8 絶望
№8 絶望
城を出たクロウディウス、マーカス、フラビウスと他の兵士達は走って海岸へ向かった。マーカスは本当のところもっともっと速く走りたかった。
だがクロウディウスの前に出るわけにはいかず、もどかしい気持ちで一杯だった。
やがて海岸に着くと、そこは人で溢れていた。舟はまだ到着していないようだ。クロウディウスは人をかき分けて兵士達に住民を港から遠ざけるようにそれぞれ配置に付かせる。
マーカスはその兵士の壁の内側に入りクオーレの舟を待つことを許された。興味津々の子供達は兵士でもないマーカスが内側にいることを不服そうに見ていたが、やがて舟の姿が見えると事態を把握してきたようで、不安そうな顔つきになった。
テーネロ王が港に到着した頃、二隻の大型舟も到着した。外傷は少ないが多くの人を乗せているため、今にも沈んでしまいそうに見える。
人で一杯の甲板からは泣き叫ぶ声や怒鳴り声が聞こえてきた。最初に舟を下りてきたのはクオーレの国王だった。住民はクオーレ王を見ようとしたり、事態を把握しようとして身を乗り出し、兵士達は苦労してそれを引き止めた。
マーカスはクオーレ王を見やって、うつむいて拳を握りしめた。まだクライネの姿は見あたらない。
「アントニティウスよ」
「ああ、フロンティアヌス……」
テーネロ王がクオーレ王に呼びかけると、クオーレ王もそれに返し二人はよろけるように近づいて互いの肩を抱いた。それは長年の友が肩を抱き合っているのだった。
「災難でしたな……。しかしもうここは平和ですぞ。落ち着きなされ」
「何を落ち着いていられようか! クオーレが……私たちのクオーレは焼け、私の国民の多くが虐殺されたというのに……!」
クオーレ王の嘆きは怒りを含んでいた。そして多くの悲しみ、計り知れない国王としての無念も。
「安心なされ。運良く生き残ったあなたがたを私は受け入れますぞ。
テーネロとクオーレは長年の友。そして私とあなたも」
「ああ、ああ……恩にきるよフロンティアヌス、なんと言えばいいか……私に頼れるのはもうお前さんだけなんだ」
「もちろんだとも。だからあなたはこうしてここへ来た!
さぁ、一度城へ。まずは休まれて落ち着くのがよい。もちろんクオーレ国民達も」
そしてテーネロ王は住民達を見回した。
「皆、道を空けるように! 怪我のある者には手を貸してやってくれ」
住人達は、もう身を乗り出したりはせず沈黙したまま道を空けた。
やがてクオーレ国民達は舟を下りてきた。マーカスは嫌な汗をかきながら人々の間にサンディブロンドの長い髪を探した。
そのとき太陽の光に何かが鋭く光った。それは誰かの髪飾りだった。その方向をずっと見ていると、やがてマーカスの探していた色が姿を見せた。マーカスの心は喚起で満ちあふれた。
クライネ様は生きていらっしゃった! 良かった。本当に良かった。
それなのに、クライネの顔を見た瞬間にマーカスの幸福感は一瞬のうちにどこかへ逃げていってしまった。
クライネは酷い顔をしていた。
今にも泣き出しそうな顔でゆっくり舟を下りてくる。ドレスは薄汚れて髪にもいつもの艶やかさがなかった。マーカスは突然自分も泣き出しそうになった。
クライネが顔を上げ、二人の目があった。
マーカスは足を踏み出すことが出来なかった。王のいる前で姫を迎えるほどの身分ではなかったし、足がすくんでいた。
クライネの苦しみは想像すらつかない。マーカスはただクライネを見つめていた。
クライネはゆっくりマーカスの方へ足を向けて、二人は向かい合った。
喉がからからに乾いて言葉が出てこなかったが、マーカスは絞り出すように言った。
「クライネ……様……」
「っマーカス……!」
クライネが顔をゆがませた。マーカスは無意識のうちに両手をわずかに広げていた。
そこへクライネは飛び込んだ。クライネは静かに泣いていた。
マーカスはどうして良いか分からなかったが、そっと背中と後頭部に手を添えた。
「もう、大丈夫ですよクライネ様…」
マーカスが言うとクライネは声を上げて泣いた。マーカスは添えていただけの手に力を込めた。
誰もそれをとがめなかった。二人とも酷い顔をしていた。
だがそれは互いの命を心配し合う恋人同士の表情ではない。
クライネはただ唯一頼れる人間を前に泣き叫び、マーカスは主君を守ろうと腕を伸ばしているだけだった。だからこそ、誰も何も言わなかったのだ。
やがてクライネの声が小さくなると、マーカスはクライネの肩を抱いて城の方に向かせた。少し遠くで住民達の誘導をしていたクロウディウスが、マーカスの名を呼んだ。
クロウディウスはマーカスに頷きかけた。マーカスは一兵士としてクライネ姫を任せて貰ったのだった。そこでマーカスはクライネになるべく優しく声をかけた。
「参りましょう、クライネ様」
クライネは無言で何度も頷いて、まだうつむいていたがゆっくり歩みを進めた。その足取りは酷くおぼつかないものだった。
今ここに誰もいなければおぶって差し上げられるのに、そしたらどんなにいいだろうかとマーカスは考えた。城に付くまでの道のり、二人は無言だった。
多くの雑音がマーカスを苦しめた。すすり泣く声、絶望の言葉、ののしり合う者、狂ったように一人でしゃべり続ける者。それは見るに堪えない光景だった。
いったいクオーレでは何が起きたのだろうか。
クオーレはきっと、もっと見るに堪えない光景が広がっていたに違いない。マーカスにはうまく想像が付かなかった。また想像したくもなかった。
城には大勢のクオーレ国民が詰めかけていたが、テーネロ王の指示が行き渡っているおかげで人々はすんなりと入ることが出来た。
先刻までマーカスが食事をしていた大広間のテーブルやらイスやらは端へ追いやられ、かわりに毛布や着替え、水とパンが支給された。
マーカスがクライネの肩を抱いて大広間に行くと、先に戻っていたフラビウスが大広間の入り口に面している廊下から走ってきて二人に声をかける。
「マーカス! 姫をこちらへ」
「ああ、今行くよ」
マーカスはそう返事をしてクライネに声をかけて歩かせた。フラビウスは少し前を行き道案内をしながら、そわそわと何度も二人を振り返った。一行は階段をゆっくり上がった。
忙しげに飛び回る兵士達は3人のことを避けて激しく往来した。赤い絨毯の敷かれた薄暗い廊下を少し行くと扉が開け放されている部屋があった。
フラビウスが敬礼をしてから部屋に入る。続くマーカスも部屋の中をろくに見もせず敬礼して部屋に足を踏み入れた。
「ご苦労だったねマーカス君」
マーカスはしわがれて少し疲れた声にそういわれて、はじめてこの部屋に誰がいるのかを見て取った。マーカスは酷く慌てた。そんなマーカスにテーネロ王はほほえみかけた。
テーネロ王の隣にはクオーレ王もいた。マーカスは急いで二人に頭を垂れる。
「クライネ様をそのお椅子へ。さぞ疲れていらっしゃるでしょう」
テーネロ王が恐縮しているマーカスに指示を仰ぎ、マーカスは頭を上げクライネを振り返った。
「さぁ、クライネ様おかけになってください。疲れたでしょう」
声をかけても、クライネは返事を返さず、微動だにしないどころか瞳すら動かさずに立っていた。
「クライネ、しっかりしなさい」
クオーレ王が感情を押し殺したようにそう声をかけても、クライネはまだ立ち続けていた。
マーカスは仕方がないので少し肩をもって力を入れ彼女を座らせる。
そこでようやくクライネの瞳がマーカスをとらえた。
「何かほしいものはございますか」
「マーカス……」
「お腹はすきませんか?」
「ええ……すいたわ……」
「それは良かった。生きている何よりの証拠です」
クライネは、背もたれに寄りかかってマーカスを不思議そうに見ていた。
やはりまだ気持ちの整理も付かないようだし、記憶も混在しているようだ。
マーカスはクライネの手を取った。その手は硬く握られていた。
「さぁ手の力を抜いてください。そしてゆっくりお休みになられてください」
どうやらクライネは手の力を抜いたらしかった。マーカスはクライネの虚ろな瞳を見つめていたが、クライネの手首から緊張がほぐされたのを感じた。
しかしその瞬間にフラビウスが息をのんでマーカスの肩を強く握った。マーカスは驚いて肩越しに振り向きフラビウスを見る。
そしてフラビウスの視線の先を探った。フラビウスはクライネの手のひらを凝視している。またマーカスも同じように視線を向け、その手のひらを凝視した。
マーカスにはフラビウスが息の飲んだ理由がわかったし、自身も息をのんだ。手のひらには何か細かくて尖ったものがいくつか突き刺さって、血がにじんでいたのだ。
それはもともとは何か一つの個体だったものが砕かれて、手のひらに刺さっているように見える。そしてマーカスはその破片の桃色に、なにか見覚えがあった。
「――クライネ様…ひどいお怪我です。すぐに抜いて手当をしなくては」
だがクライネは訳が分からなそうにマーカスを見ていた。肝心の彼女は自分の掌がひどい状態にすら気付かなかったようだ。彼女はフラビウスの視線に気が付いて、ようやく自分の手のひらを見やる。
その瞬間彼女の目は大きく開かれた。
「なによ……これ」
「クライネ様、いつからこれを――」
「いや……いやぁああ!」
「クライネ様!」
クライネは突然立ち上がって、数歩よろけてあとずさった。
クライネは手のひらにこの世の終わりを見ているかのような、悲痛な表情を浮かべていた。
「やだ……うそ……こんなの違う……私の、最後の……」
「やめなされクライネ様」
テーネロ王が声を上げ、フラビウスが替わりにクライネをなんとか座らせようとしたがそれは出来なかった。フラビウスが助けを求めてマーカスを見た。
だが、マーカスは動けなかった。たった今、マーカスはあの破片が何であったのか思い出したのだった。
あれはクライネと海岸へ行ったときに、マーカスが選んだ貝殻だった。
「マーカス! おいマーカス!」
「そんな……」
いっこうに動かないマーカスに痺れを切らせたフラビウスはマーカスに頼ることを諦めたように視線を外した。そしてクライネは壁沿いにずるりと座り込んで、気を失ってしまった。
マーカスはクライネが急いで兵士達に運ばれていくのを、ただ呆然と見つめていた。
ここからは、まっすぐに進んできたマーカスが内面的に成長していくのである