第16話
――駆け出してからのことは、あまり覚えていない。
夢中だった。とにかくレース会場に行けばクリスに会えるはずだ、それしか考えていなかった。
我に返ったのは、彼女の姿を見つけたとき。クリスの姿を、ロナルドと向き合うあの娘を見て私の足は止まった。
「呼び止めてすまない。クリスティーナ・ウィングフィールド」
「っ、……珍しいですね。あなたが詫びを言うなんて」
震えているのが分かった。クリスちゃんの声が、震えているのが。
それでも気丈に振る舞っていた。弱みを見せないように。
「……なに、俺だって負けたことはある。そんなときは1人になりたいと思うものだ。
俺は今、君のそれを邪魔している。そこに対する詫びをしないような人間ではないよ」
優しげな声が、珍しかった。
ロナルド・ヒースガルドという男が、こんな声を出せるなんて思ってもいなかった。
そして、静かにそれを見つめ返すクリスの姿も普段とは違った。
いつもなら、もう既に言葉を返しているだろう。けれどクリスちゃんは何も返せずにいた。
「……っ、それで、どうしてボクを呼び止めたんです?」
「そうだな……今から俺の話を聞いてくれるか? ライドレーサーとしてお前に話しておきたいことがあるんだ」
2人の会話を盗み聞ぎする。そのこと自体は悪いことかと思った。
けれど、私は今すぐクリスちゃんと話がしたかったし、同時にこの会話を邪魔してはいけないとも思った。
だからこそ、隠れながらこの会話が終わるのを待つという行儀の悪いことをするしかなかった。
「――俺は今日、君に”引導”を渡すつもりだった」
いつか私が聞いたことを、ロナルドはクリスに向けて口にする。
それを聞いた彼女は、静かにその言葉を受け入れていた。
「あのレースから半年、君の活躍は聞いている。
英雄としての輝かしい戦績、学者としての素晴らしい論文。
俺はそちらに聡い訳ではないが、それでも君の名は響いてきた」
優しく彼女の肩に手を置くロナルド。
それを馴れ馴れしいと思ってしまうのは、私の嫉妬なのだろうな。
「……だからだ、クリスティーナ。君に引導を渡したかったのは。
君はライドレーサー以外にも稀有な才能に恵まれている。
一度この俺と競り合ったくらいで、この道に縛られる必要はない、後ろ髪を引かれる必要はない」
ロナルドの瞳が優しく輝いていた。
「――そう言って終わりにするつもりだったんだ、クリス。
だけど、今日、君と戦って思った。
俺はまた君と戦いたい。ライドレーサーとして経験を積んだ君と競い合いたいと思っている」
「っ、ボクは貴方に負けたんですよ」
クリスの言葉にロナルドは笑みを返す。
「だが、お前は誰よりも俺に喰らいついてきた。このロナルド・ヒースガルドを相手にして。
もしも君が本当にライドレーサーとして経験を重ね、研ぎ澄まされていけば必ず俺に勝てる存在になる。
そして俺はそうなった君を超えたい。3週間の練習なんかじゃなく、もっと全力で騎手になった先にいるお前に勝ちたいんだ」
――どうしようもなく勝負師なのだと思う。
このロナルド・ヒースガルドという男は、心の底から勝負師で、求めているのだ。
自分に勝てるだけの好敵手を。
「……勝手なことを」
「ああ、勝手さ。もちろん君が受け入れる義理はない。
ただそうだな、もう少しだけ俺の話を聞いてくれないか?」
彼の言葉に頷くクリス。
「……俺は、俺にはライドレースしかなかった。これがヒースガルド家で生きていくための唯一の手段だった」
「どういうことですか……?」
「なに、簡単な話だよ。名門貴族の生まれなどと持て囃されてはいるが、俺は末子に過ぎない」
末子だからなんだというのだろうかとも思ったが、クリスちゃんのほうはそれだけで意味を察したらしい。
「……家督に関わることができない」
「そうだ。しかし、父上は根っからの馬好きでね。俺もそれに導かれるようにこの道に進んだ。
そこから先の話は、知っての通りだ」
”ライドレーサーとして不動の地位を築いた”とクリスが呟く。
「ありがとう。君からの世辞は心に染みる」
「世辞じゃありません。歴然とした事実です。今、貴方以上のライドレーサーはいない」
「それが事実だとしてだ。君はそんな俺に迫ってきた。レーサーとして生きていない君が、レーサーとしてしか生きていない俺に」
ロナルドの視線が、静かにクリスちゃんの瞳を見つめていた。
「――君の才能は本物だ、クリスティーナ・ウィングフィールド。
だからこそ、ライドレースに関わる人間として、こちらの世界に君という才能を引き込みたい」
スッとロナルドがクリスちゃんの髪を優しく掴む。
「今すぐとは言わない。いつの日か、快い返事を貰える日を楽しみにしている。
ただ、あまり長いようだと、いくら君の才能でも追いつけないところまで俺たちは進んでしまうぞ」
「……自分だけじゃなく、ですか」
クリスちゃんの確認に笑みを浮かべるロナルド。
「当たり前だ。俺1人が強いだけじゃ見世物にならない。
さっきの表彰台でクリス、君が浴びた賞賛が何よりの証拠だ。
今、観客たちは待っているのさ。俺を倒せるレーサーを」




