3 思い
№3 思い
クライネは、走り出しそうになって我慢した。
今日はクオーレへの帰還の日だった。滞在期間は短かったので結局海には行けずじまいだったが、よく考えてみればここへ連れてきて貰っただけでもありがたいというものだ。クライネはマーカスと出会ってからそうやって大人らしく考えてみようと思うようになった。
マーカスとはあの数分間しか共にいることはできなかったが、彼はきっと来年クライネがテーネロへ来ても自分を覚えてくれているという確信がクライネの中にはあったのだ。
「どうしたクライネ、今日はやけに静かだな」
一日掛けてクオーレの城へ帰還し、すぐに父に挨拶に行くと彼はそういった。
「父上、今まで悪い子でごめんなさい」
クオーレ王は、目を瞬かせてから声を上げて笑った。
クライネはそんな王を不満げに見る。王はクライネのふくれっ面を見て弁解するように言った。
「いや、すまない。まさかお前からそのような言葉が出てくるなどとは思いもしなかったのだ。何かあったのか?」
王はクライネに手招きをしながら柔和な笑みを浮かべてそう尋ねた。
クライネはまた走りそうになるのを我慢して歩いて父の元へ向かった。父はそれを見て片方の眉を上げた。
「いつもは走るのに」
「もう大人しくするの」
クライネが座っている王の前まで行くと、二人の目線の高さは平行になった。
「あのね、昨日男の子に会ったわ」
「ほぅ、どんな?」
「軍団の訓練生で、フラビウスと同い年の男の子なの。その人と、来年はいいこになるからまた会おうねって約束したんだよ」
「そうか、そうか」
王はクライネがまた一人で城を抜け出したところを、その少年の厄介になったに違いないと思いながら相槌を打ち、クライネの手を握った。
「それは、とてもいいことだ」
「うん。だから私がいいこでいられたら、また来年行かせてほしいの」
「それはもちろんだ! だがね、クライネ」
クライネは一瞬輝かせた笑顔を瞬時に元に戻して父の言葉に耳を傾けた。
「いいこで居ることと、大人しいことは別問題なのだよ」
「どうして?」
「いいこというのは、みんなに迷惑を掛けない人のことを言うね。
だけど大人しくなってしまったらクライネらしさが欠けてしまう。クライネの笑顔が、私やみんなに元気をくれる。
だからもっと周りを考えて行動できれば、クライネが大人しくなる必要なんてないのだよ」
クライネは、なぜかその言葉にほっとした。
大人しくしていようと思い立ったものの本当に実践できるか自信はなかったのだ。クライネは父に飛びついて「じゃあそうするわ」と言って笑った。
クライネは色々やってみることにした。
勉強も真面目にやって、料理や裁縫も空いた時間で教えて貰った。だが元々はそれらを嫌い、暴れてだだをこねていたクライネだ。
十歳の彼女に、今までとは真逆のことをやり続ける生活が長く続くはずもなかった。
だいぶ耐えたものの、一ヶ月とたたないうちにクライネは暴れ出した。
「ぐわぁああ! もう無理、死ぬわ! さようなら父上ー!」
「お待ちくだされ姫様ー!」
「離してじぃ! 私は楽になりたいのよー!
「誰か手を貸せ、姫様を取り逃がすなー!」
久しぶりに暴れるクライネに皆は少し手間取ったが、すぐに近くにいた女中がクライネを後ろから羽交い締めにして押さえ込んだ。
クライネは罠にかかった狼のように息を荒くして体を振って逃れようとした。
「お願いせめて走らせて! このままでは爆発しそうだわ」
「よろしいでしょう、しかし走るなら外にしてくだされ」
「外には出ちゃいけないって言うくせに!」
「そんなことを言っている場合ではありません。
皆、クライネ様を良く見張っておくのだ!」
女中は、そっと手の力を緩めた。
クライネは驚嘆して自分が動ける状態になったことにも気がつかなかった。今までこんなことがあっただろうか?
「じぃ、父上に怒られてしまうわよ」
「かまいませぬ、クライネ様の気が済むのであればこのじぃ、甘んじてお叱りを受けましょうぞ」
じぃは、ピンと背筋を伸ばして胸を張った。
「……じゃあ我慢するわ」
「おや、まぁなんということでしょうか! 何を遠慮なさっているのです」
「だって、良い子は人に迷惑を掛けないもの」
クライネは久々につんとした態度で皮肉そうにそういった。
じぃは、本当の自分の孫を見るようにクライネに優しい笑みを向けた。
クライネは目線だけ上げて、口を尖らせたままそんなじぃを見やった。
「クライネ様、じぃは今までにないほどあなたが頑張っていらっしゃるのを見てとても嬉しかったのですよ。けれど無理はいけません。
あなたは急にがんばりすぎたのです。勉強も裁縫もお料理も、全部一気にやるのは無茶というものです」
「でものんびりしていては来年に間に合わないもの」
クライネは、あの笑顔で語りかけてきた少年を思い浮かべた。
マーカスも、今頃頑張っているのだろうか。
それとも自分のことなどはあの日一日のうちに忘れてしまっただろうか?
「一年間で一人前などにはなれませんぞ。そんなにもあの少年のことが気になるのなら一度手紙を送ってみてはいかがでしょうか」
「手紙?」
いったい何を書けというのよ、たった一瞬話しただけの異国の相手に。クライネはそう思った。
その一瞬でマーカスのことを忘れられなくなったくせに、クライネはどこか弱気だった。
一ヶ月経ってくると記憶はだんだん霧がかかったように曖昧になってきて、話した内容は覚えていてもどんな口調で受け答えしたのか記憶が怪しくなってきた。
本当はマーカスはあんな風には答えていなくて自分の記憶違いかも知れない。クライネはもう一度、今度は丁寧に「手紙ですって?」と言った。
「ええ、そうですよ。いっぺんに頑張ってみたら我慢ならなくなったので、どれからやるのが一番良いのか聞いてみたらいいのです。
手紙はフラビウス王子を通じて彼の手に渡るでしょう」
クライネはうーんと唸って考えてみた。
それからあまり晴れない表情のまま頷いて見せた。
マーカスへ
お元気ですか。
クオーレでは赤くてかわいらしい花が咲く時期になりました。
あの花はテーネロでも咲くのかしら?
赤くて、白い斑点模様が付いている花なの。
私は一ヶ月前あなたに言ったとおり良い子になるために頑張ることにしました。
あのときマーカスに出会って、私は変わりはじめている気がするの。
けれど勉強も料理も裁縫も、いっぺんにやってみたらすごく疲れてしまいました。
じぃにもいっぺんにやるのは無理だと言われちゃったわ。
今までこんな風に思い悩んだことがないからどうして良いか分からないの。
まず何からはじめたら、私はいいこになれるのかな?
来年こそは海に行きたいなぁ。
それにまたマーカスにおんぶしてもらいたいわ。もちろんじぃには内緒だけど。
マーカスは今、何を頑張っているの?
クライネより