第1話
――よく、ドロップと試していたことがある。
彼女の、水を操る妖精としての力を、俺が真に引き出すことができたのならば、水の上でさえ歩けるのではないかと。
風呂に張ったお湯の上、島にある湖の上、段階的にその難易度を上げながら何度か試していた。
「実験は成功、だが……ッ!!」
けれど、海の上では試したことはなかった。凍てつくような海の上を歩くことができるのか、否か。
冬の島にいる間は、ついぞそれを試したことはなかったのだ。
でも、その機会は意外にも早く訪れた。そして、それが今、俺たちをとてつもない窮地へと追い込んでいた。
『来る……っ! 来るよ、ロバート!!』
――始まりは、ほんの少し前のこと。
大雨という悪天候に見舞われながらも航海を続けてきた俺たちの航路、その先に小舟を見つけたときだ。
それは余りにも粗末で、広い海を渡る力がない事は明白だった。そして、そこに乗る人間は意識を失っているように見えた。
この雨が降り続けたのならば、きっとあの船に乗っている男は助からないだろう。俺はそう思った。
『――助けに行く』
『危険だ、ロブ。こっちだって決して安全な航海をしている訳じゃない。船を近づけるだけの余力はない』
『そうだな、船は近づけなくていい。俺が行く。俺とドロップが行って戻ってくる!』
ベルの兄貴が言っていることは的確だった。
けれどもだ、きっとクリスの姉ちゃんならここであの人を見捨てるようなことはしないだろうと思ったし、何よりも俺が嫌だった。
目の前で助けられるかもしれない人間を見殺しにするような真似をして、それでこの先の旅を楽しむことができるか? 人生の喜びを享受することができるか?
そんなはずはない。俺に全くの力がなければ、この現実を受け入れることもできたのだろう。
しかし、そうじゃない。俺には力がある。ドロップという心強い仲間がいてくれる。
「ッ、凄い熱だ……」
――兄貴の反対を押し切って、海を渡り、小舟に辿り着いた。
荒れる海を歩くという初めての実験は上手く行った。気を失っているように見えた男にも、息はあった。
その胸が大きく膨らんではしぼんで、何とか生きようとしていると分かった。
しかし、こうして抱えてみると、あまりにも体温が高い。酷い熱、この大雨、すぐに安静にしてやらないと命に関わる。
『ロバート! どうするの?!』
ドロップの悲鳴が聞こえる。それもそうだ。
だって小舟に辿り着いた直後に、巨大な蛇のような触手が海を割ってせりあがってきたのだから。
状況は最悪だった。俺たちの船と辿り着いた小舟、その間を断つように触手は構え、こちらを狙ってきている。
「蹴り上げるぞ……ッ! ドロップ!!」
『分かった――!!』
曇天に届くように振り上げられた触手は、こちらを狙い振り下ろされた。
だから俺は助けた男を抱えながら、小舟から飛び退き、さらに水を蹴り上げた。
ドロップの力を借りながら、水を操ることで小舟を迫る触手への盾とした。
「……ほんと、お前といて良かったわ。ドロップ」
『いいから走る! 逃げる! 走る!』
仲間たちとは真逆の方向になってしまうが、走るしかあるまい。
それはドロップの言うとおりだ。幸い、この先には島が見えている。
あの場所までなら、走り切れるはずだ……!!
「……キツいな、これ!」
意識のない人間を抱えて走るということが、こんなに辛いとは。
けれど、こいつの異様に高くなっている体温を感じると、本当に命懸けなのだと実感する。
今、俺はこいつを生かせるかもしれない。死なせてしまうかもしれない。そういう場所に立っているのだ。
『後ろ、来るよ!』
「――壁だ、水の壁を作る!」
ドロップの力と俺の中に宿る力が、首にかけた青い宝石に流れ込み、俺の思考は具現化する。
水を操り、触手を防ぐような大きな壁が現れる。
その隙に更に前へ、前へ、島だ、あの島に駆け上がって、その先の森に逃げ込む。
こちらを追ってきているあの触手も陸には上がれないだろうし、仮に上がってきたとしても森を越えては来ないはずだ……ッ!!
『だめだ~! 止まらないよ、ロバート!』
ッ、水の壁はそこまで堅牢に組み上げることができなかった、のか。
触手は既に俺たちの頭上にまで迫って、その影が落ちた。
「ドロップ……ッ!!」
思い描くは、水の弾丸。壁を作っても長くはもたないし、堅牢なものにはならない。
ならば、水を操り、それを放てばいい。ひとつひとつは一瞬で消えて構わない。
ただ、その弾丸があの触手の軌道を少しでもズラせばいい。
そして同時に、俺の足元の水をも操り、加速する! 攻撃と逃げ、その両方に力を使うのだ!
「おおおお!!!! 止まらねええええ!!!」
自分の足場としていた海、その表面の水を操り、自分自身の足を身体を滑らせた。
咄嗟の思い付きは予想以上に上手く運び、運んだのは良いが、加速の付いた身体は止まることなく、このままではあの砂浜にぶつかってしまうことになるだろう。
そうなれば、追いつかれるのではないか? まだ後ろに見えているあの触手に、かろうじて回避できたにすぎないあの触手に追いつかれるのではないか?
『ロバート! 跳んで! ジャンプ――っ!!!』
ドロップの叫びに従い、滑りながらも水を蹴り上げた。
その瞬間、空中に水の足場が出来上がっていき、そのまま砂浜の上まで滑り込んでいく。
……ドロップめ、いくら大雨が降っているからって、降り落ちる雨を操って道を造るとは。つくづくとんでもない妖精だ。
『ふふん♪ わたしといてよかったでしょ? ロバート♪』
「ああ、骨身に染みるよ。ありがとう――」
久方ぶりの砂浜、航海に出てから初めての陸地、それがまさかこんな感慨に浸る暇も与えられない窮地の中だとは。
未来には何が待っているか本当に分からない。
けれど、俺が助けた男はまだ生きている。砂浜の先、森に入ることもできた。触手も手をこまねているように見える。
「……俺にここまでさせたんだ、死ぬんじゃねえぞ」
そのためにはまず雨を凌げる場所を探さなくては。この森の先に、そういう場所があればいいが。
『知らない森、知らない場所、ワクワクするね♪ ロバート』
「まぁ、もう少し落ち着いて上陸したかったよ……」




