第1話
――人生というのは、何が起きるか分からないものだと思う。
まさか自分が喫茶店を構えて、こんな売れない店のマスターを1年以上も続けることになるなんて。
そしてもうひとつ信じられないのは、こんな店にも常連客が着いたということだ。
「マスター、今日は開いてますか?」
扉に着けている鈴が鳴る。
朝というには遅く、昼というには少し早い時間。
もっとも健康に良い起床をしたのだろう。今日は学院の休日だから。
「うん。君が来るような気がしていたからね、クリスちゃん」
開かれた扉の先、差し込む日差しを背にして彼女がちょこんと顔を覗かせていた。
力強さを感じさせる濃い金色の短髪、アマテイト神官のそれとは違う赤い瞳。
小柄ながらも、その視線や立ち振る舞いから強い意志を感じさせる愛らしい少女。
この娘こそが愛しい常連客の1人、クリスちゃんだ。
「――何を作ろうか?」
「じゃあ、羊肉のオムレツとガーリックトーストで。材料あります?」
「あるよ。ごめんね、前は切らしてて」
情けない話だけれど、客が少ないものだからメニューに載せている商品のうち半分くらいは材料が切れている。
全部を用意していたら廃棄だらけで大赤字なのだ。
だからクリスちゃんの注文にも材料切れで答えることが多かった。
けれど最近はもう彼女の好みに合わせて用意しているから、そうはならない。
「いえいえ、今マスターのオムレツが食べれればそれで満足ですよ」
とりあえず水をクリスちゃんに差し出してから、諸々の準備を始める。
かまどに用意していた火に風を送り込んで火力を上げる。
一度は軽く焼いてあるパンにガーリックオイルを塗って焼き直しながら、並行してフライパンを使い、柔らかく煮込んだ羊肉を卵で包んで焼いていく。
最初はこの卵の扱いにも慣れなかったけれど、今ではもう完璧だ。
「――お待たせ。ゆっくり食べてくれ」
「おおっ、いただきます。マスターっ♪」
ガーリックトーストをちぎりつつ、スプーンでオムレツと共に口に運ぶクリスちゃん。
……彼女を見ていると育ちが良いのだろうなと思う。
別に貴族のような格式高い礼儀作法をここで見せつけているという訳じゃない。
ただ、ゆっくりと味わいながら食べ進める彼女を見ていると、食事と共に安心があった育ちなのだと感じる。
「……ボクの顔に何かついてます?」
「いや、嬉しくてね。美味しそうに食べてくれるのが」
「ふふっ、いつものことじゃないですか」
いつものこと、か。
まだ半年も経っていないというのに、随分と染みついたものだ。
それほどに通ってくれている彼女には本当に感謝しかないし、自然とそれを受け入れている自分自身にも驚く。
「そういえば最近見かけなかったけれど何処かに行っていたのかい?」
「あれ、そうでしたっけ……? 前に来たのが……」
「見知らぬサングラスのお姉さんと一緒に来たときだったかな」
いや、お姉さんでもないか。
自分より少し若いように見えたのだけれど、なんというかクリスちゃんと並んでいると本当にお姉さんという感じだった。
「ん、そう言えばあれ以来でしたね。ご無沙汰してました」
「いいや、良いんだよ。また研究に行っていたのかい?」
夏もそうだった。しばらく見ないなと思ったら研究に行っていたのだと言っていた。
そこで何か素晴らしい成果を挙げたらしいということまでは知っている。
きっと今回もそうなのだろう。特に噂は聞いていないけど、なんとなくそう思う。
「そんなところです。またちょっとここで色々書かせてもらっても良いですか?」
「良いよ。どうせ暇なお店だからね」
「ありがとうございます。あとでコーヒーでも頼みますね」
一口食べ進めるたびに笑顔になっていく彼女を見つめているだけで多好感があふれてくる。
成り行きがあって始めた仕事だったけれど、今はこの巡り合わせに感謝している。
「……そういえば、リオナちゃんは?」
「遊びに行ってるよ、コーヒー豆の買い出しを兼ねてね。1日戻って来ないんじゃないかな」
「じゃあ、今日はボクと2人きりですね♪」
クリスちゃんは妹のリオナとも仲良くしてくれている。
あの娘にとっては数少ない同世代の友人だ。本当にその事に対しても兄として感謝しかない。
リオナには寂しい思いばかりさせてきたから。年頃の娘らしいことは何もさせてやれなかった。
「……ふふ、しばらくはそうなるかな。
他にお客さんが来てくれると良いのだけれど」
そんな風にクリスちゃんに微笑み返す。
食べ終えた食器を片付けながら、もくもくと紙に文字を書き起こしていく彼女を見つめる。
時折、他の本に視線を落としつつ、真剣に作業を進めている彼女を見ていると思う。
(知識を使うということは、きっと楽しいことなのだろうな)
自分は何かに追われながら、強制的にしか知識を身に着けたことがない。
それはリオナも同じだ。だからクリスちゃんを見ていると思うのだ。
私は、妹に教育を受けさせてやるべきなんじゃないかと。
方法なんて分からないけれど、アカデミアに入学させてやりたいと。
「……でも、本当にこのお店を見つけられてよかったなって思います」
しばらくの静寂、その中でクリスちゃんが呟く。
私はとっさに答えられずに少し驚いたような反応を見せてしまう。
けれど、少し息を吸ってゆっくりと答える。
「そう言ってくれると私も嬉しいよ。数少ない常連さんだからね、クリスちゃんは」
「ふふっ、長居する迷惑な客でごめんなさい」
「その分、注文してくれるからね。こちらとしては何の問題もないさ」
私の言葉に安心したような笑みを零す彼女を見ていると、初めて彼女が来店した時のことを思い出す。
どこか怯えるように店の扉を開けて、こちらを覗き込んできた小柄な少女。
注文を聞いて用意しているあいだ、甘く仕立てたコーヒーを飲んでいるあいだ、彼女の今にも泣きだしそうなくらいに寂しげな表情を見ていられなくて私は声をかけた。
ここに来る前に何か、良くないことがあったのかと。
『……ちょっと、急な都合で、アカデミアに来ることになって。
故郷から案内をしてくれた人も帰っちゃって、なんかとても寂しいなって、そんなこと、もう、成人しているのに……』
彼女が話すこと、それに踏み込もうとは思わなかった。
具体的な話を聞き出そうとは、思わなかった。
けれど、ただ何か答えてあげたくて、こんなとき喫茶店のマスターならどう答えるんだろうかなんてそんなことを考えた。
『――もしも、この街で寂しいと思うのなら、いつでもここに来ると良い。
いつも、この”喫茶ライオン”は待っていますから』
なんてカッコつけて答えてみたのに、そのしばらく後には思いっきり寝坊してクリスちゃんに起こされたりしたこともあったんだから本当に情けない。
けれど、今の彼女を見ていると思うのだ。
あの時の言葉は、あの時の私の振る舞いは、ほんの少しでも意味があったのだと自惚れても良いんじゃないかと。そう思う。
「……ありがとう、クリスちゃん」




