第52話
{キュルルルル――ッ!}
その音を、初めて聞いたのはいつの事だったろうか。
魔力が車輪を回す独特の音、金属の車体が揺れる音、バイクという乗り物を、初めて見たのはいつのことだったろうか。
それがいつのことだったのか。それはもう思い出せない。けれど、ひとつだけ明確に覚えていることがある。
『わぁ……かっこいい』
――幼い日の俺は、あのバイクというものを見て”憧れ”を抱いた。
その武骨な金属の塊に、そして、それを操る大人の女性に。
彼女こそ、俺が見た初めての、家族以外の初めての”女の人”だった。
「――アンタら! 間違っても動くんじゃないよ!」
あの日と同じ、いや、あの日よりも歳を重ねた彼女が叫ぶ。
そして、その叫びを実行できないエルトとリリィではなかった。
たとえそれが今まさに、刃が振り下ろされそうとしている瞬間であろうとも。
「ッ――!!」
――まず、2発。俺が情けなく息を呑んだ瞬間に2発。
それでエルトとリリィに向けられていた刃を逸らす。もちろん、それでは終わらない。
たった2発で倒せるほど霊体は弱くはないし、追撃を放てないほど彼女の手札は少なくないのだ。
「伏せなさい――ッ!」
右と左、2丁の拳銃を重ね、変形させる。その動きで、俺は彼女の次の一手が分かる。
――エルトとリリィ、2人が伏せたその瞬間、変形させた拳銃から強烈な魔力光線を放つ。
それは水平に広がって、そこに居合わせた全てを分断する。純粋な魔術師でもある彼女にこそ許される一撃。水平射だ。
「ッ……トリシャ! 後ろだ!」
エルトとリリィ、2人を襲っていた霊体たちは打ち倒された。
だが、2人を救った張本人トリシャ・ブランテッドの真後ろに、迫っていた。
霊体が、その刃を、振り下ろそうとしていた。
――ガチリ。金属音が虚しく響く。
トリシャを救うため、俺は1発の弾丸を放った。はずだった。
だが、空っぽの俺には、何もできなかった。たった1発の銃弾さえ、俺の魔力では、用意できなかったのだ。
「ッ――トリシャァアアッ!」
振り下ろされる剣。もう、ダメだと思った。
その刃は確実にトリシャの首に触れていたから。
でも、当の彼女は不敵に笑っていて、ゆっくりと合体させていた拳銃を解除していた。
「――ねぇ、ジェフ。忘れたのかい? 私は”魔法使い”なんだよ」
剣が、トリシャの皮膚を破ろうとした、その瞬間だ。
強烈な魔力が迸り、霊体の刃が弾き飛ばされた。そして、振り向き様にトリシャは叩き込む。無数の弾丸を、その胴体に。
霧散していく霊体――その様に自分と彼女の持つ魔力量の絶対的な差を思い知る。俺は、あそこまでの乱射をした時点で空っぽになる。
でも、トリシャはまだ涼しい顔をしているんだ。これが純粋な魔法使いの、力なんだ。生まれ持っている魔力量が違うのだ。
「フフッ、アンタのことだ。債権者の私が死んで万々歳って言うかなって思ってたよ」
「……ッ、ふざけんな。確かに俺はアンタを恨んでる。でも、本気で死んでほしいなんて、思うわけないだろ」
「――ありがとう。さぁ、こっちへ来な。みんな、ここで死にたくはないだろう?」
俺に近づき、エルトとリリィを招くトリシャ。
彼女のバイクを見ながら、俺は思い出す。――彼女のバイクが”サイドカー”というものに変わったときのことを。
いつもは背中に乗せてもらっていたのに、隣に乗るようになった日のことを。”お前が最初の同乗者だ”なんて言われた時のことを。
「ブランテッド教授。なぜ、ここへ? ここはもう終わりです。助かりませんよ、貴方も私も」
「――太陽落としが実行されるから助からないってかい? リリィ・アマテイト」
「ええ、もうここは爆心地に近すぎる。逃げる時間は、ない」
淡々と語るリリィ。死が迫っているというのに、彼女は取り乱さない。
まったく、なんて強靭な精神力なんだろうか。
「ふふ、そうだね。その通りだ――全くおかしな話だよね。2人もの若者を見殺しにしようだなんて教会は狂ってる。
それを追認する教授会も同じだ。……まぁ、そこで割を食いそうなアンタも災難だよね、カーフィステインの坊ちゃん?」
「ほう、ブランテッド教授には僕の名前を憶えていただいていましたか。光栄です」
状況が状況だというのに、涼しい顔をしながらトリシャに頭を下げるエルト。
こいつは、きっと死を覚悟していないのだろうな。トリシャがここにいるんだから、彼女がここに来たんだから、何かある。
そう確信しているんだ。
「――フン、お前みたいな人間はすぐ覚えるよ。特に私のジェフリーにちょっかいを出してくれているんだから」
「ちょっかいだなんてそんな。彼とは気が合うだけの話です」
社交的な笑みを交わすエルトとトリシャ。そしてエルトは重ねて返す。
「それで、貴方がここにいるんです。何かしらの策があるんでしょう? このジリジリと迫る太陽から生き残るための方策が」
「もちろん。そうでなければ、そもそもジェフを行かせはしない。私はこの手段を選べるからこいつを見送ってやったのさ。バルトサールの口車に乗せられてやった」
そう言いながら俺の肩を抱くトリシャ。鋭くも温かい香水の香りが漂ってくる。
懐かしくて、落ち着く香りが。
「その方策とやらを教えていただき――」
サイドカーに近づいたリリィの言葉が止まる。彼女は見つけたのだ。
トリシャが用意した”方策”を。原理は分からないが、俺もこれこそが逆転の鍵なのだろうと考えていたそれを。
「ッ――ブランテッド教授、あなたは……?!」
リリィが見たもの、そして俺が見ていたもの。それは、サイドカーに座る1人の女性。
真紅の髪を持ち、両眼を閉じた”アマテイト神官”
神官というものに詳しくない俺でも、サイドカーに座る彼女がバルトサール筆頭よりも上であることが分かる。そういう風に装飾された神官服を纏っているのだ。
そんな女性が両眼を閉じて、ただ座っていた。
「――説明は、後にさせてもらうよ。これね、浮かべておいて落とさないのすっごく難しいだもん♪」
炎を宿した瞳が開かれる。そしてトリシャの連れてきた神官様はニヤリと笑い、トリシャは俺たち全員を一層引き寄せた。
そして、瞬きの次、落ちた――太陽が、落ちたのだ。




