悪役令嬢登場
「嫌です、行かないでください」
去っていこうとするマティアスの上着の裾を、直樹は引っ張った。
「ユリア、どうしたんだ? 子供みたいなことを」
困ったようにマティアスが笑う。
「置いていかないで」
直樹はどうしてもマティアスの裾を手放せなかった。
「また夕方の舞踏会のときには迎えにくるから」
目を潤ませる直樹を、マティアスはそう言って宥める。
そんなことはわかっている。それと、おっさんが目を潤ませて美青年を引き止めるなど、地獄絵図だということも。
だが、直樹はどうしても、この空間に取り残されることが耐えられなかった。
「そんな顔しないで」
マティアスが直樹の頭をぽんと撫でた。残念ながら、ガチガチに施されたヘアセットのせいで、彼の柔らかい手の感触は頭皮には届かない。
「案外甘えん坊だな、君は」
妹とは大違いだ、と、直樹にしか聞こえない小声でマティアスが言う。
彼は少しだけ悲しそうな顔をしていた。
ああ、そうか。
妹さん、行方知れずだもんな。
今までマティアスは、その事実を淡々と伝えるだけで、そこに感情を差し挟むことはなかったけれど。
そりゃ辛いに決まってるよな。
そんなことを考えていて、直樹の気がマティアスの服の裾から逸れたタイミングで、マティアスは一歩直樹から身体を離した。
「また夕方には会えるから、それまで他の姫君と仲良くしていろよ」
もう一度直樹の頭を撫でると、マティアスはそう言って扉の向こうへ消えた。
直樹の手が空しく宙をさまよう。
「あ……」
いつまでも扉を見つめているわけにもいかず、直樹は、お城の一室にしてはさほど広くない室内へ向き直った。
別に甘えん坊だとか寂しん坊だとかそういう問題じゃなくてだな。
心の中でぶつぶつ呟きつつ、直樹は部屋を見渡す。
広い部屋ではないとはいえ、ここはお城。敷き詰められた深い蒼色の絨毯や、高い天井にぶら下がるシャンデリアには目を見張るものがある。
そして、シャンデリアの光の下、青い絨毯に咲く、色とりどりのドレス。
ここは、王宮へ集められた姫君達の控え室のような場所である。
夕方に開かれる舞踏会、つまり社交界デビューの刻を、姫君達はこの部屋で待つのだ。
怖い。怖すぎる。
直樹は身を震わせる。
集められた姫君の年の頃は(直樹ことユリア・リーネルトも含め)皆16か17。
現代日本では、ちょうど女子高生の年代だ。女子高生とは、これすなわちおっさんの天敵である。
もちろん彼女達は、あのやたら攻撃力が高そうに見える制服を着ているわけでもないし、付けまつ毛とカラコンで武装しているわけでもない。しかし、あの華やかなドレスが、王宮へ上がるための装いであることを考えると、ドレスが制服と同義だと言えないこともない。
何だよこれ。女子高生(の年代の女の子)満載の密室におっさん一人とか。エレガントな親父狩りかよ。
早くも近くの女の子と話を弾ませている姫君もいるが、直樹にはそんな芸当は到底できない。だって、おっさんが女子高生に話しかけるなど、下手をすれば事案発生である。
美少女の姿をしたおっさんは、隅っこのほうで所在なげに視線をさまよわせた。
「ん?」
直樹の視線が、ある一点を捉える。
「なあエルマ」
同行を許された侍女、エルマにこそっと話しかける。
「どうなさいました? というかまたそのお言葉遣い! 内なるおっさんが封印を打ち破っていますよ、ユリア様」
仕方ないだろう。これが本体なんだから。まあ、今はそれはいい。
「何かすごい子がいる」
周りにバレないよう、直樹は低い位置でそっと指差した。
「え? あ、うわぁ……」
エルマが思わず感嘆の息を漏らす。
「昇天ペガサスミックス盛り」
必殺技のような言葉が桜の花弁のような可憐な唇から飛び出した。通勤電車の中でネットサーフィンをしていたところ、たまたまその画像を見つけ、最近の若者の言葉の乱れとヘアースタイルの進化に衝撃を受け、それ以来何となく頭にこびりついていた言葉である。まさかこの異世界で越えに出して呟くことになろうとは。
「ペガサス……、え? 何ですか?」
エルマが困惑顔で主を見つめる。
「いや、何でも……。ただ、すごいなと思って」
その人は、ゆったりと椅子に腰掛け、幾人もの侍女にかしずかれていた。爪のお手入れをする侍女が両手に一人ずつ。その他、メイクを直す侍女が二人、肩をもむ侍女が一人、乳母らしいおばちゃんが一人。他の姫君がせいぜい二、三人ほどしか侍女を連れていないにもかかわらず、である。
重力を無視して昇天ペガサスミックス盛り、あるいは全盛期のマリーアントワネットのごとく盛られた髪は、燃えるような赤色。彼女が身にまとうドレスもこれまた燃え上がるような深紅で、細いウエストを強調するためか、スカートのボリュームが他の姫君の1.5倍ほどもある。絨毯の青と彼女の深紅で目がチカチカする。
「やばい。ペガサスこっち見てる」
ギャルに睨まれたおっさん、もとい蛇に睨まれた蛙よろしく、直樹は身をすくませた。
大女優、あるいは女王の風格を漂わせて、彼女がおもむろに立ち上がる。その間も、視線は何故か直樹に向けたままだ。そして、そのままこちらに近づいてくる。その後をコバンザメのように侍女が追う。
「ご、ごきげんよう……? 初めまして」
直樹は引き攣った笑みで何とか挨拶の言葉をひねり出し、スカートをつまんで頭を下げた。
例えが微妙に古いあたりが実におっさんですね