9 覚悟
№9 覚悟
夕暮れが辺りを照らしていた。赤い光のもとで建物の影が長くのび、まるで戦火の中でうろたえる亡霊のように見える。
城の中には悲しみの嘆きが響き渡っていたが城の外には漏れだしていなかった。街全体は兵士達が忙しげに駆け抜けていくだけで、住民達は家の中にこもっていた。
マーカスは今日、城で食事をするために自分の持っている中で一番上等な服を着ていたが、かまわず地べたに座り込んでいた。そこは城の胸壁の真下だった。
マーカスはクライネが気絶したあと、何も出来ずに突っ立っていた。フラビウスは様子がおかしいマーカスに訳を尋ねたが、マーカスは「あの破片は貝殻だったんだ」とたどたどしく答えることしかできなかった。
フラビウスはそれだけで何が起こったのかを悟ったようで、クライネは疲労とショックで気を失っただけだと言うことを伝え、マーカスにも外の空気を吸ってくるように言った。
マーカスは口ではそうしようかと答えたが、足は床に張り付いたように動かず結局フラビウスに背中を押されて外へ追いやられたのだった。
「後のことは何とかする。お前は家へ帰るんだ。明日来る勇気があるのなら、そのときはありがたくその申し出を受け入れるが、だが今はだめだ」
そしてマーカスは頷いて帰るそぶりを見せたがやはりそんな気分にはなれずに城を出た後、胸壁に背を預けて座り込んでいたのだった。
マーカスは自分が何に困惑しているのか分からなかった。
ぼぅっと座り込んで考えていてもその正体はぼんやりとして見えるだけではっきりとはわからなかった。
そんなマーカスの上に、街を覆う亡霊の影よりいささか陽気な影がかかった。マーカスは顔を上げた。
「マーカスよ、気分はどうだ」
「クロウディウス殿……」
「酷い顔色だ。戦争の時のことを思い出すくらいに」
クロウディウスは途方に暮れた青年にそう声をかけてやり、隣に座った。マーカスは無気力な声で言った。
「お疲れ様です。こんなところにいても良いのですか」
「私が自分の休憩時間をここで過ごすと決めたのだから問題有るまいよ。
今はそれよりも君の顔色の方が気になる。なにか重大なことに迷っているように、そう見える」
クロウディウスは無理にわけを聞こうとはしなかったが、マーカスをそのままにしておく気持ちもなさそうだった。
マーカスはもう一度クライネの手に突き刺さった桃色の貝殻の破片をおもいだした。
おそらくクオーレは混乱状態だったろう。その中でクライネは唯一あの貝殻だけを手に持っていた。
クライネにはあれ以外持つものがなかった。
ただの貝殻を生死の境に持ち出すわけがないとマーカスにはよく分かっている。あれは自分が差し上げたもので、だからクライネはそれを持ち出した。砕けてしまうほど強く握りしめた。クライネはマーカスの助けを求めていたのだ。
「主君に仕えると言うことがどういう事なのか分かっていたつもりでした。だけど俺はぜんぜんわかっちゃいなかった。俺には本当の覚悟が足りていなかったんですね」
「どんな覚悟かね、それは。昼間に話した青年は姫のためならどんなことでもやってのけると自信満々に述べていたではないか」
「どんなことでもやる覚悟はあったんです。
だけどどんな事でも受け止める覚悟は出来ていなかった。
覚悟もなしに受け止めるには、あれは重すぎた。大切な人の命を預けられる重みを、俺は知らなかった……!」
マーカスは膝の上にのせた手を強く握りしめた。悔しくて悔しくて涙がにじんできた。
でも俺はいったい何が悔しいのだ。マーカスは訳が分からなくなってうつむいた。
「私が君くらいの時はそんなことは考えもしなかった。それだけ分かったのなら後は何とかなるだろう。一晩よく頭を冷やすのだ。
一番してはならないことは、決心が付く前に主君の前に出ることだ」
クロウディウスは立ち上がると、マーカスの頭に手をおいて、父親が息子にするように髪をかき回した。そして最後にぽんぽん、と頭を優しくたたいて去っていった。マーカスも少しして立ち上がり家路についた。
家に着くとすぐに母が駆け寄ってきてマーカスの肩を持ち、心配そうな面持ちで顔をのぞき込んできた。マーカスは顔を背けて自分の部屋に入っていった。
「マーカス、なにか食べたらどうだい。あんな出来事の後では仕方ないけれど顔色が悪い」
「いいんだ、放っておいてくれ」
マーカスは扉越しにそう返して自分の質素な部屋を見回した。母が言う「あんな出来事」とはクオーレが陥落したことだが、マーカスにとっての「あんな出来ごと」はもっと色々あった。
その違いがマーカスを苦しめ、そっ気なくさせた。
部屋を見回していたマーカスはふとテーブルの横のタンスを目にし、ほぼ無意識のうちに引き出しを引いた。中にはクライネがあの日砂浜においていった貝殻と、その下に手紙が置かれている。マーカスはそれらを手にとってテーブルに置いた。
貝殻の下に置かれたのは幾度となく読み返してきたクライネからの手紙だ。
マーカスにとってクライネとの出会いは不思議なものだったが、クライネにとってもそうであったに違いない。初めて手紙を交わし、お互いに頑張ろうと励まし合った。
マーカスは急に、この数年間の出来事を一気におもいだした。自分はなぜいままでこんなにも頑張ってきたのだろうか。それは明白だ。
ランプの光もなく薄暗い部屋は、窓の周辺だけが夕日の残光でほんのりと明るかった。まるで無気力だった自分の世界に入り込んできたクライネのようだ。
マーカスは涙を流し、貝殻を手に取った。
どうしてこんなにも悔しかったのかやっと分かったのだ。この数年間自分が積み上げてきたものは結局今日なんの役にも立たなかった。
クライネを思う気持ちを忘れたことなど一日もなかったのに、いざそれが必要となったら自分は足がすくんで動けなかった。それが不甲斐なかったのだ。
もう涙を流すのはこれきりだ。マーカスはそう考えた。
そして手に力を込めて涙を押し込めた。
貝殻はぱきっと音を立てては手のひらに突き刺さったがマーカスはほとんどその痛みを感じなかった。貝殻がぐしゃぐしゃになってしまった後で、傷はずきずきと痛んだ。
この痛みを俺は一生忘れない。マーカスは涙をぬぐって立ち上がった。
***
「フラビウス。昨日は不甲斐ない姿を見せてすまなかった」
翌朝、マーカスは訓練生の姿で城を訪れ入り口で待っていたフラビウスに一番にそう告げた。
「もういいのか」
フラビウスはそっ気ないそぶりで尋ねた。マーカスはフラビウスの瞳をしっかりと見つめていた。
そっぽを向くフラビウスを根気よく見つめづすけると、フラビウスの堅い表情はふっと緩み、そっ気なさも消えた。残ったのは親しみの色だけだった。
「分かったよ。お前の決心はよく分かったし、事実俺にはどうしようも出来ないことも明確だ。目を覚ましてから魂が抜けたように椅子に座って窓を見ているだけなんだ。
何も召し上がらないし、そもそも眠っていたのかすら怪しいところだ。マーカス、お前がクライネ様を救ってやってくれ」
救ってやってくれ。その言葉が重くのしかかることは無かった。
マーカスは覚悟を決めてフラビウスに続いた。案内されたのは昨日と同じ部屋だった。扉の前には二人の兵士が構えており、フラビウスとマーカスが行くとさっと横に引いた。
フラビウスはなるべく優しく聞こえるように小さく扉をたたいた。返事は帰ってこなかったが、椅子を引きずる音がした。
「マーカス、頼むぞ」
「ああ。フラビウスよ、俺が良いと言うまでは外にいてくれないか」
フラビウスは頷くかわりに一歩下がった。今度はマーカスが扉をたたいた。
「クライネ様、俺です。マーカスです。あけますよ」
向こうから開いてくれるのを待っていては日が暮れてしまうだろうと、マーカスは少し強引かと思いつつも声をかけ、ゆっくり扉を開いた。
「クライネ様……」
クライネは窓辺の椅子に座り、顔を背けていた。膝に置かれた手には包帯が巻かれている。髪もおろしたままクシも通していないようで、まるで亡霊のようだとマーカスには思われた。
窓に映るクライネの顔色は酷く悪く、目がうつろだったからだ。クライネは今、死にかけているのだと分かった。
「クライネ様、食事も取っておらぬとフラビウスから伺いました。
何かお召しになりませんか。このままでは倒れてしまいますよ」
クライネが何も言わないので、マーカスはゆっくり彼女に近づいた。
マーカスはいつでも拒否できるように十分に時間をかけ、無理を強いずにクライネの正面まで来た。相変わらずクライネは窓の外へ視線を投げやり、顔を向けない。
マーカスは膝を突いて、クライネの手を取った。クライネはようやく手元に視線を向けた。
「傷は大丈夫ですか。あれはさぞ痛かったでしょう。
私も自分の貝をダメにしてしまいました。また、二人で探しに行きませんか?」
マーカスはゆっくりそういった。クライネの視線は自分の手とマーカスの手を行ったり来たりしていた。マーカスの手にも雑に包帯が巻かれ少し血がにじんでいた。
クライネはよろっと立ち上がり、椅子は倒れて音を立てた。そのままマーカスの手を振り払い後ずさった。
「クライネ様……」
「ねぇ、私が……私がこの国に居ることは、マーカスには良いことなの? 悪いことなの?」
マーカスは口を開いてから、詰まったような声を上げて閉じた。
うかつなことは言えない。良いとも悪いともマーカスには選べなかったし、どちらがこの少女を傷つけずに済むのかマーカスには分からなかった。
だがそうしてマーカスが思い悩み焦っている間にクライネはもう一歩下がり、悲痛な表情で叫ぶように言った。
「そう、そうよね! なんにも言えなくて当然だわ! どっちみち私は傷つくんだもの!
ねぇ、でもそんな事はどうでもいいのよ、本当の気持ちはどっち?
私が来たこと嬉しく思ってるの? ならそれはクオーレの敵だわ。
じゃあ私がここに来たこと面倒に思った? 私のこと気にかけなくちゃいけなくて、迷惑してるの? ねぇ、どっち!」
何も言わなかったことが一番の間違いだったとマーカスは思った。泣き叫ぶクライネは、自分の居場所がないことを訴えていた。
マーカスは無理に近寄らずに、しかしクライネの瞳の奥までのぞき込むように彼女を見た。
「姫、私にもわかりませんよ。良いか悪いかなんてなんとも……だけど、俺は貴方がここにいることは良いことだと言うことにしておきましょう。
だって、もしもクオーレが違う国に助けを乞うていたら私は貴方を救えないじゃないですか。
良いですか姫、俺が一番苦しいのは貴方が泣いていることです。どうか、あなたが少しでも楽な気持ちになれる手伝いを俺にさせてください」
クライネが、どんなに視線をそらしてもマーカスは絶対に視線をそらさずにいた。
自分は真剣なんだと思いを込めて見つめ続けた。クライネは涙をぬぐってようやくマーカスの顔を見た。
「ねぇクライネ様。あなたは私に助けを求めているんでしょう?
昨日の私にはどんなことでもするという覚悟はあったのに、どんなことでも受け止める覚悟というものがなかったと気が付かされた。だから私は今日こそはその覚悟を持ってここへ来ました。
私はなんでも受け入れます。なんでもおっしゃってくださっていいんですよ」
クライネの握りしめた手に巻かれた白い包帯は、いつの間に血でにじんでいた。
「――っ本当は……マーカスに助けてほしくて、だけどテーネロの見習い騎士にそんなこと願ったら、きっと重すぎるって思って、でも誰に助けて貰ったらいいのかわかんなくて……苦しかった。苦しかったんだよマーカス」
「それは私が至らなかったせいですね。申し訳ない。主君にそのように思わせてしまうだなんて、私はまだまだ未熟者だ」
「マーカス……」
「これから私と貴方の立場がどうなるかは分かりませんが、私は勝手に貴方を主君だと思っていますから、どうかそれだけは心に留めておいてください。」
少しの間マーカスを見つめてから、クライネは幼い子供がするように素直に頷いて、少しだけ笑みを浮かべた。安堵の表情を浮かべるクライネにマーカスもなんだか安心して笑った。
何事も解決はしていないが、マーカスが受け入れたことでクライネには居場所ができた。今はそれだけで、大丈夫のはずだ。クライネは取り乱したことを少し恥ずかしく思ったのか、少しまごつきながら小さな声で言った。
「おなかすいちゃったわ」
「そうですか! 良いことです。すぐに用意して貰いましょう。
おおい! フラビウス来てくれよ。クライネ様はお腹がすいたんだそうだ」
マーカスがわざとっぽく呼びかけるとフラビウスが「仮にも一国の王子だぞ俺は!」とこれもまたわざとらしく言いながら扉を開けた。
そんな二人のやりとりにクライネは今度こそちゃんと笑ったので、マーカスは満足げにほほえんだ。
なんでもできることと、なんでも受け入れること。