第50話
「……証拠なら、フランセルの日記なら、腰巻きの中にある」
凄腕の暗殺者が俺の首元に、刃を突き付けていた。
2度も一緒に死線を越えた女に、俺は馬乗りにされていた。
「分かってるわ。そこくらいにしか仕込める場所、ないでしょ?」
「……どうしても、奪うのか?」
「ええ、これが私の仕事だもの。貴方が依頼主を裏切れないように、私も依頼主は裏切れないの」
アティが取り出していく。奪っていく。フランセルの日記を。
バルトサール・アマテイトという男の悪事を一発で示す証拠を。死霊呪術と竜人化という禁断の情報を。
――ライティカイネン家を陥れた者達、バルトサールが望んだ復讐、その矛先に繋がる”唯一の道筋”を。
「ッ、どう、脱出するつもりだ? まもなく太陽が落ちてくるぞ」
「ご心配なく。転移魔法はまだ使えるわ」
脱出までは協力しようというのも無理な話か。
まぁ、それもそうだろうな。それを考えていれば、ここで口火は切らない。
「……どうしても、か? どうしてもお前は、ここでそれを奪っていくのか? ここで別れるのか?」
「ええ、そうよ。別に元から仕事だと分かっていたでしょ? どうしたの? 急に湿っぽくなっちゃって」
アティの指先が、こちらの頬に触れる。フランセルの日記は既に胸元に仕舞われた。奪還は不可能だ。
「……俺はまだ、お前に借りを、返していない」
「ん? 何のこと……? ってああ、あれね。あなたを助けてあげたこと、まだ気にしてくれてたんだ?」
クスクスと笑うアティ。その表情にドキリとさせられる。
「ならそれはこれでチャラってことで良いわよ。貴方は私に押し負けて”証拠”を奪われただけなんだし、リリィちゃんたちにも説明はつくでしょ?」
――ふざけるな、こんなことで、お前への借りを返しただと?
冗談じゃない。こんなつまらないことで……。
「なぁ、アティ。”ベースメント・オルガン”って、なんだ――」
紡ごうとした言葉、それを完全に発声できていたのかは分からない。
その前にアティの人差し指が、俺の唇を塞いでいたから。
「――その名前、2度と口にしないで。私、あなたは、殺したくないの」
間髪入れずにもう一度口にしてやろうかと思った。
ベースメント・オルガンともう一度、言ってやろうかと。
でも、そんなことできなかった。アティの眼を見ると、そんなおふざけをする気は失せた。
「……どう、して?」
「詮索もしないほうが良いわ。あなたは全て、忘れなさい。闇夜の盾として生きる上でもこの名前は出さないことね」
アティの顔には慈愛が満ちていた。本気で俺を、心配してくれているように見える。
「……それが、俺の親父を、殺した組織だとしても?」
「ッ、没落貴族……だったわね。ライティカイネンと、同じ……」
首元に突き付けられていたナイフが離れる。そして、アティはゆっくりと立ち上がった。
彼女の意図は分からない。それでも俺は急に、自由の身になった。
「――来る?」
ナイフを構えるアティーファ、彼女は戦闘態勢に入った。
「どういうつもりだ……?」
「簡単な話よ、あなたが私を倒せば、あなたは”証拠”を取り戻せる。書いてあったんでしょ? ”オルガン”のことも」
「つまり、戦って勝ち取れということか」
腰から拳銃を引き抜き、ガチリと音を鳴らす。
魔力切れだ。使い物にならない。
「あら、あなたも飛び道具は、もうダメなんだ?」
「……ああ、やめにしよう。お前を倒せるわけもないし、倒したところでどうにもならん」
「良いの? お父さんの仇を、取りたくないの?」
アティの挑発に首を振る。
「……その日記にそこまでの情報はない。それにお前相手に、殺さずに勝つなんて無理だ」
「あら、殺せば勝てると思っているのかしら?」
「不可能とは、思っていない……だが、お前から何も聞き出せなくなる。意味がない」
俺の言葉にアティは、背を向けた。
「――後悔しても、知らないわよ? もう2度と会うこともないんだから」
「そいつは、どうかな。俺はお前に借りを返していない。そういう不義理は俺の流儀に反する」
振り向き越しに琥珀色の瞳が、俺を見つめていた。
「また会うことになるって、そんなこと、信じているんだ?」
「悪いか? 2度目があったからな」
「……いいえ、悪くない。むしろ好きよ、そういうの。それでこそあなたを生かしておく意味があるもの」
”また、会いましょう? ジェフリー・サーヴォ”
――それが別れ際の言葉だった。彼女は煙とともに姿を消して、追うことさえできなかった。
随分と器用な真似ができるものだ、なんて思いながらも彼女らしいと感じていた。
(……あいつ、どうして俺に”戦う機会”なんて、用意したんだろうな)
彼女の仕事として、必要な行動ではなかった。
それなのに、俺が没落貴族だと、俺の父親の仇が”ベースメント・オルガン”だと聞いて、彼女はああいう行動を取った。
――”闇夜の盾”のマルティンは、アティーファの雇い主を知らないと言っていた。
バルトサール・ライティカイネンは、アマテイト教会内部の人間であり、だからこそアマテイト教会は完全に後手に回っていた。
(……アマテイト教会よりも一段早くフランセルとバルトサールの計画に気づけた”アティの依頼主”か。
あの日記には書かれていたな。目的は、オルガンへの参入、そして復讐。内部から破壊すると)
つまりはそういうことだ。アティーファ・ランディールの依頼主は”ベースメント・オルガン”なのだ。
いったいこの単語が何を意味するのかは分からない。それでも10年前の政変を仕掛け、親父を死に追いやった連中なのだろう。バルトサールたちの言うことを信じれば。
そしてアティという女は、オルガンが雇っていた傭兵。それも与えられた仕事からして飛び切り優秀で、関係の深い傭兵。
(――次、あいつに会えたら、俺は何をどうすればいいんだろうな)
母さんが追い求め続けた”親父の仇”に繋がる情報源として接するのか、命の恩人あるいは死線を共に潜り抜けた戦友として接するのか。
そもそも本当にそんな日が訪れるのか。
……考えても仕方ないことだ。朝焼けは近づいている。だから俺は向き合わなければいけない。この死都から、脱出できるかどうか? その命題に。




