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ホワイト・レイン  作者: ラニスタ
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5 海

美しき思い出

5 海


 長い冬を越えて、花が咲き乱れる時期になった。

マーカスは大きくあくびを漏らした。春は眠い。心地の良い風と懐かしい風が吹く季節だ。

だが例年と違ってマーカスはいやにそわそわしていた。まるでこの春から訓練をはじめる少年のように。周りの皆はマーカスがそわそわしている理由を知らないが、フラビウスだけはなんとなく分かっていた。そしてマーカスをそわそわさせている人物が城を訪れたらすぐにマーカスに遣いを送って城に招こうと決めていた。だが、どうやらその必要はなさそうだった。

 フラビウスは訓練の始まる前に、クライネを乗せているはずの馬車が城に到着するのを見ていたのだ。本来ならば一国の姫君は壮大に歓迎すべきだがクライネが遠慮した為、馬車は少しだけ多くの護衛を引き連れていただけだった。

そのおかげで、フラビウス以外はクオーレの姫が来たことにはまったく気がつかないでいた。


 前半の訓練を終え皆が昼食にありつき後半の訓練が始まった頃、クライネはこっそり訓練場の方へやってきた。

フラビウスが皆に気がつかれないよう、ごく自然な動作で会釈をするとクライネも小さく手を振って返した。

クライネは庶民と同じような質素で丈の長いチュニックを着ていて、頭から布を深く被っていた。

彼女は訓練場を取り囲んでいる、木を組んで作った仕切りの外から訓練の様子を眺めていた。

彼女はとりわけマーカスばかり見つめていた。フラビウスはそれを見て笑いたくなったのを必死に我慢して、訓練に取り組んだ。

 訓練が済むと、皆はいつものようにさっさと帰っていく。

マーカスはクライネが来ていることなどまったく気がつかず――というのも彼は訓練中仕切りの内側に対しては注意深いくせに、外側のことなど全くの意識外であったからだ――木陰に座り込んで槍磨きに励んだ。フラビウスはそんなマーカスに声を掛けてやった。


「おいマーカス」

「ん?」


マーカスはフラビウスに一瞬視線を貸しただけですぐに手元に集中してしまった。

フラビウスはもう一度言ってみた。


「おいマーカスよ」

「なんだよ」


マーカスはフラビウスがいつものようなどうでもいい話を聞かせてくるのだと思ってそのまま槍を磨いている。

その間にも、クライネは訓練場をぐるりと見回して余計な人物が居ないことを確認すると仕切りを超えて入ってきた。

その瞬間に、マーカスはさっと顔を上げて槍を構えた。突然の事に驚いてフラビウスは飛び退いた。


「おい、危ないじゃないか」

「あ、ああすまない……急に人の気配を感じたからつい。でもただの少女だった」

「さぁ、果たしてただの女性かな?」


フラビウスはわざとらしくそういった。マーカスは入ってきた少女をもう一度よく見てみた。

少女は被っていた布をおろして、マーカスに笑いかけた。

距離はあったが、マーカスにはそれが誰なのかすぐに分かった。

マーカスはバッと立ち上がって走り出していた。


「マーカス!」


クライネが先に名前を呼んだ。マーカスはあまりに急いで駆けていたものだから、クライネの前で急停止できずに彼女のまわりを一周した。

それから彼女の正面に戻ってきて、口を開けたり閉めたりした。


「まぁ、まるで魚みたいね」

「あ、いえ。最初になんと申し上げたらよいのかわからなくて……」


マーカスは照れくさそうにそう言って、クライネの手を取った。


「お会いできて光栄です、クライネ様」

「私もよマーカス。ずっと今日を楽しみに思っていたの」


クライネは手を握り返しながら幸せそうに笑った。

クライネは一年前より背も髪も伸びていて、風貌も振る舞いもすこしだけ大人になって見えた。


「一目みただけでもとても大人らしくなったように感じます」

「うそこけ、一目見たときは「ただの少女だった」といったじゃないか」


あとから遅れて歩いてきたフラビウスが口出しすると、マーカスは申し訳なくなって苦笑した。


「最初にこちらを見たとき、私だと気がつかなかったの?」

「ああ、いえ決してクライネ様を忘れてしまったわけではないのです。

本当に遠くからだと一般の人のように見えて……」


マーカスが言葉を濁しているとクライネは笑った。


「ならよかったわ。私もちゃんと普通の人に見えるようになった訳ね」


クライネは嫌味を込めるわけでもなく言った。それを聞いて、マーカスとフラビウスも笑った。

笑いがようやく収まったところで、マーカスが言った。


「いつまでいらっしゃるんですか?」

「3日間なの。でも明日は海に連れて行ってもらえる約束をしたわ。

ぜひマーカスにも付いてきてもらいたいの。大丈夫かな?」


クライネは遠慮がちにそういった。マーカスは海に一緒に行けるとは思っても見なかったのですぐに答えた。


「もちろん、家中の家事をほっぽり出してでも、必ず行きますとも!」

「あら、それは悪いことだわ」

「ならば明日の朝は早く起きて洗濯まで終わらせてしまいましょう」

「明日、頭に洗濯バサミをくっつけてこないようにな」


フラビウスの一言にクライネが笑って、マーカスは「1年前の話じゃないか!」と赤面して言った。

憤慨して見せたものの内心マーカスは明日が楽しみで仕方なかった。


 翌日、マーカスは自分で言ったように早く起きて――というよりも早く目が覚めてしまったのだ――洗濯をしてすべて干してしまった。起きてきた母はかなり驚いていた。

しかしマーカスは自分で思っていたよりも訓練は集中して受けることができた。訓練が終わり皆が帰ると、昨日と同じようにクライネがやってきた。クライネの後ろには数人の騎士が付いている。

クライネが手を振ってよこすのでマーカスとフラビウスもそちらに赴いた。


「こんにちはクライネ様」

「うん、こんにちは!」


クライネは礼儀上マーカス、フラビウスと握手をすると挨拶もそこそこにすぐに歩き出した。

後ろをついて行った方が良いかと思ったがクライネが歩調をゆるめてマーカスに声を掛けたので、マーカスは少し遠慮気味にクライネの隣を歩いた。

マーカスの隣にはフラビウスが歩くことになった。フラビウスは遠慮気味のマーカスに気を遣ったつもりらしかったが、よくよく考えてみればマーカスは今二人の王族に挟まれて歩いているのだった。

フラビウスは親友であるものの、今だけは王子であることを意識せざるを得ない。

 数十分歩くと、一行は海岸沿いの道に出た。

マーカスの父は漁師なのでマーカスはこの辺りのことをよく知っていた。


「このまま東に行くと船もない静かな海に出ますよ」


先頭を歩いていた騎士はクオーレの服装だったので、マーカスはそう教えてやった。

クオーレの騎士は陽気な笑みを浮かべていった。


「クオーレは港ばかりで静かな海がないのです。私どもにとってはさぞ、新鮮でしょうな」そしてマーカスの指さした方へ歩いていった。

それに続くと活気のある港は途切れて整備の行き届いていないような砂浜に出た。

クライネが砂浜に足を取られて転びそうになったところをマーカスが支えてやった。


「ありがとう」

「いえ。気をつけてください。私は歩き慣れているので大丈夫なのですが、転んで靴に砂が入ると非常に暑いのです」


それを聞くとクライネはしゃがんで、砂に手を突っ込んだ。


「暖かいわ。あ、奥の方は湿っているのね」


マーカスにとっては当たり前のことなのに、クライネはさも珍しいと言いたげに笑った。

きっとクライネ様は整備の行き届いた道しか歩いたことがないのだろうな。

マーカスはそう考えた。クオーレの騎士がいやに落ち着かない様子でクライネのことを注意深く見ているのが良い証拠だ。

マーカスはせっかくだからもっと色々知ってほしいと思って、近くに転がっている巻き貝を手に取った。それは螺旋状に筋が入っており、手の中にちょうど収まる白い貝だった。


「クライネ様は貝を拾ったことがございますか?」

「いえ、ないわ!」


クライネは砂に手を突っ込んだままマーカスに顔を向けて言った。


「巻き貝に耳を当てると、波の音がすると言われているのですよ」


そういうとクライネは目をぱちくりさせた。マーカスが拾った貝を渡してやるとクライネはすぐに耳に当ててみた。

口々に話していた騎士やフラビウスもそれをみて話すことを止めてみた。

クライネは顔を輝かせて興奮したように言った。


「本当だわ!波の音がする」

「クライネ様、ここでは耳から貝を離しても同じ音がしますぞ。なにせ海岸ですからな」


クオーレの騎士が笑いながら言うとクライネは顔を真っ赤にしてマーカスをみた。


「だましたのね、ひどい!」

「だましたのではございませんよ! 本当にそういう話があるのです」


マーカスは口元を押さえてこらえながら言った。

クライネがむっと頬をふくらますのでマーカスも我慢できなくなって声を上げて笑った。


「もう、しらない!」


クライネはわざとらしく言って走り出していってしまった。

クオーレの騎士が、はっとして追いかけだすが砂浜に足を取られて転んでしまう。クライネは横目でそれを見たらしく、少し離れたところから声を上げて笑っていた。

 塩の香りの風が彼女の白いチュニックと、高いところで結ってある美しい髪を揺らした。

傾きかけた夕日がそれを橙色に染め上げる。

マーカスは一瞬、その光景に見とれていた。だがすぐに気を取り直してクライネを追いかけた。

 クライネはマーカスが走ってくるのを見るとまた急いで走り出す。

そして靴を脱ぎすててまだ少し冷たい海に足を入れ、チュニックの裾をたくし上げてくるくるまわった。


「姫様ー! はしたないでよー!」

「今日だけゆるしてー!」


クライネはフラビウスに叫び返した。

その間にもマーカスはクライネに追いついた。


「クライネ様、濡れて風邪でも引かれてしまってはたまりませんから戻ってください」

「いやよ。だって濡れた足じゃ砂がいっぱいつくもの」


クライネはいたずらっぽく笑って言った。

しかしその直後まだ手に持っていた貝を海の中に落としてしまいあわてふためいた。マーカスはクライネに動かないよう言った。

クライネが今チュニックから手を離せば裾が濡れてしまうからだ。

そしてかわりにクライネの足下を探ったが、貝は流されてしまったらしかった。クライネは顔をしかめて残念そうに言った。


「せっかくマーカスが拾ってくれたのに、もうなくしちゃったわ」

「貝なんていくらでもありますよ。新しいのを一緒に探しましょう」


マーカスはそういって、濡れてしまうのを気に留めずかがんだ。


「ほら、お約束通りに」


マーカスが言うと、クライネは意味が分かったらしくマーカスの背中に負ぶさった。


「う、重い……」

「失礼ね」

「冗談ですよ。ちっとも重くなってないし、今日のために訓練も真面目に受けましたしね」


マーカスは笑いながら言った。音を立てながら海から上がる。

それからクオーレの騎士に任せてくれという変わりに目配せをした。

クオーレの騎士はマーカスを頼もしそうに見て、フラビウスが退屈しないように彼に話しかけた。

聞こえてくる内容は政治の内容なので退屈しないかどうかは何とも言えなかったが。

 マーカスはわずかに振り向いて「どのようなものがお好みで?」と尋ねた。


「マーカスが私に選んでくれたら何でも良いわよ」

「それは一番困る回答ですね……」


 ここはあまり人の立ち寄らない海岸なので貝は大小様々な物が落ちている。

マーカスはぶつぶつと貝の種類を述べながら歩いてまわった。クライネが尋ねた。


「マーカスは海に詳しいの?」

「いえ、たいしたことではありません。父が漁師で、時々その仕事を手伝うのでちょっとばかり他の人よりも詳しいと言うだけです」

「ではマーカスは漁師になるの?」

「いえ……」


マーカスは網を引っ張って大声を張り上げている父の姿を浮かべながら曖昧な返事をした。


「父には騎士になるか漁師になるかは自分で決めればいいと言われているので……どうとも言えないのです」


 訓練生でいられるのは今年を合わせてあと三年だけだ。

そろそろ今後のことについてきちんと父に伝えなくてはならないのだが、マーカスはいつまでも渋って決められないでいたのだ。

クライネはマーカスの肩に置いていた手に少しだけ力を入れた。


「マーカスはいまいくつなの?」

「15歳です。もうすぐ誕生日なので訓練が終わるのが17歳のはじめで、もし騎士になるとすればそれからもう一年その為の訓練を受けます。19歳になる頃には騎士になることができるでしょう」


「なら惜しかったわ」


クライネが言った。マーカスは何が惜しいのかよくわからず、足を止めた。


「私は17歳のうちに自分の側近を決めることになっているの。

そのころにはマーカスは19歳だから、もしマーカスがクオーレの生まれだったら私はマーカスを指名できたのに、と思って」


マーカスはクライネの言葉に耳を疑った。

動揺した。

どのように返せばいいのか分からなくなったのだ。

なぜ自分はこれほどまでに動揺しているのだろうか。

マーカスはごまかすように上半身を下げた。クライネが驚いて声を上げた。


「もう、びっくりするじゃない」

「びっくりしたのは私の方です。そのようなことをおっしゃらないでください」

「私じゃ仕えたくないの?」


クライネが少し寂しそうな声で言った。

マーカスはクライネをしっかり背負って上半身を起こした。


「そんなはずありません。クライネ様にだったら、生涯尽くして使えても良いと思います」


マーカスはほぼ無意識のうちにそういった。そしてなぜ自分が動揺したのかを悟った。

クライネのあり得ないような意見が現実だったら良かったと、マーカス自身も思ったからだ。

 マーカスはかがんだ時に拾った桃色の巻き貝を、クライネに差し出した。


「クライネ様。私は『生涯お仕えしたい』なんて言ったことが今までありませんでした。

それなのにたった今、その言葉はごく自然に出てきた

。自分の言葉を振り返ってみるけれど後悔したような気持ちはありません。

私だってあなたに仕えたかったのですよ」

「うん……」

「しかし、もし私がクオーレの生まれだったらきっと私はあなたと出会うことはなかった。

だからこれでよいのです」


クライネは、マーカスの肩に顎をつけたまま頷いた。マーカスは苦笑しながら言った。


「では、もう日も暮れて寒くなって参ります。城に戻りましょうか」


マーカスはクオーレの騎士やフラビウスの居る方へ向きを変えた。


「マーカス」

「はい、なんでしょう」

「側近にはなれなくても、毎年会ってくれる?」

「もちろん」

「でも、今は子供だからこうして会うことも簡単だけど……だけど大人になったら一般市民で、しかも国も違うマーカスと会うことは難しくなっちゃうにちがいないわ」


クライネはひどく残念そうに言い、マーカスもそれをひどく残念に思った。

だが毎年会うことができる方法を、二人は知っていた。マーカスは言った。


「ならば私が立派な騎士になりましょう! 

姫が来国なさったとき、護衛を任せてもらえるくらい立派な騎士に。

そうお約束します」


マーカスは大きな声でそういった。それはクオーレの騎士達やフラビウスの耳にもしっかり届いていた。そしてマーカスは、クライネを背負いなおして砂浜を走り出した。





この章が一番楽しかった。

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