6 変化
№6 変化
クライネと海へ行った翌日の夕方、マーカスは港を訪れていた。
その日はクライネがクオーレへ帰還する日だった。
だがクオーレの姫君の帰りを見送るのに訓練生であるマーカスが立ち会えるはずもなく、彼はそっとクライネの乗る船を見つめていた。そこは整備された港なので、海岸線は木の板が敷き詰められていて見えない。そういえば来年は板が腐る前に張り替え作業がある。
マーカスはそれを思い出して憂鬱な気分になった。
やがてクライネ達の一行が港に現れ、船に乗り込んだ。
ここからでは遠くて、服装と身長でしかクライネを判断できなかった。
マーカスはふと切ない気持ちになた。
自分が最低限のことをこなすこのダラけた生活を続けている限り、毎年こうやって遠目に彼女を見送ることになるのだ。
やがて船が出航した。マーカスは立ち上がって静かに昨日の海岸へ向かった。
クライネの乗った船は進み、港からそれた海岸からでも見つけられた。だがもう大きさは豆粒のようだ。昨日の海岸に着くと、マーカスはのびをした。
帰ったら父に軍団にはいるつもりだと伝えなくては。そしてそっと挙げた手を下ろした。
「――これは……!」
そして、マーカスは絶句した。海岸の砂浜には大きく「ありがとう」という文字が掘られていたからだ。傍らにはそれを書くのに使ったと思われる太い木の枝が転がっている。
相手の名前も、書いた人物の名前も書かれていなかったが、マーカスは何度も読み返したクライネの手紙の時を思い出した。きっと彼女に違いない。
最初の一文字は既に波に浸食されかかっている。
そして最後の一文字の隣に、貝殻が置かれていた。海岸なのだから貝殻などいくらでもあるのだが、その貝殻は細い枝で四角く囲まれていた。誰かが意図的に置いた証だ。
マーカスは、自分の腰まである太い枝を引きずりながらこの文字を書いて、貝殻を選んで歩き回るクライネの姿を思い浮かべて、笑った。
「はしたないですよ、クライネ様……」
そしてどこかの側近のようにそうつぶやいて、置かれていた貝殻を拾って再び港に戻った。
今度はクライネの乗る船が着けられた港より向こうの港へ向かった。
海岸線は弧を描いているので行き先の港はよく見える。
ちょうどそこには一隻の船が戻ってくるところだった。それはよく見慣れた船だった。
船はもうすぐに海岸に着くところだったので、マーカスはそれに間に合うように走っていった。
マーカスがその港に着くのとほぼ同時に船も海岸に止まった。マーカスはすぐに着けられた船に乗り込んで、魚の入ったカゴを持ち上げた。それに気が付いて、奥にいた漁師がひょっこり顔を出した。
漁師は焼けた肌と長年の笑みが作った皺を深めて、陽気に歌うように言った。
「おお、マーカスか! 来てくれるなんて珍しいじゃないか」
「父さんてば人聞きの悪い。朝はよく手伝っているでしょうが」
「ははっ、まぁな」
「これはこっちに持って行けばいい?」
「ああ、頼む」
漁師はマーカスの父だった、マーカスは父の指示に従って魚をおろした。
朝ほどの量は無いが、二人で持つのに精一杯の量の魚が捕れていた。これを夕方の市場で出すと、夕食に新鮮な魚を出したい女性が群がって買っていくのだ。
「それで、何かあったか」
父は大きなカゴを背負いながら息子に尋ねた。珍しく夕方の手伝いに来たのだから何か話でもあるのだろうと言いたいらしい。
マーカスもカゴを背負って「まぁね」と言った。二人は市場に向かいながら話し合うことにした。
「――軍団に行こうと思うんだ」
「はぁ、そりゃまた突然だな。今まで何も言わなかったから、てっきり漁師になると思ってたよ」
「それはまぁ……ごめん」
「別にお前が家業を継がなくても怒ったせんよ。前からそう言っていただろう?」
父は極真面目だが、陽気な笑みを浮かべて言った。
「今までは……ずっと迷ってた。訓練も真面目に受けなかったし、そのときは適当に家業を継げばいいと思ってた。だけど色々あって……どうしても騎士になりたい理由が出来た。
絶対に守らなくちゃいけない……守りたい約束が出来た。だから今日はその話をしに来たんだ」
父はしばらく黙っていた。マーカスはちらっと父を見た。今まで父は、マーカスに将来のことについてせかしたり意見を述べたことは無かった。こういう話を二人きりでするのも初めてなのだ。
なんて言われるんだろうか、とマーカスは少し不安になって視線を前方に戻した。そうしている間にも二人は市場について、父は商人に魚を受け渡した。商人は珍しくマーカスが居るものだから「おっ、マーカス! お前もとうとう漁師になる気になったのか?」とちゃかすように言った。
マーカスは苦笑いをしながら軽く受け流した。
「マーカス」
そんなマーカスに父が声をかけた。振り向くと、父が手招きをしていたのでマーカスは商人に軽く会釈をして後を追った。
父が向かったのは、軍団訓練生が最初に集められる噴水の前だった。父は噴水の縁に座った。マーカスも隣に腰掛けた。ここにこうして座り込むのは久々だった。
当時のことを思い出してみると、何も出来ないようなガキがよくもまぁ同い年相手にあんな大口をたたいた物だと思って恥ずかしくなる。
そんなマーカスをよそに父はいつの間に手に持っていた二本の瓶のうち一本をマーカスに渡した。透明な瓶には赤々としたワインが入っていた。
見ればわかるのだが、マーカスは念のため言ってみた。
「なんだこれ」
「ん? 酒」
「母さんに怒られるだろ」
マーカスは顔をしかめた。それなのに父は瓶を返そうとするマーカスにそれを押しつけた。
「いいんだ。あんま酔わないやつにしたから、な? 祝いだよ祝い」
「何かめでたかったのか?」
「お前が自分の将来をちゃんと自分で決めた。父さんにとっては祝いたくもなることさ。自分で決めた道だ。そのために、明日からもがんばれよ」
父はマーカスの頭にぽんと手を置いた。マーカスは気恥ずかしくなってその手を振り払ってそっぽを向いたが内心は嬉しく思い、瓶のふたを開けて祝いの酒を飲み干した。
***
翌年クライネが訪れたとき、マーカスは同じ訓練生の中でも最も優秀な兵士になっていた。
もともと器量は良い方なのだが、それに加えて毎日訓練後も一人で槍投げの練習をした。
マーカスは槍投げが酷く苦手だったのだ。だがそれも他の皆よりも秀でてくると――槍投げが一番得意なフラビウスがよく練習に付き合ってくれたおかげだ――今度は弓に練習時間をおくようになった。
これは必須ではないのだが騎士を目指すならあった方が有利なのだった。
だがさすがのフラビウスも弓には詳しくないようで、二人はそろって唸りながら色々やってみた。試しに矢を射ると数メートル先で力なく落ちたので二人は顔を見合わせて大声で笑った。
しかしその笑い声が幸いした。近くを徘徊していた教官の一人が二人に気が付いて弓の使い方について教えてくれたのだ。
そうして一年を過ごすうちマーカスはとうとう一番技術のある訓練生になっていた。
その年、マーカスは再びクライネと海岸へ行き、翌日には彼女の乗馬の練習を手伝った。マーカスの助言は他の誰の助言よりもクライネによく伝わった。
それまで誰がどう教えてもクライネはうまく馬に乗れなかったのだがその日一日で彼女は苦手を克服することが出来た。
これにはクオーレの騎士達も舌を巻いた。誰もがマーカスをクライネの側近に、と思った。
側近になる者に必要なのは強さだけではない。
主へ物事を伝えること、主への忠誠心、主の良くない行いを正すこと、主を支えること、また二人の間に強い信頼関係があること。マーカスは若いながらも全てを満たしていたのだ。
だがそれはかなわぬ事だった。二人は他国の者同士だからだ。クオーレの騎士達はそれを誠に残念に思った。
このときマーカスは17歳で、訓練生としての生活は残り一年となっていた。
それに加えてもう一年騎士訓練生用の訓練を受ければ晴れて騎士になれる。マーカスはこの年もクライネの帰りを遠くから見つめて見送った。
マーカスにとって大切な耐える時間