第69話
――私は、大きな都市で生まれた。
吸血皇帝の支配する直轄領に産み落とされた皇帝の娘、それが私だ。
皇帝の長女と言えば聞こえはいいが、所詮のところはただの実験作に過ぎない。
人間と吸血鬼の間に子供を作れば、生まれてきた子供はいったい何者になるのか。
結局、ゾルダンがそれを知るためだけに生み出されただけの存在だった。
『イルザ、必ず私が助け出してあげるからね……そのときは一緒に逃げましょう?』
週に一度くらいだったろうか、母が私に会いに来てくれていた。
母親に連れられて街を歩くことが許されていた。
そのたびに母さんは言ってくれた。いつか助け出してあげる、いつか一緒に逃げよう。
……あの人がそう言ってくれるたびに、どこかで理解していたのだと思う。
きっとそれは現実にならないということを。
今となってみれば、どうしてあの男が母のことを嫌っていたのか理解できる。
あいつは好き好んだ相手には、自らの血を簡単に与えてみせる。
吸血鬼にして、傍に置きたい奴は傍に置くし、そうでなくとも王の地位を与えていた。
母さんはそうではなかった。母さんは、吸血皇帝に跪いた人間の1人。そして皇帝が同族と認めなかった相手なのだ。
だからあの男は、母さんのことを疎んじていた。
物の試しで選んだだけの女が、自分の娘に普通の母親が持つような愛着を持っているのが不愉快だったのだろう。
週に一度の面会を要求し、それを叶えるたびに娘が人間社会で居場所を得ていくのが、どうしようもなく不愉快だったはずだ。
あいつにとって自分の領土なんてのは、人間を放牧しているだけの場所。実験作とはいえ、自分の娘が家畜の中で関係を築いていくなんて。
だから、あいつは、母さんを殺した。
私の眼前で、母の身体を引き裂き、その血を飲むことさえしなかった。
――あの時に、私の未来は決まった。あの瞬間、私はあいつを殺すと心に決めたんだ。
『フン、怒ったか? そうだ、それで良い、イルザ。
お前は私の娘なんだ、あの女や有象無象のように怯えた目をするな。媚びた振る舞いをするな。
戦う力が、お前にはある。私が気に入らないのならば、戦え。そして勝利し、私を跪かせることだ』
言葉の通りに私は全力で戦った。だけど、まだ身体も幼かったころだ。
吸血鬼の血を引いているくらいじゃ話にさえならなかった。
殺されるんじゃないかと思った、母さんと同じように。
だって私を使った実験は既に終わっている。だから、あいつにとって私はもう用済みだ。だから、殺されると思った。
『ッ――もう、大丈夫だ。君は俺が助ける』
終わりだと思ったまさにその時、銀色の刃が私を守ってくれた。
母さんの幼なじみ、キリルおじさんが助けに来てくれたんだ。
もしも、あの時、おじさんが助けてくれなかったらどうなっていたのか、それを思うと今でもゾッとする。
吸血皇帝を相手に、青龍刀と爆薬だけで渡り合っていたあの人は、本当に凄まじい人だったのだと今でも思う。
結局、あの人と同じ戦い方じゃあいつに勝てなかったのだから。
『……そうか、お母さんが。でも大丈夫だ、一緒に逃げよう、イルザちゃん』
なんとかその場から逃れた後だ。
キリルおじさんがそう言ってくれたのは本当に嬉しかったし、頼もしかった。
けれど、一緒に逃げようという言葉を聞いて、私は嫌でも母さんのことを思い出していた。
お母さんの姿が重なって、そんなこと思いたくなかったのに、思ってしまっていた。
もしかしたら、おじさんとの逃避行も長くは続かないんじゃないかって。
『はは、凄いな、イルザちゃんは。重くないかい? この青龍刀は――』
初めて、生まれた都市から外に出た。見知らぬ場所を転々とする日々、キリルおじさんが連れて出してくれた外の世界が、本当に楽しかった。
その中で彼は私に戦い方を教えてくれた。
最初は私に青龍刀は握れないと思っていたらしく、初めてこの刀を振るってみせた時の彼の驚きを今でも覚えている。
『……ッ、これで最後だ。俺が教えられることは全て教えた。あとは1人でも生きられるな?』
追手が近づいていた。父が放った追手が、すぐ近くにまで来ていたんだ。
それを前に、キリルおじさんは私だけを逃がそうとしてくれた。自分を囮にして。
『ダメだよ、私、おじさんなしでなんて、まだ教えて欲しいことがたくさんあるのに……』
『――いいや、大丈夫だ。もう全て教えたよ。イルザ、君なら大丈夫だ。ごめんね、最後まで一緒にいてあげられなくて』
そう、彼は私の額に口づけて、追手が迫る街へと消えていった。
私だけを船に乗せて。彼の青龍刀を、私に託して。
……彼がどうなったのか、それを明確に知っているわけではない。けれど助かっているとは思えなかった。
最後に彼に謝らせてしまったこと、それを今でも悔やんでいる。
私は感謝を伝えたかったのに。助けてくれてありがとう、育ててくれてありがとうと。
もしも父親を選べるのなら私は貴方の子として生まれたかったと。
『ほう、君がキリルの寄こしたハーフヴァンパイアか。
……君1人ということは、そうか。よくここまで来られたね、辛い旅路だったろう。
安心したまえ。私は、あの吸血皇帝ごときに後れを取るつもりはない。私がいる限り、この土地は絶対に明け渡すことはない』
船が着いたのなら、オーウェンという奇術師を頼れ。それがキリルおじさんの言いつけだった。
魔術という言葉を知った今なら、よく分かる。彼は魔術師だったのだ。
けれど、当時は魔術なんて言葉は存在せず、後に魔術師と呼ばれる者たちも皆が神官だと思われていた。
そんな時代においても、あまりにも奇抜な御業を使うがゆえにアマテイト神官ではなく、奇術師と呼ばれていた異常者。
それがあの、オーウェン・オーランドという男だった。
『――アイザック、彼女がイルザちゃんだ。仲良くしてやってくれ』
初めてあいつを見た時の衝撃を、今でも克明に思い出せる。
自分と同じ背丈くらいの兎がぴょこぴょこと直立二足歩行している様を見たときには本当に驚かされた。
そして思った。人間じゃないのは私だけじゃないんだと。
『へぇ、それで逃げてきたって訳か。こんなザマの俺が言えた義理じゃねえが、大変だったな。本当に』
どうも彼は孤児だったらしい。大火事で身体を失いかけていたところにオーウェンが駆け付け、助けてくれたそうだ。
それでなぜ兎の姿なのかは分からないが、オーウェン曰く”自分の力不足だ”ということらしい。
『私は、母さんもおじさんもあいつに奪われたんだ。私の父親に、あの吸血皇帝に……』
普段は軽妙に笑うことの多い彼だったけれど、私の話は本当に真剣に聞いてくれていたと思う。
物心ついた時から、ここに逃げてくるまでの話を、本当に真剣に。
『――じゃあ、殺しに行くか。お前の親父を、俺と一緒に』
だから、ともすれば冗談にしか聞こえないようなあの時の言葉も、本気の言葉だと受け止められたのかもしれない。
『親父を、殺す……』
『ああ、そうだ。君は奪われたんだ。生みの親も、育ての親も。落とし前をつけなきゃ、君の心は浮かばれないだろう。
……俺は、君の笑顔が、見たいんだ。心の底から笑う君が見てみたい。君はずっと辛そうな顔をしているから』
そう、あいつの指先が私の髪に触れた時から、オレの復讐は始まったのだと思う。
あの父の言葉に乗るのは不愉快だったが、怯えて生きるのを、媚びて生きるのをやめた。
オレは、オレを愛してくれた男と共に過去を清算すると決めた。
怯えて生きる必要がなくなるように、あいつを殺すことを胸に誓った。
吸血皇帝を、ゾルダン・ノイエンドルフを、必ず殺してやると心に誓ったのだ。
『本当に良いのかよ、ザク。悪魔召喚なんて下手したら二度と表の社会に戻れなくなるぞ』
『ああ、吸血鬼に勝つにはこれしかない。禁忌中の禁忌だが、このまま黙っていれば世界は吸血鬼に支配されるだろう。それは女神も望んでいないはずだ』
女神のために手を汚す覚悟がある。あいつはそう語っていた。
『それにだな、イルザ。俺にはお前だけいれば良い。表の社会になんか戻れなくていい。
戦いの先、たとえそこで果てるとしてもお前の傍にいれるのなら、仇を取ったお前が笑っているのなら、それだけで良いんだ。
――愛している。この先、いつ死んでもおかしくはない。だから先に言っておく。俺はお前を愛している。お前のおじさんに嫉妬するほどに、焦がれている』
真っ直ぐに向けられるアイザックの言葉が、本当に嬉しかった。
彼が与えてくれた愛が、オレを強くしてくれたのだと思う。
父親の実験動物として怯えるしかなかったオレの人格を、母を、おじさんを、愛してくれた相手を奪われることを学んでしまったオレに、自信を取り戻してくれた。
それがアイザック・オーランドという男だった。だから吸血鬼をぶっ殺す旅に出た時には既に名乗っていた”イルザ・オーランド”の名前を。
『……貴公らが”吸血鬼殺しのオーランド”だな? 我が名はクロード・ミハエル・バウムガルデン。
君たちの実力を見込んで、力を借りたいと思っているんだ』
腕試しだと吸血鬼を殺して回っていた。吸血鬼を殺してくれという依頼は多かったから、それで金になった。
そうして名を挙げた頃、あいつらがオレたちに声をかけてきた。
あの時はまだ思ってもいなかった。まさかここまで永い付き合いになるなんて。
『――悪魔召喚のための触媒は持っているんだ、あとは先達である君に教えを請いたい。
ボクの理論だけでも恐らく再現できるとは思っているが、やはり不安要素は大きいからね』
『……ケッ、まともなアマテイト神官が手を出すもんじゃないぜ?
覚悟できてんのかよ、シオン・ブラックウッドさんよ』
今となればシオンもクロードも魔術師と呼ばれる側の人間だった。当時は神官と呼ばれていたけれど。
それでもシオンが扱う御業は独特で、どちらかというとオーウェンやアイザックに近い奇術師と認識されていたとは思う。
そしてザクの奴はなんだかんだシオンのことをとても気に入っていた。悪魔召喚の手前まで自力で辿り着いた実力の持ち主だったから。
『この戦いで、歴史の覇者が決まる。我々が女神の世界を存続させるか、彼奴らが吸血鬼の時代を齎すか。
歴史を決める戦いだ、その戦場に私と共に上がってくれる君たちのことを、本当に誇りに思う。
この戦いに勝利し、君たちの名を歴史に刻もう。君たちの名を、永久にアマテイト教会は刻み続ける――!!』
クロードの演説を今でもよく覚えている。
オレたち2人とクロード、シオンを中核とし、ごく少数の兵士を集めての皇帝直轄領攻略戦。
王を集めた皇帝が何かを企んでいることは目に見えていた。だから、それが成就する前に殺さなければ後がない。
そう見越して、オレたちは戦いを挑んだのだ。あの時の仲間たちの名前は、今でもバウムガルデン領のアマテイト教会に刻まれている。
魔法皇帝の時代が来たとしても、手放しはしなかった。それが約束だったからだ。オレたちと共に戦った英雄たちへの。
『――あと1人だ。半人前のお前でも足りるかもしれない。イルザ、お前のおかげだよ、お前のおかげで私の計画は完成する。
気の合わない子供だったが、最後の最後に父の役に立ってくれたな……?』
直轄領に集められていた吸血鬼の王たち。攻め込んだオレたちとあいつらの戦いは必定だった。
そして、オレたちは勝利を積み上げていった。だが、それこそがゾルダンの目的だったのだ。
死に絶えた吸血鬼たちの、行き場を失った力場はゾルダンの元へ集まり、あいつの玉座の間には真紅の太陽が出来上がっていた。
血で練り上げられた太陽が。あれを手に入れたときに、あいつは、吸血鬼さえ超越した存在になる。
『……ハッ、俺のイルザを、殺させる訳ねえだろうが! ゾルダン、ノイエンドルフ!』
あの時と同じだった。キリルおじさんに助けてもらったあの時と同じように、オレは殺される直前だった。
でも、燃える刀が、オレを守ってくれた。
ブラッドバーンの刀が、ブラッドバーンの鎧を纏うアイザックが、オレを助けてくれた。
『おい……冗談だろ、お前、それじゃあ、そうなってしまったら、助からねえだろうが! アイザック!!』
『――そうだ、俺はもう助からない。今こうして居られるのも悪魔の恩情に過ぎない。だから、殺すぞ、そしてお前が勝つんだ、イルザ!』
戦いの中、別行動をしていたアイザックが駆け付けてくれた時には、あいつの姿は変わり果てていた。
傀儡を使わない敵を前にブラッドバーンを呼び出すことができず、事もあろうに自分自身を生贄に悪魔召喚を行ったのだ。
だからあいつは炎の鎧を全身に纏っていた。意識があったのは文字通りの恩情、戦いが終われば勝利しようが戻れない。あの悪魔へと燃え果てるだけだった。
『冗談じゃない、冗談じゃないぞ、アイザック! お前のいない未来で、どうやって笑えって言うんだよ……っ!!』
アイザックの覚悟を見て、オレも覚悟が決まったのかもしれない。なにがなんでもこいつを取り戻す。
奪わせはしない。母さんのように、キリルのように、手放してたまるか。
オレは吸血鬼だ、あの吸血皇帝の娘だ、気に入らないのならば戦う、戦って勝利し、跪かせる。
――眼前の吸血皇帝も、オレのアイザックを奪おうとしている悪魔も、跪かせてやる、その全てを。
『ッ――イルザ、貴様……! 吸血鬼になりたくないんじゃなかったのか、お前!!』
太陽に手を伸ばした。真紅の太陽、血で練り上げられた太陽に。
吸血鬼の王たちが流した血を、その力場を一身に浴びた。それを飲み干すように受け入れた。
……そうだ、オレは吸血鬼になりたくなかった。
混血の吸血鬼だったオレは、そのまま行けば人間と同じように老いて死ねると聞いていた。
だから吸血鬼になんてなりたくなかった。アイザックに先立たれた先にある永遠なんて価値がないと思っていたから。
それは何も変わっていない。だが、ここで勝つためには、ここで吸血皇帝をぶっ殺すためには、それしかなかった。
吸血鬼もどきの身体だが、あの血の太陽を手に入れて、吸血鬼さえも踏み越える。そうしなければ勝てないと理解していた。
『……まさか、お前が至るとはな。吸血鬼のその先に』
『至る? いいや、堕ちたのさ。本当の化け物にな――』
あの力を手に入れた瞬間に理解した。もはやこの身体は仮初に過ぎない。
オレはもうただの血の塊、力の集合体に過ぎないと。
だから影が操れた。正確には影ではない。自らの力が身体を越えて具現化していた。
吸血鬼や神官のように、攻撃術式として外に放つわけではない。もっと単純に腕を伸ばすように握りつぶす。
『ッ……イルザ、お前……!!』
吸血鬼を超越した吸血鬼と、吸血皇帝を名乗るだけのただの吸血鬼。
その力量の差はあまりにも圧倒的だった。
あれほどに苦戦した相手だったが、本当にあっけなく追い詰めることができた。
『ようやく跪いたな? ゾルダン・ノイエンドルフ。いいや、跪かされているだけか』
『――クソ、ふざけるな、私の、私の力を、私の悲願を、お前ごときが……!!』
『ふん、吠えるなよ。戦って勝利できないお前じゃあ、オレを跪かせることはできない。力で奪ってきたお前には相応しい末路だ』
”返してもらう、あの日、オレから奪っていったものを。その尊厳だけでも”
『――よくやったな。吸血鬼のお姫様。それで、どうするよ。俺からも取り戻すかい?』
ゾルダンを殺し終えたオレを、そいつは律儀に待っていた。
アイザックの意識はもはや無いように見えた。
ただ、アイザックを取り込んだ炎の鎧は、オレを待っていてくれた。
『……”いる”のか? アイザックは、まだ』
『さぁな。ただ、お前なら、あるいは取り戻せるかもしれねえ。だがよ、今の俺は強いぞ、なにせ今までで一番強い男を贄に召喚されているからな』
青龍刀を握り直した。力場と化したオレに、その必要はなかったかもしれない。
だが、これはオレを愛してくれたキリルがオレに託してくれたものだ。
だから、今から愛を貫こうとするオレにとって、これ以上の武器はないと確信していた。
父からの愛を武器に、オレはオレが愛した男を取り戻す――!
『――許せ。ブラッドバーン、アイザックは覚悟の上でお前を呼び出したんだろうが』
『なに、良いってことよ。俺だってあいつのこともお前のことも気に入ってんだ。お前があいつを取り戻すために掛かってくることを拒むような真似はしない。
でもよ、イルザ・オーランド。そのために俺に殺されても、文句言うのはナシだぜ?』
全くどこまでも気持ちのいい悪魔だと思った。
召喚主はすでに消えている。好きな時に消えていなくなれるはずなのに、こいつはオレの挑戦を待っ正面から受けて立ってくれた。
だから取り戻せる。アイザックを取り戻すための戦いを挑める。それが本当にありがたかった。
『――ああ、アイザックのいない世界で生きていく価値なんてないからな。オレはあいつを愛しているんだ』
『そいつは良い。なら、お前の愛を見せてみろ……!!』




