第8話
――氷停神サータイトの神殿。
白い大樹のような石によって造られたその場所に足を踏み入れるのは、サータイト家の俺でさえ、滅多にない事だ。
女神の神子であるレベッカ・サータイト以外は、滅多に足を踏み入れない聖域。
(とうとう、この日が来たのか)
この”冬の島”に生まれた人間は、人生で必ず一度だけ、この聖域に足を踏み入れる。
成人の日、女神の神託を受けるその日だけ。必ず。
「……本当に俺も入って良かったのかよ? 15年生きてないぜ、俺は」
『それを言ったら私なんて何年生きてるか分からないよ♪』
ふざけ合うアドリアーノとドロップ。そんな2人を横目に、俺たちは緊張していた。
バネッサもクラリーチェも、そしてこの俺でさえも。
……白き正装に身を包み、文字通りサータイトの神子としての役割を全うしているレベッカから神託を受け取る。
たったそれだけのことなのに、ここまで緊張しているあたり、やはり俺もこの島の住人ということか。
「外はあんなに騒がしかったのに、入ってみるとまるで”この世の終わり”みたいだね」
「……全てが停まる時の果て。それこそが我らが至る最後の地であり、我らが生まれた最初の地である」
「遠い昔の神子の言葉かい、ロバート」
文献が残る範囲では最初期の神子の言葉だ。”氷停神”という名を付けたのも確か彼女だった。
全てが静止した世界から、動きが生まれ、全てはまた静止する。
動きの連鎖から生まれた人間が至る果てこそ、女神が待つ世界であると彼女は綴っていた。
「サータイト様は、全てが静止していた原初からを司る女神だ。
だからこの”神殿”もそういう場所なのさ。バネッサ」
「解説どうも――じゃあ、先陣は私がいただくよ? 構わないね?」
ひとりでに開かれる最奥の扉、俺も踏み込んだことのない場所。
成人を迎える者は1人ずつその場に進め。それがレベッカからの指示だった。
だから今、バネッサが入っていく。彼女もまた白き正装に身を包んで。
「……果敢ですね、流石はバネッサです」
「緊張、してるのか? クラリーチェ」
「ロバート、貴方には言われたくないですね。妹さん相手だというのに」
クラリーチェの視線は、眼鏡が反射してまるで見えなかった。
それでも声色で分かった。まもなく迎える順番を前に彼女は緊張していた。
「妹だから緊張するのさ、完全にサータイト様の神子であるレベッカと向き合うことは殆どないからな」
「……そういう、ものですか」
「そういうものさ。神子の家系といえど、俺は神子じゃない。レベッカとは違うんだ」
今、バネッサは、どんな神託を受けているのだろう。
そもそもこの先で待ち受けるものはいったいなんなんだろう。
『でもアドリアーノって何を言われるんだろうね?』
「さぁな。今さらお前らを守るってこと以外の神託を受けてもどうしようもねえけど」
『守ってくれるんだ♪ 私たちのこと♪』
……やれやれ、2人はのんきで羨ましいな。
そうしてしばらくの時間が流れた後だ。少しだけ髪の濡れたバネッサが出てきたのは。
入れ違いでクラリーチェが入っていったのは。
「――何を言われた、バネッサ?」
「ふん、こういうのは秘めておくのが華だろう?」
そう笑う彼女が、妖艶に見えた。
……なるほど、これが”成人の儀”か。確かに意味のあるものらしいな。
「ロバート、これからの旅よろしく頼むよ」
彼女の手のひらが俺の肩を叩く。
いったい何を言われたのかは分からないが、やはり未来に関わる話をされたらしい。
「ああ、任せてもらおう。最高の旅にしてやる」
――そして順番は過ぎていった。
クラリーチェの次はアドリアーノ、アドリアーノの次はドロップだけが指名された。
それぞれがそれぞれに受けた神託の内容を話すことはなく、俺の順番が来た。
胸に眠るドロップさえいない、たったの1人で俺は踏み込むのだ。神殿の最奥に。
『――ようこそ、ロバート。女神サータイトに代わり、このレベッカが貴方の成人を祝します』
最奥、そこは今までいた神殿よりもなお冷え込んでいた。
なのに凍えるという恐怖はない。ただ安らぐような静けさがあった。
そして俺を迎えるレベッカの髪と瞳は、青色の輝きを放っていた。
「謹んでお受けいたします。神子レベッカ――」
妹の前に跪く。いいや、妹ではない。目の前にいるのは”氷停神サータイト”に最も近い神の子だ。
この娘が俺と血を分けた兄妹だなんて、信じられないくらいに。
『では、こちらへ』
招かれる先、そこにあるのは湧水が貯められた堀だった。
ただの風呂のようであり、同時になんだろう、棺のようにも見えた。
なるほど、バネッサたちの髪が濡れていたのはこういうことか。
「この中に入れってことか」
こちらの確認に優しく頷くレベッカ。
……少しだけ息を呑み、俺は足を踏み入れた。つま先から頭の先まで湧水に満たされていく。
冷たいはずのそれに痛みはなく、ただ柔らかくこちらの感覚を包んでいく。
(不思議な、感覚だ……)
水の中から顔だけを上に出す。
そんな俺の肩を抱くようにレベッカが腕を回す。
……神託の時、という訳か。
<ロバート、貴方が”彼女”を追って私の元を旅立つのならば、貴方はきっと”世界の始まり”に向き合うことになる>
彼女に近づけば、世界の始まりに向き合うことになる、だと……?
クリス・ウィングフィールドを追えば、神話の始まりに行きつくというのだろうか。
あの人は、そんな人だったか。そうではないように感じたと俺は覚えている。
<貴方は全てを知り、そして戻ってくるのです。この場所へ>
戻ってこい――だと? ただの1人の帰還者も許さないこの島へ、戻ってこいというのか……! サータイト!
「おい、待て。どうしてクリスの姉ちゃんが世界の始まりに関わる? どうして戻って来なきゃいけない?
アンタが俺に何かをさせたいのなら、もっと詳しく教えろ。アンタの知っていること、全て!」
レベッカの肩を掴んでいた。
そして、悟る。こちらからの質問に意味はなかったのだと。
既に彼女はレベッカだったんだ。サータイトはそこにいなかったのだ。
「……ごめんなさい、兄さん」
「いや、こっちこそ不敬だった……こんなんだから神子になれなかったんだよな、俺は」
「ううん、そんなことない。兄さんは、神子でなくたってこの先、もっと重要なことを果たしていく」
――レベッカは、何を見たんだ。サータイトに何を見せられた……?
「何を見た? お前は何を知っている……?」
「……分からない。具体的なことは、何も。
分かるのは兄さんの未来には栄光が待っているってことくらい。そしてその栄光に至るための苦難も」
ッ……そうか。
神子とは言え、サータイトと同じ認識を持っている訳じゃない、よな。
「でも、お兄ちゃんは、ここに戻って来ない方が良い。過去に栄光はないよ」
……戻ってくるな。
その言葉が強がりであることくらい見れば分かった。
たとえ神子であろうともレベッカは俺の妹だ。妹の強がりくらい、見抜けない兄ではない。
「――いいや、戻ってくる」
「え?」
「外の世界の全てを記し、お前に持ち帰ろう。この俺が見た全てをお前に聞かせてやる」
帰ってくる気などなかった。いいや、帰って来られないと思っていった。
けれど、サータイトが俺に命じるというのならば、帰ってこようじゃないか。
この世界の全てを知り、冬の島へと持ち帰る。旅に連れていけないレベッカのために。
それが、この俺が女神の神託に対して出す答えだ。
「……分かった。首を長くして待っているね、兄さん」
「ああ、長い旅になるだろうからな。元気にしてるんだぞ、レベッカ」




