第61話
「……アンタには、ただの人間だった頃はないのか。吸血鬼の力を得るよりも前は」
いつからだろうか。窓に映る景色が一切変わっていないことに気づいたのは。
どういうカラクリで、いったい何をしているのかは分からないが、恐らく外から誰も入れないようにしているな。
これだけ話していてシェイナが来ないのはそういうことだ。
「もちろんあるさ、私はイルザのように吸血鬼の子供じゃないからね」
「……なら少しは分かるんじゃないのか。人口の無駄だと殺されることの恐怖が」
「ふふっ、それが怖いのならば戦えば良い。そうして私の血を奪えれば、それで全ての後継者だ」
”実際に、それをやってのけたのがイルザだが、あいつは世界を支配しなかった”
残念そうに語るゾルダン・ノイエンドルフ。その表情に、独特の価値観が垣間見える。
「ロバートくん。私はね、小さな街で生まれたんだ。神官の1人もいない教会があるだけの小さな街で。
両親はパンを焼いてお金を稼いでいた。別に美味しくも不味くもなかったけれど、パン屋はうちしかなかった。
私はその味が好きだった。パンを焼く父の姿が、パンを売る母の姿が」
おおよそ吸血皇帝らしからぬ、素朴で温かな思い出話。
そんな思い出を持っていながら、なぜ吸血皇帝になんて、なぜあんな惨事を引き起こせるのか。
「……ある日、吸血鬼が私の街を奪った。傀儡たちに襲われ、街の大半が死んだ。
なんとか母と逃げ延びた私は、もっと大きな街に身を寄せた。その中で、教会に属した。
当時、吸血鬼とまともに戦おうとしていたのは、アマテイト教会だけだったからな」
ッ、俺が知る限りどの文献にも載っていない話だ。
吸血皇帝に、教会に属していた頃があるなんて。
「――6人だった。6人で部隊を編成し、吸血鬼を殺すための作戦を決行した。
神官を中心に、よく訓練された仲間たちが揃っていたと思う。
復讐心を隠し切れていなかった私に、彼はよく諭してくれたよ。悪意で戦ってはいけないと。どこまでも敬虔なアマテイト神官だった」
語る表情を見て、ようやく心の底から理解した。
たとえその身体が女性のものであろうとも、中にいるのはあのゾルダン・ノイエンドルフそのものなのだと。
「でも、真っ先に彼が死んだ。吸血鬼も分かっていたんだろう、我々の中で最も警戒しなければいけないのが誰なのかを。
部隊の中心を失って、我々は総崩れ。それでも懸命に戦ったとは思う。全員が決死の覚悟だった。
私が最後の1人になったのは全くの偶然、自らを捨て石にしてでも仲間が吸血鬼を殺してくれるはず、そんな遺志の積み重ねの先に私は居た」
……彼の瞳を見ていると、本当に心の底から憎悪しているのが分かる。
今でもその過去を鮮明に思い出せるのだろう。そういう迫力が、彼には宿っていた。
「もしも、あの時の私が人間のままであることを選んでいたら、あの場で私は死んでいただろう。仲間たちの死もすべて無為なものに成り果てていた。
だが、私は違う選択をした。吸血鬼の血を飲めば吸血鬼になることは知っていた。1撃さえ届けば、奴の血を奪える。
それだけが最後の希望であり、私はそれを果たしたからここにいる。あの日、私は吸血鬼となって吸血鬼を殺したんだ、故郷の仇を討った」
”その時から、私に帰る場所はなくなった。本当の意味で”
”いいや、故郷を失った時から既に、そうだったのかもしれない”
そう語る彼の姿に、彼が人間だった頃を垣間見る。
「……吸血鬼になってから気づいた。吸血鬼という存在は随分と手ぬるいことをしていると。
隠れているか、つまらない支配圏を作ることしかしない。誰も未来など考えていない。永遠の命を手に入れているというのに。
だから私はその先に進みたくなった。その中でアマテイト教会が蓄積していた経験則という歴史に多くの誤りが含まれていることも理解した」
――そんな風に、歩み始めたというのか。
自らの血を他者に分け与え、吸血鬼の王を生み出し、皇帝となる道を。
今のバウムガルデン領で行われているのは、かつての歴史の再現だ。
「そうして吸血鬼の力を越えた先、私はかつての仲間たちを蘇らせることができると信じている。
彼らの血を最初に吸ったんだ、冷えた遺体に牙を立てた。だから、彼らの魂を辿る道筋は、私の記憶に残されている。魂に刻まれている」
ッ……死者の復活を、望んでいるのか。
あの吸血皇帝が、そんな人間のような願いを抱えてここまで。
「そこまで分かっていて、そこまでの痛みを抱えていて、どうして分からない? どうして無為に奪われる命を良しとする?」
「私のものではないからだ。私のものではないし、私が愛したものでもない。
逆に私は取り戻しているだけだよ、最初に奪われたものを――というのは流石に欺瞞だな」
クスクスと自嘲するゾルダン・ノイエンドルフ。
そしてフッとこちらを見つめてくる。
「そういう君はどうして、そこまで他人のために怒ることができる?」
「――血に魅せられて、道を踏み外した奴を見た。あんなものさえなければ、あいつはそうならずに済んだはずだ」
「だが、力を求めたのは当人だろう? 私は吸血鬼になることを強制したことはない。ただの一度も」
”いいや、我が娘だけは例外か。生まれた時から吸血鬼の力を引いていたのだからな”
「そもそも吸血鬼の血なんてものがなければ、あんなことにはならなかった……!」
「確かにそれもまた事実だ。しかしだね、ロバートくん。吸血鬼の血というのは、持たざる者の最後の希望なんだよ。
神官、魔術師……貴族や王族もそうだと言えるか。そういう力を持って生まれなかった者が、力を得る唯一の手段。それが吸血鬼だ」
ッ……ゾルダンの言葉に何を返すこともできない。
確かにそうだ、後天的に得られる強大な力、確かにその意味で吸血鬼の持つ意味合いは大きい。
だが、認めていいわけがない。この男の論理を肯定してはいけない。
「――君も、力が欲しいんじゃないのかい? ロバート・クロスフィールド、いいや、それも偽名かな」




