第1話
「――ねぇ、クリス。全てが終わったら、貴女はいったいどうするの?」
ブランチという言葉がある。朝食と昼食を兼ねた、半端な時間帯に取る食事のことを、そう呼ぶらしい。
ボクの母さんは、多忙だったけれど、食事はいつも3食用意してくれていた。
だから、ボクがブランチというものを食べるようになったのは、つい最近のことだ。
ましてや、こんな風に他人と食べるだなんて考えられませんでした、つい少し前までは。
「そうだね……君を、さらってしまおうかな、ベティ?」
右手のティーカップを傾けながら、紅茶を少し口で踊らせて、歯の浮くような台詞を吐いてしまう。
でも、仕方ないのです。だって、目の前の”少女”が、ボクにそういう振る舞いを求めているんですから。
「ふふっ、さらってくれるの? クリスが、私を?」
首をかしげながら、挑発的に笑う”黄金色の瞳”をした少女。
瞳と同じ長髪が揺れるたびに、華のような香りが漂ってくるのは、いったいなぜなのでしょうか。
香水なんてつけていないはずなのに。
「うん、君がそれを望むのなら、たとえ何に阻まれようとも」
ボクがブランチを食べるようになるなんて、数か月前には予想できていなかった。
そして、1週間前のボクも、予想していなかった。眼前でほほ笑む少女”ベティ・トリアル”との出会いを。
身寄りのない彼女との出会い、彼女と過ごした1週間が、ボクを変えた。こんなキザな台詞を吐けるように、変えたのです。
「それが、この国の”貴族”様でも、貴女はそう言ってみせるのかしら? クリスティーナ・ウィングフィールドさん?」
「言ったはずだよ? たとえ”何”に阻まれたって関係ないさ。君がそれを望むのならば、ボクは応えよう」
身寄りと記憶の無い少女、ベティ・トリアル。
彼女との出会い、彼女とボクがこうして一緒にいること、そしてすべてが終わった後に彼女を引き取ろうとしたら”貴族”が邪魔になるであろうこと。
全てに経緯があります、途方もない経緯が。
「ふふっ、良いわ。とても良い。その心遣いだけでも、私は嬉しいの」
「……嘘か何かだと思っているのかい? ボクの言葉が」
まぁ、それも無理ないか。ボクは所詮、遠方からの客人、学問のために訪れた学院生に過ぎない。
そんなボクの言葉を、本気で鵜呑みにできるほど、ベティという少女は、幼くはない。
見た目よりも数段聡明な少女だ。なら、この反応も、仕方ないのでしょう。
「クリス、世の中ね、どうにもならないことがあるのよ。どうにもならないことが」
10歳を超えたくらいの少女が、悟ったような言葉を紡ぐものです。
けれど、思えば、ボクもそうだったかもしれない。ボクが今の彼女と同じこと感じたのは。
そう、世の中、どうにもならないことがある。でも、だからこそ、どうにかできることはどうにかしたい。
そんなことを、思うようになったのは。
「そうだね、世の中、どうにもならないことはあるよ」
――世の中、どうにもならない。目の前に突き付けられた現実は、覆せない。
ボクがそれを思い知ったとき、ボクは思った。
目の前の現実が変わらないのなら、いや、変わらないからこそ、その時々の今に行う”ボクの決断”にだけは、後悔したくないと。
「でも、これはそうじゃない。ボクには資金があるし、住処もある。学院生としての身分も、恐らく用意できる」
「……いいの? 本気にしてしまって」
「ああ、構わないさ。誰が相手だろうと、知ったことじゃない」
ボクの瞳を見つめてくるベティ。黄金色の瞳に、ボクの”真紅の瞳”が映り込んでいる。
黄金色の髪と、真紅の瞳……なるほど、確かにこれは強烈、です。
幼いころに奇異の視線を向けられたのも、分かってしまう。
「――クリスって、たまに”戦士”みたいな瞳をするのね。とてもギラギラしてる」
「そうかな……? そういうボクは、嫌いかい?」
”戦士の顔”か。きっと、ボクに流れる父さんの血なんだろうな、この顔は。
あるいは、ボクを育ててくれた”兄”の影響かもしれない。
「いいえ、大好きよ。初めて出会った”あの時”から、ずっとね」
”あの時”か、ボクとベティが出会った”あの事件”か。
あれから1週間だ、今となっては何もかも懐かしい。
最初は、自由論文のためだけに訪れた土地だったけれど、こうして思わぬ出会いがあった。
「そう言ってもらえると、嬉しいよ。ボクも、こういう自分は嫌いじゃないからね――」
さて、実際に”ベティ・トリアル”という少女を、この土地から連れ出すためには、どうすればいいだろうか。
そんな思考を脳裏に走らせながら、ボクは話していました。ボクの過去を、ほんの少しだけ。
「――戦えるボクというのは、生んでくれた父さんと育ててくれた兄さんのおかげだからさ」
「好きなのね、家族のこと」
「いいや、ぶん殴ってやりたいよ。特に父さんは今度、会ったのなら2、3発は殴るつもりなんだ」
ボクは少し、思い返していた。ボクが故郷を離れ、アカデミアという場所で”学院生”になるまでの経緯を。
そして、アカデミアで迎えた夏休み。このグリューネバルト領に来て、巻き込まれた事件を。
――全ては、あの教授の”誘い”から始まったんだ。そして出会った。記憶喪失のベティ・トリアルに。そして、忘れもしない”あの男”にも。
「あら、こじれているの? お父様と」
「ううん、そんなんじゃないよ。ただ、うん、少し、こじれてるのかな……?」
実際どうなんでしょう。ボクは、どう感じているのかな。
父さんの手引きでアカデミアに放り込まれるまで、いろいろあったからなぁ、本当にいろんなことが。
「ふふっ、いつか、会ってみたいものね。クリスのご家族に」
「うん、ボクもいつか、紹介したいな。君との出会いは、本当に、鮮烈だったからさ――」
――話しながら、ボクは、思い返していました。
今回の事件、その全ての始まりを。あの教授からの誘いから――