ゆえに吸血皇帝の計画を突き詰めた先、極限にまで濃くなった血があれば、あいつにまた会えるかと思った」
「……へぇ、アンタに再会したい相手がいるなんてな」
”面白い奴だったからね”とだけ答えるその瞳。
彼の纏う闇は、俺やディズのそれとは比べるのもバカバカしい。
「……正直、ここにあの吸血皇女が来るのなら、私はそれと戦いたい。彼女がどうなっているのかを知りたいんだ」
言い出すと思ったぜ。そうでもなきゃここまで来ないよな。
確かに今のイルザ・オーランドは、吸血鬼を超越したゾルダン・ノイエンドルフを取り込んでいる。
その濃度は、今までの比ではないだろう。
「――ダメだね。ここで戦うなってサータイトが言っている」
「フン、お前の神通力か。下らんが、確かにあの娘はそう判断するだろう」
サータイトの声が聞こえた。俺の女神の意志が。
それは言葉ほど明確ではないが、少なくともここでの戦いは避けろと言っているのは分かる。
俺も同じ気持ちだ。この教授と一緒なら、イルザだろうがアイザックだろうがロバートだろうがねじ伏せられるかもしれない。
だが、戦ってしまえば、この王国全てが俺たちに牙を向いてくる。全面戦争に繋がりかねない。今はその時じゃない。
「……なぁ、教授。アンタはなぜ神を”娘”と呼ぶ?」
「フフッ、そんなことはあいつに聞けば良い。もしその仔細を正しくお前が理解した日には、お前の神通力を認めてやる」
端的に言って、教授は俺がサータイトの声を聞いていると口にすることを完全に信じてはいない。
ただ、教授の思う女神の考えと、俺が口にする女神の言葉は今のところ全て噛み合っている。
だから便宜的に信じているのだそうだ。全幅の信頼ではないと言っていた。
「――結局のところ、神話を理解しろってわけか」
「ああ、神話を神話と認識しているうちには至れない場所だ。まぁ、人の身では理解できないかもしれんが……」
教会時代の始まりならば、歴史を紐解けば理解できる。
そしてあの時代に残された神話が何なのかは、調べれば分かることだ。
だが、決定的に分からないのは、神話時代を当然に生きたであろう怪物たちの感覚。
……悲しくも俺の女神もそこの生まれなんだ。彼女に近づくためにはいつか理解しなければいけない。
「俺は近いうちに、より彼女へ近づく。そうした先に理解してやるさ」
「……できるものならやってみるといい。私もあの時代の理解者が増えることは好ましい」
そう言いながら教授は、焦げ付いたゾルダンの血を引き寄せた。
彼の魔法で。いいや、魔法という言葉ができる以前の力で。
「悪いな。アイザックに上手を取られた」
「……残念だが、それを責めはしない。そしてあやつが戦うなと言うのなら、此度の成果はこれだけだな」
自らの懐に焦げ付いた血を仕舞い込む教授。
研究し尽くす気というわけだ。
まぁ、俺の失敗は失敗だが、この男が調べれば、あるいは何か成果が得られるかもしれない。
「それじゃあ、帰りましょうや。今回の事件はこれで終わりだ――」




