第36話
――太陽が少し、昇り始めた頃。
僕らは、静かに領軍敷地内へと足を踏み入れていた。
領軍宿舎東へと向かう中、別の宿舎で兵士たちが朝の準備を始めているのが分かった。作戦に従事する部隊だろう。
では、僕らが向かっている東の兵士たちはどうなる? 傀儡へと変えられつつある彼らは、対吸血鬼作戦のどこに従事するのか。
(ベル、ここだ。裏から行くぞ)
本当に小声でマルティンが呟く。
いくつか同じような建物が並んでいたが、どうやら無事に目指す場所にまで辿り着いたらしい。
……僕らの目的は、リベルトがいる部屋へと潜入し、彼から情報を引き出すこと。そして彼が傀儡に成り果てていたのなら、その場で殺すこと。
対吸血鬼に向けた大掛かりな作戦は始まりつつあるんだ。敵はいつ動き出すか分からない。いつ、寄生虫を使って東宿舎の兵士たちを傀儡に変えるか。
それが今でもおかしくないし、もう既にそうしていてもおかしくないんだ。
(ッ――術式はなさそうだ)
裏口の扉を静かに開き、様子を伺うマルティン。
いったい彼が何を持って判断しているのか分からないが、今はその判断を信じよう。
少なくとも僕よりも経験が豊富なはずだし、領軍敷地内に何かしらの警戒の術式がなかったのに、この建物にだけ何かを掛けていたらすぐに異常だと分かってしまう。
敵は、そういう失敗をしていないのだとも考えられる。
(……足音を立てるなよ?)
マルティンの言葉に頷きつつ、静かに進んでいく。足音が鳴りにくい靴を買っておいてよかったな。
普通の靴ならもう響いていただろう。しかし、奇妙なほど静かだ。ここの連中には早朝の行動が命じられていないと見るべきだろう。
それは別にして、吸血鬼が動き出していてもおかしくないと思うが……。
(あの部屋だ――)
マルティンがその仕草で伝えてくるリベルトの部屋。
正確には、リベルトともう1人の相部屋らしいが、最悪なのはその扉が不自然に開いていること。
……何か仕掛けられている。いや、考え過ぎだろうか。しかしこの状況下で、彼の部屋の扉が開いているなんて。
(待って。慎重になるべきだ)
(……うん。分かってる)
一度、立ち止まり、細心の注意を払いながら開かれた扉から、その中を覗く。
「ッ――?!!」
見えた光景、それを前に思わず声が漏れた。僕もマルティンも。
……なんなんだ、これは。
夥しい量の血が流れ、その先には1人の男が括りつけられている。
刃物で手と足、そして首元を深々と刺され、床に縫い付けられているのだ。
「……リベルトじゃない」
死体に近寄り、その人相を確認したマルティンが呟く。
「相部屋の相手とか、かな……?」
「かもしれない。だが、となればリベルトがやったのか……?」
そう呟いたところで括りつけられていた男の拳が握られる。
――ッ、動き出した、これは傀儡の再生力だ。
リベルトの手記に書かれていた内容、殺された者はその場で傀儡になったというのと同じ状況だろう。
「窓から逃げた……?」
ここは2階、ギリギリ飛び降りられないこともない。
血の跡は、窓へと続いているし、おそらくこの宵闇を照らせば地面に血がついていると思う。
今は見えないけれど、窓の淵に残っている血痕から考えればそれが当然だ。
(――いや、妙だ)
マルティンがこちらに耳打ちをした瞬間、複数人の足音が響いてきた。
彼に手を引かれるまま、咄嗟に衣類棚へと身を隠す。
……あまりにも露骨な場所だ、ここに誰かいないと思う人間などいるだろうか? そう思って僕はいつでも短剣を抜けるように手をかける。
長剣は室内では取り回しが悪すぎる。……しかし、誰が来る? 傀儡か、吸血鬼か。
「……”傀儡”が増えたって聞いたが、やりやがったみたいだな」
「リベルトの方が居ない。あいつはあのお方に最後まで反発していた。動き出したと見るべきだろう」
「しかしよォ、いつ傀儡にされるか分かんねえってのに、悪あがきだよな」
普通に話しているのを見ると、まだ傀儡にされていない兵士たちと見るべきか。
こちらに気づいている素振りはない。しかし、油断はできない。いつ仕掛けられてもおかしくないと覚悟しろ、ベルザリオ。
「ああ。俺たちに逃げる術はない。助かるには、あのお方に血を分けてもらって吸血鬼になるしかない。
……窓から逃げたようだな」
「そうかい。じゃあ、お先に――!」
――2人の会話を聞いていて分かったことがある。
それは、リベルトの手記に書かれていた寄生虫からの解放というのが吸血鬼化を意味しているということ。
そして2人のうち1人が焦って窓から飛び出したことから推測するに、何かしらの手柄を立てた者に血を与えると言っているのだろう。
「……フン、馬鹿が」
毒づいた片割れが、静かにこちらの棚を開く。
「……えっ、リベルトじゃ、ないのか」
短剣を引き抜いていた。いつでも首を掻っ切れるように構えていたんだ。
それなのに、兵士は何も仕掛けてこなかった。
ここにリベルトが居たとしても、まるで攻撃するつもりなんてなかったみたいに。
「……お前らは、リベルトのために?」
静かに頷くマルティン。僕の方は警戒を解くことができない。
「……俺たちの事情をどこまで知ってるかは知らん。だが、今の俺には何も話せない。
だから、先に見つけろ。お前らが、リベルトを。……悪い、俺は軍人なのに」
一方的に語り終えた兵士は、静かに先に行った兵士を追うように飛び降りていった。
……彼は、見抜いていたんだ。マルティンと同じように、窓に残った血痕が奇妙だと。
そしてリベルトがここに隠れていると思った。けど、実際に居たのは僕たちで、見逃してくれた。
「……マルティン、僕らは」
「ああ、必ず先に見つけるぞ、リベルトを……!」




