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「明日は大事な日なのですから、早めにお寝みくださいね」
風呂上がりの主の世話を甲斐甲斐しく焼いた後、そう言ってエルマは部屋を出て行った。
「早めに、ねぇ」
その重厚な見た目に反して遠慮がちな音で閉まった扉を見つつ、直樹は呟く。
「今何時だと思ってんだよ」
完全に素の口調での言葉だが、声色はとても可憐だ。
慣れられない。見た目ももちろんだが、何よりこの声に、毎回喋る度ぎょっとする。
時刻はまもなくてっぺんを越えようとしている。
こんな時間になってしまった原因として、まず、この長い髪がひとつ。細い背中を流れ、腰まで届くこの髪を乾かすのは毎回至難の業である。生憎、この世界にドライヤーなどという気が利いたものはない。
それから、明日のXデーに備えて、当人よりもエルマが張り切って、化粧水やらボディミルクやら、よくわからないがやたら良い匂いのするものを塗りたくってきたのがひとつ。
世の女性は睡眠時間を削ってまで、こうしてお肌のケアをしているのかと思うと頭の下がる思いだ。
白いネグリジェを着せられた直樹は、甘いアロマの香り漂う天蓋付きのベッドで早々に眠りに落ちた。
と、思ったのも束の間。おはようございます、というエルマの声に起こされたのは、直樹の体感時間では1時間も経っていない頃だった。
しかもそのわずかな時間に、今年入ってきたゆとりの新人君に飲み会の分の残業代を請求される夢まで見た。最悪だ。
「今何時……」
眉をしかめつつ、エルマに訊ねる。
「4時前ですわ、ユリア様」
ふざけるな。さすがに1時間ということはなかったが、それでも3時間ちょっとしか眠れてないではないか。
俺は乙女ゲームのヒロインになったのであって、3時間睡眠がモットーのどっかの皇帝じゃないぞ、と直樹は心の中で愚痴る。
大体、身体が若返ったせいか、この世界に来てから異様に朝が眠いのだ。
「あと2時間……」
そう言って、直樹は再び布団を頭から被る。しかしその布団は、娘ほどの年齢の侍女の手によって無情にもはぎ取られた。
「あと5分とかならまあ分かりますけど、2時間って何ですか2時間って。
王宮へ上がるお支度ですよ。今からでもギリギリです」
呆れ口調でそう言うエルマは、すでにぴしっと髪をセットして、侍女のお仕着せに身を包んでいる。
何だこいつは。早起き教の教祖か。
無理矢理叩き起こされた後には、更なる地獄が待っていた。
複雑かつ華やかなヘアアレンジのために、頭皮がこれでもかと引っ張られる。
ドレスが映えるようにと、ものすごい力でコルセットを締められる。その威力たるや、もしかしてユリア姫はこいつの親の仇とかいう伏線でもあるのかと邪推してしまうほどである。
身支度という名の拷問もようやく終わりに差し掛かったころ、扉が遠慮がちにノックされた。
「そろそろいいかな、ユリア」
深みのある優しい声。この邸の主、マティアス・フォン・リーネルトである。
彼の呼びかけに応じて、エルマが扉を開けた。
そして、どうです私の作品は、と言わんばかりに、直樹に視線を流す。
「ユリア……」
マティアスが息を呑む。
「何か、変でしょうか」
そわそわしながら、直樹は実に控えめなヒロインらしい台詞を口に出した。確かに見た目は美少女だが、直樹の認識ではおっさんがドレスを着せられているのだ。控えめにもなる。
細い三つ編みをいくつも作り、複雑に結い上げられた髪。その碧い目と処女雪の肌に映えるようにと選ばれたアイスブルーのドレス。きらびやかな装飾品の中でもひときわ輝く花のかんばせ。
「いいや」
視線は妹(仮)に向けたまま、マティアスは首を横に振る。
「とても、綺麗だ」
サラサラの金髪を適度な空気感を持たせて後ろに流し、貴族としての正装に身を包んだマティアスは、そう言ってはにかんだように笑う。
あ、えくぼ。
どうでもいいことを考えながら、直樹はそっとマティアスから視線をそらした。そんな照れながら言われても、反応に困る。
コホンとひとつ咳払いをして、マティアスは直樹に恭しく片手を差し出した。
「じゃあ、行こうか。姫」
うわ出たよ、胸キュンシーン。そういや血の繋がらない兄であるこいつも攻略対象だったか。確か麻里奈は3周目はこいつでプレイするとか言ってたっけ。
マティアスの胸キュンワードではなく、コルセットのせいで苦しい胸を押さえ、空いたほうの手を差し出された彼の手に乗せる。
マティアスにエスコートされ、直樹は人生初の馬車に乗り込んだ。割と揺れる馬車と、コルセットとヘアセットの締め付けとが相まって、直樹はここでも地獄を味わった。
高台にそびえる宮殿に着いたときには、もはやおっさんのライフはゼロに近かった。
イケメン? 悪役令嬢? そんなもん知るか。一刻も早くこのコルセットをむしり取って、髪飾りも全部放り投げてパンツ一丁になりたい。そしてビール飲みたい。
まるでおとぎ話のような白亜の宮殿。イケメンにエスコートされながらその中へと足を踏み入れる。
女の子ならば誰もが一度は夢に見るような乙女ティックパラダイスを今、実地で体験している直樹の偽らざる本心は、身も蓋もなかった。